第36話
【大陸暦一二二八年八月十五日】
あの冬の日にアナと融合してから、もう八ヶ月が経った。
春が来て、花が咲き、夏が来て、緑が茂った。私はずっと生きている。未来の記憶に怯えることも、復讐に心を焦がすこともなく、ただ穏やかに日々を過ごしている。
国王陛下の体調は安定している。完全に回復したわけではないが、執務を再開できるまでに回復された。そして来春の譲位が、内々に決まっていた。
ヴィクトール殿下は次期国王として、私は次期王妃として、二人で国の未来を考える日々。忙しいけれど、充実している。
そして今日は、八月十五日。
未来の私が、処刑された日だ。
◇
目が覚めたとき、窓から差し込む朝日がまぶしかった。
カーテンの隙間から夏の光が部屋の中に流れ込み、鳥のさえずりが聞こえる。風が木々を揺らす音がする。
今日が、あの日だ。
でも、恐れはなかった。恐怖も、不安も、何もない。ただ静かな感慨だけが、胸の中にある。私は生きている。朝日を浴びて、鳥の声を聞いて、呼吸をして、心臓を動かして、生きている。
ベッドから起き上がり、窓を開ける。庭園の緑が目に鮮やかで、夏の風が頬を撫でた。花壇には色とりどりの花が咲いている。噴水の水音も、遠くから聞こえてくる。
『おはよう、リリィ』
心の奥底で、アナの声が聞こえた気がした。いつもそうだ。アナは完全に消えたわけではない。私の中に溶け込んで、時々こうして語りかけてくる。私の一部になって、ずっと一緒にいる。
(おはよう、アナ。見てる? 私、今日も生きてるわよ)
心の中で答えると、温かい笑い声が返ってきた気がした。私はゆっくりと身支度を整えた。いつもと変わらない、けれど特別な朝。
◇
朝食は、一人で取った。
食堂には私だけ。給仕係が静かに料理を運んでくる。焼きたてのパン、ハム、サラダ、フルーツ、そして温かい紅茶。
パンを一口食べる。バターの香りが口の中に広がる。紅茶を一口飲む。優しい香りが鼻腔をくすぐる。何でもない、いつも通りの朝食。でも、それが何より尊い。
ふと窓の外に目をやった。庭園では、庭師たちが花の手入れをしている。マリアの姿も見えた。彼女は今も公爵家の侍女として働いているが、週に何度か王宮を訪れて、私の身の回りの世話を手伝ってくれる。
マリアの弟も、今は元気になって公爵家の厩舎で働いている。病弱だった少年は、今では馬の世話を任されるまでに回復した。マリアがどれほど喜んでいたか、今でも昨日のことのように思い出せる。
お父様やお兄様とも、今は良い関係を築けている。かつてのような隔たりを感じることはなく、本当の家族として接することができる。
これも、未来を変えた証。私が掴んだ、新しい関係だ。
◇
午前中は執務室で書類仕事をした。
次期王妃として、私にも様々な責務がある。慈善事業の報告書を読み、孤児院への支援計画を確認し、貴族夫人たちとの茶会の日程を調整する。
ヴィクトール殿下は隣の部屋で政務に追われているはずだ。時々、扉の向こうから彼の落ち着いた声が聞こえてくる。側近たちと何かを協議しているのだろう。
昼過ぎ、扉がノックされた。
「どうぞ」
顔を上げると、ヴィクトール殿下が立っていた。
「少し休憩しないか。庭を歩こうと思うのだが」
「ええ、喜んで」
私は書類を置いて立ち上がった。
◇
殿下と並んで廊下を歩きながら、ふと気づいた。
殿下は今日、午前中の会議をすべてキャンセルしていた。午後の予定も、緊急性の低いものばかりだ。まるで、この日を静かに過ごせるよう、調整してくれたみたいに。
そういえば――八月に入ってから、私は時々カレンダーを見つめていた。窓の外をぼんやりと眺めることも増えた。何も言わなかったけれど、殿下は気づいていたのかもしれない。私にとって、この日が特別な意味を持つことを。
理由までは知らなくても、私の様子から何かを察して、こうして予定を調整してくれた。胸が、温かくなった。
庭園は夏の日差しに満ちていた。緑の木々、色とりどりの花、青い空。全てが眩しく、美しい。私たちはベンチに腰を下ろした。風が優しく吹き抜けていく。
「リリアナ」
殿下が静かに呼びかけてきた。
「はい?」
「今日は……何か重要な日だったのではないか?」
その問いに、私は少し驚いて殿下を見た。青灰色の瞳が、優しく私を見つめている。
「……はい、とても。ですが、全て終わりました。今日は何事もない、平穏で美しい日です」
「そうか」
殿下はそれ以上、何も聞かなかった。ただ穏やかに微笑んで、私の手を取る。
「無事に終わって、良かった」
その言葉に、胸が熱くなった。
理由を問い詰めない。詳しく説明を求めない。ただ寄り添って、私の気持ちを尊重してくれる。それがどれほど嬉しいか。
「ありがとうございます、ヴィクトール殿下」
「二人の時は、もう少し砕けた呼び方でもいいと思うんだが」
私がそう言うと、殿下は少し困ったように笑った。
「では……ヴィクトール様?」
「……まあ、それでもいい」
