第3話
【大陸暦一二二五年八月十五日・深夜】
時計の針が、深夜零時を指そうとしていた。
私はベッドのカーテンの陰に身を潜め、暗い部屋の様子をじっと窺っていた。窓から差し込む青白い月光が、机や椅子の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている。静寂があまりに深く、自分の心臓の鼓動だけが耳元で激しく打ち鳴らされていた。
本当に、来るのだろうか。
マリアが、私の日記を盗み見るために。
そんなこと、信じたくはなかった。
マリアは五年も私に仕えてくれている、もっとも身近で、もっとも信頼できる侍女だ。十二歳のとき、母を亡くして暗闇にいた私を優しく抱きしめてくれたのも彼女だった。凍える夜に温かいハーブティーを持ってきてくれたのも、辛いときにただ黙って傍にいてくれたのも。
そのマリアが、私を裏切るなんて。
『――もうすぐよ』
頭の中で、未来の声が冷徹に告げた。
『日付が変わり、あなたが完全に寝入ったと確信した頃……あの子は来るわ』
私は小さく息を吐いた。カーテンの布地を握りしめる手のひらに、じっとりと冷たい汗が滲む。
来ないでほしい。未来の私の言葉が、残酷な嘘であってほしい。弟の治療費のために脅されているなんて、そんな悲しい間違いであってほしい。
『甘いわね。けれど、すぐにわかるわ。現実は残酷だってことが』
時計の音が規則正しく、部屋の隅々に響き渡る。チク、タク、チク、タク。
その音が、まるで断頭台へ続く階段を登る足音のように聞こえて、私はたまらず目を閉じた。
どれほど時間が経っただろうか。廊下の奥から、微かな、けれど確かな気配が近づいてきた。
私は肺の空気をすべて吐き出し、息を殺した。
ゆっくりと、慎重に。近づいてくる足音。
それは、この屋敷の床のどこが軋むかを知り尽くしている者の歩き方だった。
――キィ、と小さな音を立てて、部屋のドアが開いた。
月明かりの逆光を背に、ひとつの人影が現れる。
見慣れた茶色の髪。細身の輪郭。侍女の簡素な服。
マリアだった。
叫び出しそうになる衝動を抑え、慌てて両手で口を覆う。
心臓が早鐘のように打っている。本当に、来た。
未来の私が予言した通りの時刻に。予言した通りの、裏切りの足取りで。
マリアは部屋に入ると、まずベッドの方を鋭く注視した。カーテンが閉まり、中の様子が見えないことを確認すると、安堵したように小さく肩を落とす。そして、淀みのない足取りで机へと向かった。
床の軋みを避けて進むその慣れた足取りは、これが初めての犯行ではないことを如実に物語っていた。
『ほら、見なさい。これが現実よ』
未来の声が、私の耳元で囁く。
マリアは机の前で立ち止まった。
引き出しに手をかけた瞬間、一瞬だけ躊躇うような仕草を見せる。その指先がわずかに震えているように見えたのは、私の願望だったのだろうか。
けれど彼女は迷いを振り切るように引き出しを開け、私の日記帳を取り出した。
月明かりの下で、ページが捲られる。
パラリ、パラリ、と静寂を切り裂く紙の音。
マリアの横顔は影に沈んで見えない。けれど、その瞳は今日のお茶会の記述を貪るように追っていた。
セシリアとの出会い、私が彼女を「素敵で優しい方」だと感じ、新しい友人ができることを心から期待しているという――私の無防備な「本音」を、彼女は一字一句、確認している。
カーテンの陰で、私は爪が食い込むほど拳を握りしめた。
信じられない。けれど、否定できない。
『……それでも、まだ彼女を信じたい?』
未来の声が、今度は少しだけ同情を孕んで聞こえた。
マリアは日記を閉じ、元の位置、元の角度へと戻した。私が違和感を抱かないよう、細心の注意を払って。
そして来た時と同じように、幽霊のような静かさで部屋を出ていった。
ドアが閉まり、廊下の足音が遠ざかる。再び、部屋に静寂が戻った。
私は、動けなかった。
ベッドのカーテンの陰で膝を突き、ただ震えていた。
「マリア……」
掠れた声でその名を呼んでも、返ってくるのは冷たい夜気だけだった。
『だから言ったでしょう。私の言葉、本当だったでしょ』
未来の声は氷のように冷たかったが、その奥には私と同じ、癒えない傷跡が疼いているように感じられた。
気づけば私は、床に座り込んでいた。月明かりが、私の金色の髪を青白く、まるで死人のように照らし出している。
「……五年も。五年間も、私は彼女に心を許していたのに」
『弟のためよ』
未来の声が、淡々と事実を述べる。
『さっきも言ったわ。セシリアに弟の命を人質にされている。マリアは主人の信頼よりも、血を分けた弟の命を選んだのよ』
「理由はわかるわ。でも……!」
私は立ち上がった。抑えきれない激情が、喉の奥まで突き上げてくる。
「でも、私に相談してくれればよかったじゃない! 弟の治療費が必要なら、私がいくらでも出したわ! どうして、セシリアなんかの軍門に……!」
『相談? 本気で言っているの?』
未来の声が、冷ややかに嘲笑った。
