第6話
【大陸暦一二二五年九月中旬】
王都の社交シーズンも本格化し、夜ごと豪華な馬車が石畳を鳴らして行き交うようになった。
今夜はロートヴァイス侯爵家が主催する、大規模な社交パーティーが開かれる。王都の名だたる貴族が集う華やかな宴。私も王太子殿下の婚約者として、その中心に立つ義務があった。
「お嬢様、本日のドレスはこちらでよろしいでしょうか」
マリアが淡い青のドレスを差し出してきた。穏やかな笑顔。けれど私は知っている。その純朴そうな仮面の裏で、彼女がセシリアに私の動向を逐一報告していることを。
「ええ、素敵ね。ありがとう、マリア」
私は鏡の中の自分に、一点の曇りもない微笑みを貼り付けた。鏡越しのマリアに悟られてはならない。これが今の私の、最も身近で孤独な戦いだ。
『今日、セシリアが罠を仕掛けてくるわよ』
頭の中で、未来の私が警告を発した。かつての刺すような冷たさではなく、戦況を見守る参謀のような、落ち着いた響き。
「罠……どんな罠か覚えてる?」
マリアに聞こえぬよう、唇だけを動かす。
『濡れ衣よ。証人を用意して、あなたが他人を侮辱したという既成事実を作る。私もかつて、同じ手口で社交界から爪弾きにされたわ。いい? 決して感情的にならないで。あなたが声を荒らげれば、それこそが「傲慢な公爵令嬢」の証拠にされてしまうから』
私は鏡に映る自分を真っ直ぐに見つめた。ドレスに身を包んだ私は、完璧な公爵令嬢。けれどその内側には、絶望の未来を知るもう一人の私がいる。二人で一つ。私は深く息を吸い込み、戦場へと向かう覚悟を決めた。
◇
ロートヴァイス侯爵邸の大広間は、煌びやかなシャンデリアの光で満たされていた。
楽団が奏でる優雅な音楽、テーブルに並ぶ銀食器、そして令嬢たちの宝石のように輝くドレス。表面上は平和で華やかな社交の場。けれど、その裏側には常に醜い嫉妬と足の引っ張り合いが渦巻いている。
「リリアナ様、お待ちしておりましたわ」
主催者のロートヴァイス侯爵令嬢に出迎えられ、私は社交の笑顔で応えた。周囲の貴族たちと次々に挨拶を交わす。
「リリアナ様と殿下、お幸せそうですわね」
「今夜は殿下はいらっしゃらないの? 少し寂しいですわね」
そんな無難な会話を続けていた時、ふと会場の一角に、プラチナブロンドの髪をシャンデリアに輝かせたセシリアを見つけた。彼女は貴婦人たちの中心で、無垢な百合のように微笑んでいる。
『いたわね』
未来の私が低く呟く。
『気を抜いたら駄目よ。あの女、獲物を狙う蛇のようにこちらを見ているわ』
パーティーが中盤に差し掛かり、会場の雰囲気がいっそう和やかになった頃、それは突然始まった。
私の周囲で、毒を含んだ霧のように、ひそひそとしたささやき声が広まっていく。
「ねえ、聞いた?」「信じられない、まさかあの方が……」
冷たい視線が、針のように私に刺さる。やがて、一人の令嬢が青ざめた顔で私に歩み寄ってきた。ラヴィニア・フォン・シュタインベルク伯爵令嬢。彼女は今にも泣き出しそうな表情で私を見据えた。
「リリアナ様……失礼ですが、先ほど私のことを……」
「ラヴィニア様? 何のことでしょうか」
ラヴィニア様とは今夜、挨拶を交わしたきり会話らしい会話もしていない。
「私が、無教養で本の一冊も読んだことがない愚か者だと、皆様に吹聴なさったと伺いましたわ! まさか、私がお側にいないところで、あのような酷い侮辱をなさるなんて……」
「そんな! 私は一言もそのようなことは……!」
私は強く否定した。けれど、それを見計らっていたかのように別の令嬢たちが次々と進み出てきた。
「いいえ、私も伺いましたわ。リリアナ様が確かにそう仰るのを」
「私もです。お茶を召し上がりながら、ラヴィニア様を嘲笑っておいででした」
ベアトリス男爵令嬢をはじめ、三、四、五人。複数の証人が、私がラヴィニア様を侮辱したと口を揃えて証言したのだ。
会場が騒然となる。人々の視線は、もはや「疑惑」ではなく「軽蔑」へと変わりつつあった。エスターク家の誇り、王太子の婚約者としての品位。それらが足元から崩れ落ちていく感覚に、私は眩暈を覚えた。
(どうして……? 私は本当に何も言っていないのに!)
