第34話
【大陸暦一二二七年九月下旬】
秋も深まりつつある王都は、まるで蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。
セシリア・ローゼンタールの逮捕から三週間。彼女の正体がナターシャ・ヴォルコフという隣国ノルヴェリアの工作員だったという事実は、瞬く間に王国中の貴族たちへ知れ渡った。
王宮の廊下を歩けば、あちこちから隠しきれない噂話が耳に飛び込んでくる。
「王太子殿下、隣国のスパイに骨の髄まで騙されていたそうですわ」
「あんな女を婚約者にするとまで宣言して。どれだけ見る目がないのかしら」
「機密情報も漏れていたとか。国家の一大事ですわね」
貴族令嬢たちが、扇で口元を隠しながら囁き合っている。その声に混じるのは憐れみなどではなく、明らかな嘲笑だった。
一方で、貴族の男性たちはより深刻な顔で密談を交わしている。
「工作員の色香に惑わされるような王太子が、次期国王になるなど……」
「国が滅びますな。いや、冗談ではなく本気で」
「第二王子殿下の方が、はるかに器量に優れておいでだ。陛下も、そろそろ決断なさるべきでは……」
その不信感は王宮内だけに留まらず、王都の民衆の間にも深く浸透していた。市場の喧騒の中でも、商人たちの話題はもっぱらそのことばかりだ。
「あの無能王子が王様になったら、税金ばかり増えて国が傾いちまうよ」
「それどころか、国ごとノルヴェリアに乗っ取られるんじゃないか?」
「第二王子様が次の王様になってくれりゃあ、安心なんだがねぇ……」
王太子エドワードへの信頼は、もはや修復不可能なほどに地に落ちていた。
『見事なものね。王国中が、あいつを見放したわ』
アナの声が、心の奥底で満足げに響いた。
(ええ。でも、まだ終わっていないわ)
私は心の中で、自分に言い聞かせるように答えた。
第一王子エドワードは、依然として王位継承権第一位の座に居座っている。それを剥奪しない限り、私たちの望む未来は確定しない。
そして今日――ついに、国王陛下が最後の裁定を下される。
◇
国王ルドルフは、病床で天蓋を見上げていた。
あの偽セシリアの裁定からおよそ三週間。あの日、命を削るようにして謁見の間へ立ち裁定を下した後、国王は深い疲労に襲われて再び床に伏していた。
しかし、その体調は少しずつ、確実に回復へと向かっていた。医師も「峠は越えました」と太鼓判を押している。まだ万全ではないものの、短時間であれば執務に耐えうるまでになったのだ。
国王の枕元には、第二王子ヴィクトールからの詳細な報告書が置かれていた。
そして、侍従からもたらされる王国中に広がる王太子への非難。貴族たちの不穏な動向。民衆の失望。その全てが、一つの残酷な結論を指し示していた。
「……やはり、私が下さねばならぬのだな」
国王が小さく呟いた声には、父親としての深い悲しみが滲んでいた。
扉が静かにノックされ、侍医が入室する。
「陛下、ご気分はいかがでしょうか」
「ああ、だいぶ良い」
国王がゆっくりと体を起こした。侍医が慌てて駆け寄る。
「陛下、まだご無理は……!」
「構わん。息子を呼んでくれ」
国王の眼光が、かつての覇気を取り戻したかのように鋭く光った。
「エドワードを、謁見の間へ呼べ。私が裁定を下す」
「しかし陛下、お体が……」
「医師よ」
国王ルドルフは静かに、しかし抗いようのない威厳を持って告げた。
「これは、王としての最後の責務だ。病に伏していようと、私がこの手で決着をつけねばならぬ」
侍医は、陛下の鋼のような決意を悟った。もう、止める言葉は持っていない。深く頭を下げ、部屋を辞していった。
