第35話
【大陸暦一二二七年十二月】
全ての戦いが終わってから、二ヶ月が経った。
セシリア――いや、ナターシャ・ヴォルコフは逮捕され、ノルヴェリアに送還された。王妃アデライーデは幽閉され、ダミアンは投獄されている。そして王太子エドワードは王位継承権を剥奪され、本格的な冬を迎える前に王国の東端にあるリンデンブルク領へ送られた。フェリックスは今も、失った信用を文官見習いとして地道に積み上げ直しているらしい。
私たちは勝ったのだ。未来を変え、処刑されるはずだった運命を、完全に覆した。
自室の窓辺に立ち、冬の夕暮れを眺めながら、私は小さく息をついた。庭園の木々は葉を落とし、冷たい風が吹き抜けていく。空は灰色の雲に覆われ、雪が降りそうな気配がある。
平和だった。本当に、全てが終わったのだ。
そう、私は完全に日常を満喫していた。処刑されるはずだった日――来年の八月十五日まで、まだ八ヶ月もある。アナが消えてしまうのは、きっとその日。だから、まだ時間があると思っていた。
(ねえ、アナ)
心の中で呼びかける。初めはあんなに違和感があった行為も、今では日常の一部だ。
けれど、返事がない。心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
(アナ?)
もう一度、今度はもっと強く念じるように呼びかけてみる。でも、いつもならすぐに返ってくる少し辛辣で、それでいて温かい返事が聞こえてこない。
数秒の沈黙が、恐ろしく長く感じられた。
『……ああ、ごめん。聞こえてたわよ』
ようやく返ってきたアナの声。けれど、その響きはいつもよりずっと遠い。まるで、厚いドアの向こう側から聞こえてくるような、頼りなく薄れかけた声だった。
「アナ! どうしたの!?」
私は慌てて叫んだ。窓枠を掴む手が、震えている。
「まだ八ヶ月もあるはずなのに! なぜ今、声が……!」
『ああ……それなんだけど』
アナの声が、申し訳なさそうに言った。
『リリィ、実は私、思っていたより早く消えそうなの』
「え?」
私は息を呑んだ。
「どういうこと? あなた、処刑日まで残るって……」
『そう思ってたのよ。でもね、全ての復讐が終わって、あなたを見守る理由がなくなったら……私、この世界に留まる力が急激に弱くなったみたい』
「留まる……力?」
私は窓辺から離れ、ベッドに腰を下ろした。手が震えている。
『うーん……それが適切な表現なのかは分からないけどね。確かなのは、私が回帰してきたのは、過去の私を救うため。処刑される未来を変えるため。それが私の、この世界に留まる理由だった』
「でも、まだ処刑日までは……」
『日付は関係なかったのよ』
アナが、静かに言った。
『私が留まっていたのは、あなたが危険だったから。守らなきゃいけないものがあったから。でも今は――』
アナの声が、少し寂しそうになった。
『全ての復讐が終わった。マリアは味方になり、フェリックスは改心し、ダミアンは投獄され、王妃は失脚し、セシリアの正体を暴き、王太子は失墜した。もう、あなたを脅かすものは何もない』
「それは、そうだけど……」
『あなたには、ヴィクトールがいる。お父様も、エリオット兄様も、マリアも。みんな、あなたの味方よ。もう、私がいなくても大丈夫。だから――』
声が、さらに薄れていく。
『私を、この世界に繋ぎ止めていた力が、急に弱くなったの』
「嫌よ!」
私は声に出して叫んだ。涙が溢れ、視界が滲む。
「まだ、心の準備ができていないわ! まだ八ヶ月もあると思っていたのに!」
『リリィ、ごめんね。でも、これはきっと正しいことなのよ。使命が終わったら去る。それが道理でしょう?』
いつものように辛辣に言おうとして、でも声は優しく震えていた。
『私はね、過去の私――あなたを救うために回帰してきた。そして、救えた。だから、もう役目は終わったの』
「役目って……」
私の声が、震えた。
「あなたは、ただの役目じゃないわ。大切な相棒で、もう一人の私で!」
『リリィ。私が消えるわけじゃないのよ。一つになるだけ。私たちは最初から一人の人間だったんだから。現在のあなたと、未来の私。二つの経験が融合するの』
私はゆっくりと頷いた。涙が頬を伝い、床に落ちる。
窓の外では、冬の夕暮れが急速に夜へと溶け込んでいた。冷たい風が、ガタガタと窓を叩く。
『ねえ、リリィ。最後に、私の本音を聞いてくれる? 未来では言えなかったこと』
「本音……?」
『処刑台に立ったとき、私、後悔だけじゃなかったの。怒りもあったわ。マリアへの、フェリックスへの、ダミアンへの、セシリアへの、王太子への。でもね――』