殿下は苦笑した。本当は殿下の求める呼び方を分かっていたが、もう少しだけ待って欲しかった。
夏の風が、二人の間を優しく吹き抜けていく。蝶が花から花へと飛び移り、噴水の水がキラキラと輝いている。
「来春には、正式に結婚する。国王として即位し、君を王妃に迎える。それまでに、いろいろと準備が必要だ。不安は、ないか?」
「ありませんわ。あなたが隣にいてくださるなら」
私が即座に答えると、殿下は優しく微笑んだ。
「俺も同じだ。君がいてくれるから、何も恐れない」
手を繋いだまま、私たちはしばらく庭園を歩いた。花の香りが漂い、鳥が歌っている。平凡な、でも幸せな時間。
◇
夕食も、いつも通りだった。
食堂で給仕係が運んでくる料理を、一品ずつ味わう。スープの温かさ、肉の柔らかさ、野菜の甘み。全てが生きている証だ。
夜、自室に戻ってベッドに横たわる。
一日が終わった。何も起こらなかった。でも、それでいい。いや、それが最高だ。
「アナ、見てる? 私、生きてるわよ。あなたと約束した通り、幸せになるために、毎日を大切に生きてる」
『よくやったわ、リリィ。私は、ずっとあなたと一緒よ。これからも、ずっと』
心の奥底から、アナの声が聞こえた。目を閉じると、涙が一筋、頬を伝った。嬉しくて、温かくて、感謝でいっぱいで。
「おやすみ、アナ。また明日ね」
◇
八月二十二日、国王陛下に謁見を賜った。
玉座の間に入ると、陛下は穏やかな表情で私たちを迎えてくれた。顔色は良く、声にも力がある。
「ヴィクトール、リリアナ、よく来た。顔を上げよ。今日は、正式に伝えたいことがある」
陛下は玉座から立ち上がり、私たちの前まで歩いてきた。その足取りは、以前よりもしっかりとしている。
「来春、私は王位を譲る。ヴィクトールが新しい国王として即位し、リリアナを王妃に迎える。これを正式に発表する。お前たちが、この国を救ったのだ。ナターシャ・ヴォルコフの企みを暴き、貴族派閥の腐敗を正し、王国を正しい道に導いた。私はもう、安心してお前たちに国を任せられる」
「陛下のご期待に、必ずお応えいたします」
陛下の力強い言葉に、私は深く頭を下げた。
「お前たちなら、必ずや素晴らしい国を作るだろう。私は南の離宮で、ゆっくりと療養する。時々、孫の顔でも見に来よう」
「孫、ですか?」
私が聞き返すと、陛下は楽しそうに笑った。
「ああ。お前たちの子だ。きっと立派な子に育つだろう。楽しみにしているぞ」
頬が熱くなるのを感じた。隣でヴィクトール殿下も、少し照れたように目を逸らしている。
「努力、いたします」
私が答えると、陛下は大きく笑った。
◇
謁見を終えて廊下に出ると、ヴィクトール殿下が私の手を取った。
「リリアナ。私たちの未来が、正式に決まった。来春、私は国王になる。君は王妃になる。二人で、この国を導いていく。もう一度だけ聞く。不安は、ないか?」
「ありませんわ。あなたが隣にいてくださるなら」
数日前に交わしたのと同じ言葉に、ヴィクトール殿下は優しく微笑んだ。
「俺も同じだ。君がいてくれるから、何も恐れない」
私たちは廊下の窓辺に立ち、しばらく庭園を眺めた。
「そういえば、ノルヴェリアから報告が届いた。ナターシャ・ヴォルコフだが、本国に送還された後、諜報機関から追放されたそうだ。というより、最初から在籍していなかったことにされた」
「それは、処刑……」
「いや、されていない。両国協議の結果、『ノルヴェリアの工作員が我が国に侵入した事実はない』ことになっている。だから処刑される者もいない……というのが表向きの理由だが。実際のところは、ナターシャはノルヴェリア国王を籠絡したらしい。今では愛妾として贅沢三昧に過ごしているそうだ。なかなかどうして、強かな女だ」
「そう……ですか」
私は複雑な気持ちになった。ナターシャには憎しみもあるが、彼女もまた国家の犠牲者だったのかもしれない。
「それから、ローゼンタール伯爵は今、本物のセシリアとその家族のために、慈善事業を始めたそうだ。遺族への支援や、事故で家族を失った人々への援助。『セシリアの名を汚してしまった償い』だと、伯爵は言っているらしい。伯爵は前を向いているよ。『娘は偽物だったが、亡くなった本物のセシリアは確かに存在した。その子のために、何かをしたい』とな」
「立派な方ですわ」
私は心から思った。善意を裏切られてなお、愛した娘の名の為に生きる。その強さに胸が打たれる。
窓の外に、夕日が沈んでいく。
処刑されるはずだった日を、私は無事に越えた。もう、恐れるものは何もない。未来の記憶は、もう私を縛らない。これから先は、自分の手で未来を作っていく。ヴィクトール殿下と共に、新しい時代を築いていく。
(『頑張りなさい、リリィ。私は、いつもあなたと一緒よ』)
心の中で、アナが笑っている気がした。
(ありがとう、アナ。見ていてね。私たちの、新しい未来を)
夕日に照らされた廊下を、私たちは手を繋いで歩いていった。