心臓の鼓動が激しくなり、視界が歪む。この場にいる全員が敵に見え、逃げ出したい衝動に駆られる。そんな私の動揺を見越したかのように、セシリアが「心配そうに」駆け寄ってきた。
「まあ、リリアナ様……大丈夫ですか? お顔が真っ青ですわ」
セシリアは私の手を取り、震える声で周囲に訴える。
「皆様、何かの間違いではありませんか? きっと誤解ですわ。リリアナ様が、親しいご友人をそんな風に仰るはずがありませんもの!」
『演技よ……。自分は聖女のように振る舞って、あなたの傲慢さを際立たせているのよ。落ち着いて、リリアナ。罠の深さを測りなさい』
未来の私の声が、私の震える心に杭を打つように響いた。
私はセシリアの手をそっと離し、一つ、深く呼吸を置いた。もしここで私が声を荒げたり、泣き崩れたりすれば、それは事実を認めたも同然。この窮地で冷静さを保つこと。それが私に残された唯一の対抗策だった。
「皆様、落ち着いてください。私はラヴィニア様を侮辱してなどおりません。……ベアトリス様、そして証言をなさっている皆様。もし私がそのように発言したと仰るなら、それはいつ、どの場所でのことか、詳しく教えていただけますか?」
私の静かな問いかけに、証言していた令嬢たちの間に一瞬、微かな動揺が走った。彼女たちは互いに視線を交わし、口ごもる。私が激昂すると踏んでいたのだろう。
沈黙が広間を支配したその時だった。
「――この騒ぎ、私が預かろう」
低く、地を這うような威厳に満ちた声。
人混みを割って現れたのは、黒髪に鋭い青灰色の瞳を持つ男性。王太子エドワード殿下の異母弟、第二王子ヴィクトール・ゼフィール殿下だった。
「ヴィクトール殿下……」
誰かが息を呑んだ。殿下は一切の表情を崩さず、証言した令嬢たちを冷徹な眼差しで射抜いた。
「事の真偽を明らかにする。リリアナ殿の言葉通り、矛盾がないか精査する必要があるな。……証人諸君、個別にお話を伺いたい。一人ずつ、別室へ」
有無を言わさぬその圧力。令嬢たちは顔を見合わせ、逃げ場を失った小動物のように震えながら、殿下に従って別室へと消えた。
私が冷静に応答し、安易に非を認めなかったことで生まれた「わずかな時間」。ヴィクトール殿下は、その隙間に滑り込むようにして介入してくれたのだ。
◇
一刻ほど経っただろうか。会場に戻ってきたヴィクトール殿下の後ろには、顔を真っ青にしたベアトリス令嬢がいた。彼女は震えながら、膝を折った。
「……申し訳ございません。私は……お金で、嘘の証言をするよう頼まれたのです……」
会場が騒然となった。殿下が淡々と、けれど容赦なく事実を告げる。
「他の証人も同様だ。家の不渡り、家族の薬代。弱みを握られ、買収されていた。……リリアナ殿は、一言も侮辱などしていない。これは誰かが仕組んだ、卑劣な虚偽だ」
沸き起こる謝罪の嵐。その中心で、私はヴィクトール殿下を見つめた。
彼はなぜ、私を助けたのだろうか。偶然そこに居合わせたからか、あるいは何らかの意図があるのか。けれど彼は、私の視線に小さく頷いただけだった。
◇
帰りの馬車の中、私は窓の外を流れる月光を見つめていた。
『第二王子、思ったより使えるわね』
未来の私が、少し意外そうに呟く。
『かつての記憶では、彼は社交界の喧騒に興味を示さない傍観者だった。けれど今日、あなたが冷静に立ち回ったからこそ、彼は動く気になったのかもしれないわね』
「ええ。……でも、セシリアはまだ微笑んでいるわ」
無実は証明された。けれど、黒幕がセシリアである証拠は何一つ出なかった。彼女は今も、真っ白なドレスを纏い、一点の汚れもない顔をして社交界に君臨している。
『次はもっと酷いわよ、リリアナ。でも、二人でなら、また越えられるわね』
「ええ。二人で一つ、だもの」
私は小さく頷き、目を閉じた。
社交界という名の戦場は、まだ始まったばかりだ。