アナが、深く息を吸った。
『一番強かったのは、自分自身への怒りだったのよ』
「自分への?」
『ええ。なぜもっと早く気づかなかったのか。なぜマリアの苦しみに気づけなかったのか。なぜセシリアを疑わなかったのか。なぜ王太子なんかに騙されたのか』
アナの声が、少しだけ苦しそうになった。
『でも、一番後悔したのは――自分の選択よ』
「自分の選択?」
『ええ。王太子を信じて、他の可能性を全部切り捨てた。周りが見えなくなっていたの。馬鹿よね。あんな無能な王太子に忠義を尽くして、もっと賢い選択肢があったのに全部無視した。もっと周りを見ていれば、こんな未来にはならなかった。そういう意味では、私も王太子のことを偉そうに言えないわね』
自嘲気味に笑うアナの声が、ふっと優しくなった。
『だから、あなたには幸せになってほしいの。私が犯した過ちを繰り返さずに、本当に信頼できる人を見極めて、幸せを掴んでほしい。ヴィクトールは……未来の私はほとんど関わらなかったから分からない。ただ、あなたが選んだ彼なら、きっと大丈夫よ』
「ええ……ヴィクトール殿下は、本当に誠実な方よ」
『お父様にも、ちゃんと伝えなさい。感謝してるって。未来では和解できないままだったけれど、今回はあなたの一番の味方になってくれた。エリオット兄様も、マリアも、友人も大切に。……そして、何より、あなた自身を大切にしなさい、リリィ』
その声は、さらに遠くなっていく。
『未来の私は自分を大切にせず、他人のために生きて自分の幸せを後回しにした。それは間違いだったわ。あなたは、自分の幸せを最優先にしなさい。それが、私の一番の願いよ』
「……ありがとう。あなたがいてくれたから、私は変われた。成長できた。未来を変えられたの」
涙声で伝えると、アナの声も震えた。
『私こそ、ありがとう。あなたが頑張ってくれたから、私の人生にも意味があった。処刑された悲惨な人生が、あなたを救うための物語になった』
「アナ……!」
私は叫んだ。でも、もうアナの声は遠すぎて、ほとんど聞こえない。
『幸せになりなさい、リリィ……』
アナの最後の言葉が、心の奥底に静かに、深く響いた。
――瞬間。
春の陽だまりのような、母の抱擁のような温かさが胸の中に広がっていった。
アナの記憶が、知識が、経験が、その全てが奔流となって私の中に流れ込んでくる。
処刑台での最期。裏切りの痛み。復讐への決意。選択を誤った後悔。家族への想い。そして、現在の私への深い愛情。その全てが、私自身のものとして溶け合っていく。
涙は止まらなかった。
けれど、不思議と悲しくはなかった。これは別れではなく、融合なのだ。二つの人格が、ようやくあるべき一つの形に戻るだけ。
私は窓辺に立ち、夜空を見上げた。無数の星が瞬いている。
(ありがとう、アナ。あなたがいてくれたから、私は変われた。そして今、あなたの全てが、私の一部になったわ)
心の中で静かに呟くと、優しい風が頬を撫でた。
もう、アナの声は聞こえない。
けれど、アナはここにいる。私の中に、永遠に。
時計の音が静かに響く。外では白い雪が舞い始めていた。一年で最も夜が長く、そして新しい光が生まれる冬至の季節。
「アナ……おやすみなさい」
私は小さく呟いて、ベッドに入った。
不思議なほど心は穏やかだった。アナはもう喋らない。けれど、私の一部として確かに寄り添ってくれている。
深い、優しい眠りに落ちていく。
明日は、新しいリリアナとしての、最初の一日が始まる。
◇
翌朝、目が覚めた私は、不思議な充足感に包まれていた。
頭の中は静かだった。アナの声は、もう聞こえない。
けれど、全てが分かった。
処刑台での絶望も、裏切りの痛みも、家族への愛も。アナが経験した全てが、今は自分自身の生々しい記憶として、経験として、完全に根付いている。
窓を開けると、十二月の朝は雪に覆われ、眩しいほどに白く輝いていた。昨夜の雪が、世界を新しく塗り替えたかのような静寂。
ふと、心の奥底で何かが囁いた気がした。
『幸せになりなさい、リリィ』
それは幻聴だったかもしれない。それでも、私は微笑んだ。
「ええ。幸せになるわ、アナ。私たちの未来のために」
私は新しい一日へと踏み出した。
一人で。けれど、決して孤独ではない。アナは、ずっとここにいるのだから。
来年の八月十五日――処刑されるはずだったその日。
私はヴィクトール殿下と共に、誰も見たことのない輝かしい未来を迎えるだろう。
もう、恐れることは何もない。