『公爵家の令嬢と、平民の侍女。その埋めようのない距離が見えていないのね。「弟が病気なので大金を貸してください」なんて、あなたに言えるはずがないわ。断られたら? 軽蔑されたら? 解雇されたら? ……彼女にとっては、正体不明の「優しげな令嬢」に頼る方が、まだ現実的だったのよ』
私は反論できず、言葉を飲み込んだ。
私は彼女を友のように思っていたけれど、彼女の目から見た私は、あくまで「雲の上の主人」でしかなかったのだ。
「……それでも。裏切りは、裏切りだわ」
『そうよ。理由がどうあれ、彼女はあなたを売った。それは紛れもない事実よ』
私は机の日記を取り出した。彼女が触れたあの日記。
月明かりの下で白く浮き上がる文字。これを読んだマリアは、明日にはセシリアにすべてを報告するのだろう。
「私は、どうすればいいの……。今すぐ彼女を問い詰めればいい? それとも、解雇を?」
『どっちも最悪の手よ』
未来の声が即座に断じた。
『問い詰めれば、セシリアに筒抜けになるわ。「リリアナが気づいた」とね。そうなれば、あの女はもっと狡猾に、より深い闇へと潜ってあなたを狙う。解雇しても同じよ。セシリアは別のスパイを送り込む。今度は正体も弱点もわからない、もっと危険な人物をね』
「じゃあ……私は、このまま黙って裏切られ続けろというの!?」
『違うわ。泳がせるのよ』
私は顔を上げ、鏡の中の自分を見た。
「泳がせる……?」
『そう。マリアには何も気づいていないふりをする。今まで通り、彼女を信頼しきっている「おめでたいお嬢様」を演じ続けるの。彼女を安心させ、情報を流させ続けなさい』
「そんなことをして、何になるのよ」
『私たちが流す「情報」を選ぶのよ』
未来の声が、どこか楽しげに響いた。
『セシリアに知られてもいい情報、あるいは、わざと知らせたい「偽の情報」をね。マリアは自分がスパイのつもりでいるけれど、実際は私たちの駒になる。セシリアはマリアの情報を盲信する。情報の出所を完全にコントロールできれば、主導権を握るのは私たちよ』
頭の中で、戦術が冷徹に組み立てられていく。
マリアを介してセシリアを欺き、彼女の動きを先読みする。
「つまり……マリアを、利用するというのね」
『利用じゃないわ。――救うのよ。彼女をセシリアの呪縛からね』
未来の声が、ふっと柔らかくなった。
『弟の治療費は、私たちが適切なルートで、匿名でもいいから出してあげればいい。そうすればセシリアは人質を失い、マリアを繋ぎ止める鎖は消える。そうして本当の味方に引き入れるのよ』
私は窓辺に寄り、夜空を仰いだ。月は冷たく、美しい。
けれど私の心は、ドロドロとした暗い情念に染まっていく。
「……けれど、それまでは、マリアの裏切りを笑顔で受け入れ続けなくてはいけないのね」
『そうよ。感情で動いたら、そこで負け。私はそれで失敗した。マリアを怒鳴りつけ、追い出した。その結果、彼女は完全にセシリアの走狗となり、私の喉元に刃を突き立てる証言をしたわ』
「あなたは、失敗したのね」
『ええ。目も当てられない大失敗よ。だから、あなたは同じ轍を踏んではいけない』
感情を殺し、理性で動く。
それは十五歳の私には、あまりに残酷な試練だ。
けれど、あの断頭台の冷たさを思い知った「私」が言っているのだ。これこそが、生き残るための唯一の道なのだと。
「明日からも……マリアには普通に接するわ。何も知らない、無知な公爵令嬢として」
『それでいい。完璧に演じなさい』
未来の声が、満足げに囁く。
『復讐は、感情では成し遂げられない。冷静に、一歩ずつ。それが盤面をひっくり返す唯一の方法よ』
私は日記を机に戻した。
明日からも、私はこの日記を書く。マリアが読んでもいいように。あるいは、セシリアが罠にかかるように。
日記はもう、私の心の拠り所ではない。これは、敵を討つための武器だ。
「これが、戦いなのね……」
『そうよ。これが復讐よ。辛いけれど、あなたは一人じゃない。私がついているわ』
私はベッドに戻り、横になった。暗闇の中で、何も見えない天蓋を見上げる。
けれど、私の中には「彼女」がいる。
「……あなたの記憶は、すべて真実だったのね。セシリアの邪悪さも、裏切りも、私が殺される未来も」
『そうよ。でも、今度は違う。運命は、私たちが書き換えるの』
私は目を閉じ、深く、重い覚悟を決めた。
「もう疑わない。あなたの言う通りにするわ。……戦いましょう、もう一人の私」
『もちろん。覚悟を決めたのね』
未来の声が、どこか驚いたように、けれど嬉しそうに響いた。
深夜の静寂の中で、二人の「私」の意志が、固く結ばれていく。
「未来の私……。あなたは、意外と優しいのね」
『……っ! 勘違いしないでよ。あなたが失敗したら、私の無念が晴らせないだけなんだから』
不意を突かれたような、慌てたような声。
その人間らしい反応に、私は暗闇の中で小さく微笑んだ。
「おやすみなさい、もう一人の私」
『……おやすみ、リリアナ』
意識がゆっくりと、深い眠りの淵へと沈んでいく。
明日から始まるのは、地獄のような演技の日々。裏切りを知りながら笑い、敵を知りながら友を装う戦い。
けれど、私はもう一人ではない。
その確信を抱いて、私は冷たい夜の底で眠りについた。