国王は、一歩ずつ踏みしめるように立ち上がった。三週間ぶりの謁見。体は重くとも、その気力は満ち溢れている。
親として、王として。やらねばならないことが、そこにはあった。
◇
謁見の間には、肌を刺すような緊張が満ちていた。
玉座には、国王陛下が鎮座している。以前よりは顔色が優れているものの、まだ隠しきれない疲労が刻まれている。だが、その瞳には決して揺らぐことのない強い意志が宿っていた。
左右を埋め尽くすのは、王国の重鎮たる主要な貴族たちだ。
そして中央には、たった一人、王太子エドワードが立たされていた。
エドワードの顔は土色に青ざめている。自分に何が突きつけられるのか、その鈍い頭でも察しているのだろう。
その少し後ろに、私とヴィクトール殿下は並んで控えていた。
「エドワード」
陛下が重い口を開いた。その声は低く、厳かに広間へ響き渡る。
「……は、はい。父上」
エドワードの声は情けなく震えていた。
「お前には、何も見えていなかったのか」
陛下の追求が、鋭い刃となって王太子へ突き刺さる。
「セシリアを名乗る女が隣国の工作員であったこと。リリアナがいかに有能な妃候補であったこと。お前は、何一つとして理解していなかった」
「しかし父上! あの女は完璧に演じていたのです! 誰だって騙されます!」
エドワードが、見苦しくも必死に言い訳を並べ立てた。
「あれほど清楚で、優しくて、聡明だった彼女が、まさかスパイだったなんて……!」
「リリアナは見抜いていたぞ。ヴィクトールも、最初から疑っていた。お前だけが、愚かにも騙されたのだ」
陛下が静かに、事実を突きつけた。
「それは不公平です!」
エドワードが絶叫に近い声を荒らげる。
「ナターシャに騙されていたのは私だけではない! 貴族たちも皆、彼女を『理想的な令嬢』と褒め称えていたではないですか! ローゼンタール伯爵も、継母上も、側近たちも……誰もが彼女を信じていた!」
謁見の間が、ざわりとどよめいた。確かに、彼女の演技は多くの者を欺いてきた。
「なのに、なぜ私だけが責められるのです! 私は被害者です! スパイに心を踏みにじられた、哀れな被害者なのです!」
「黙れ」
陛下の冷徹な声が、エドワードの言葉を叩き斬った。
「お前は、ただ騙されただけではない。婚約者を不当に冷遇し、側近の不正を見逃し、王太子としての政務を疎かにした。それらは全て、お前自身の未熟な選択だ」
「それは……」
「いや、騙されたのではないな。騙されたかったのだろう。お前は」
その言葉に、エドワードが絶句して息を呑んだ。
「お前は、ただ自分を全肯定し、褒め称えてくれる女を欲した。自分の意見に全て頷く、都合の良い人形を。だからこそ、ナターシャの甘い誘惑に易々と身を委ねたのだ」
陛下の声が、一節ごとに厳しさを増していく。
「リリアナは違った。彼女は聡明であり、時にはお前の過ちを正そうと厳しく指摘した。お前は、それが疎ましくて仕方がなかったのだろう」
「父上……」
「側近のダミアンとフェリックスについても同様だ」
陛下は容赦なく続けた。
「あの二人もお前の無能さに付け込んだのだ。ダミアンは機密を売り渡し、フェリックスはお前よりもセシリアの言葉を優先した。だが、それも全てはお前に人を見る目がなかったゆえのこと」
エドワードの顔が、屈辱で真っ赤に染まった。
しかし、もはや反論する言葉は見当たらない。突きつけられたのは、あまりにも無慈悲な正論だった。
「父上……ですが、私は王太子として、精一杯……」
「精一杯だと?」
陛下が、苦しげな嘲笑を浮かべた。
「お前が私の代理を務めた政務会議で、何度同じ過ちを繰り返した? 国境問題を軽視し、外交文書の一行すら理解できず、場当たり的に税制改革に反対し……」
陛下が一つ、また一つと失策を数え上げるたび、エドワードの顔から血の気が引いていく。
「私が病に伏している間、私はお前に期待していたのだ。いつか成長してくれると、信じていたのだぞ……!」
陛下の声が、隠しきれない悲しみに震えた。
「しかしお前は、ただ堕落した」
「父上!」
エドワードが縋るように叫んだ。
「どうか、もう一度だけ機会を! 私は、これから変わります! 必ず……!」
「遅い」
陛下が静かに、しかし決定的な断絶を告げた。
「もう、遅いのだ」
謁見の間は、深い静寂に支配された。居並ぶ貴族たちが息を呑み、固唾を呑んで見守っている。
陛下が、震える足でゆっくりと立ち上がった。
「エドワード・ゼフィール」
その声は、広間全体に、そして王国の歴史に刻まれるほど厳かに響いた。
「お前には、心底失望した」
その一言が、エドワードの心臓を無慈悲に貫いた。
「よって、お前の王位継承権を剥奪する」
爆発的などよめきが、謁見の間を埋め尽くした。
誰もが予想していた結末。だが、現実に宣告された衝撃は、計り知れないものがあった。
「父上……父上ぇッ!」
エドワードがその場に崩れ落ち、膝をついた。
「どうか、お許しを! 私は、私は王太子として……!」
「お前は、もう王太子ではない」
陛下は慈悲を捨て、冷徹に言い放った。
「今日この時をもって、王位継承権第一位の座を失う。王領の一つ、リンデンブルク領を与える。そこで静かに暮らせ」
「リンデンブルク領……あんな、地の果ての田舎に……」
エドワードの顔が、絶望に歪みきった。
王国の東端に位置するその土地は、美しい自然こそあれど、王都から遠く離れた辺境だ。政治的影響力は皆無。それは、事実上の終身刑に近い追放だった。
「近衛兵。エドワードを退出させよ」
陛下の冷ややかな命に従い、数名の近衛兵が進み出た。
「待ってください、父上! お願いです! 父上!」
エドワードが涙と鼻水で顔を汚し、見苦しく叫び声を上げた。
しかし、近衛兵たちは容赦なく彼の両脇を掴み、強引に立たせる。
「父上! 父上ぇーっ!」
彼の叫びは、虚しく広間に反響し続けた。
陛下は、一度たりとも振り返らなかった。ただ、玉座に深く座り直し、空虚な前方を見つめておられた。
引きずられるようにして連れ出されていく第一王子エドワード。
その惨めな声が遠ざかるにつれ、謁見の間には、重苦しくも清々しい静寂が訪れた。
◇
陛下が、肺にある全ての空気を吐き出すように深く息をつかれた。
「……ヴィクトール」
「はい、陛下」
ヴィクトール殿下が、静かに一歩前へ出た。
「お前を、次期国王に指名する」
広間に再びどよめきが起きた。だが今度は、驚きよりも、深い納得の色が周囲を染めていく。
「陛下の御心のままに」
殿下が気品あふれる所作で、深く頭を下げた。
「お前は聡明であり、正義感に満ちている。そして何より、この国を誰よりも愛している」
陛下が立ち上がり、殿下の肩にそっと掌を置いた。
「私が病に伏している間、お前こそがこの国を支えてくれた。ナターシャの陰謀を暴き、腐敗した宮廷を正してくれたのは、紛れもなくお前だ」
「恐れ入ります」
「そして、リリアナ・フォン・エスターク」
陛下が、私に視線を向けられた。
「お前も、よく耐え、よくやってくれた」
「陛下……」
私はその場で、しなやかに跪いた。
「お前は聡明で、そして誰よりも勇敢だった。あの毒婦の罠を見抜き、ヴィクトールと共にこの国を救ってくれた」
陛下の厳しい瞳に、初めて温かな慈愛の光が灯った。
「お前を、我が国の次期王妃として認める」
その言葉に、私は深く頭を下げた。
視界が熱く潤み、胸の奥からこみ上げるものを必死に抑える。
……長かった。本当に、長い戦いだった。
次の瞬間、謁見の間を揺るがすような拍手の渦が沸き起こった。貴族たちが、堰を切ったように祝福の声を上げる。
「ヴィクトール殿下こそ、真の王に相応しい!」
「リリアナ様と殿下……なんと理想的な組み合わせか!」
「これで、この国の未来は安泰だ!」
熱狂的な歓声が広間を満たす。
しかし陛下は、どこか疲れ果てた表情で玉座に座り直された。
「私が寝込んでいた間に、息子は堕ち、宮廷は腐りかけていた」
陛下の声が、喧騒を鎮めるように静かに響いた。
「だが、リリアナ。そしてヴィクトール。……お前たちが、この国を救ってくれたのだ」
陛下は慈しむように、私たち二人を見つめた。
「後は、お前たちに任せた。私はもう……」
そこまで言葉を紡いで、陛下の体が力なく揺らいだ。
「陛下っ!」
侍医が真っ先に駆け寄り、殿下もすぐさま父君の体を支える。
「大丈夫だ……。ただ、少し、気が抜けただけだ」
陛下は、満足げに弱々しく微笑まれた。
「陛下、すぐにお休みください」
侍医が懇願する。陛下は静かに頷き、担架へと慎重に乗せられた。
「やるべきことは、全て終えた」
陛下がゆっくりと目を閉じる。その表情には、重責から解放されたような穏やかな色が浮かんでいた。
ナターシャを裁き、エドワードを廃し、ヴィクトールを次期国王に指名した。
これで、この国は再び正しい道へと戻ることができる。
担架が、ゆっくりと扉の向こうへ運ばれていく。
居並ぶ貴族たちが、去りゆく王の背中に向けて、最敬礼で深く頭を下げた。
陛下は二度、その命を削るようにして病床から立ち上がり、この国の未来を決定づける裁定を下された。
あとは、若い二人に託すだけ。
陛下の姿が見えなくなるまで、私たちはその背中を見送り続けた。
◇
謁見の間を出ると、私とヴィクトール殿下は並んで長い廊下を歩いた。
窓の外には、突き抜けるような秋の青空が広がっている。
吹き込んできた風は、火照った肌に心地よい冷たさを運んできた。
「……全て、終わりましたのね」
「ああ。長い戦いだったな」
「本当に……」
私たちは足を止め、眩い外の景色を見つめた。
『あなたはよくやったわ、リリィ』
アナの、誇らしげな声が響いた。いつもよりずっと穏やかで、澄んだ声。
『本当に、本当に、よくやったわ』
(……ありがとう。アナ)
私は、そっと瞳を閉じた。
処刑台で果てた、未来の私。
その意識が、過去の私に宿ったあの日。二つの人格が一つの体に同居し、私たちは手を取り合って、この過酷な運命に抗い続けてきた。
そして今。全てが終わったのだ。
復讐は完遂され、絶望に満ちた未来は書き換えられた。
もう、私が処刑される日は来ない。
『あとは、あなたが幸せになるだけよ』
アナの声が、どこか少しだけ、寂しそうに響いた。
(ええ。これからは、新しい未来を歩むわ。あなたと一緒に)
私は心の中で、微笑みながら答えた。
『……ええ。そうね』
アナの声は、陽だまりのように温かかった。
「どうかしたか?」
殿下が、心配そうに覗き込んできた。
「いえ、何でもありませんわ」
私は、これ以上ないほど晴れやかな笑顔で答えた。
「ただ……これで、やっと終わったのだと、実感していただけです」
「そうだな。これからは、この国を立て直すことに専念できる」
「ええ」
私たちは再び並んで、前を向いて歩き始めた。
窓の外では秋風が木々を揺らし、舞い落ちる葉が季節の移ろいを告げている。
長い、長い戦いの終わり。
そして、新しい未来の始まり。
私はヴィクトール殿下と共に、光の射すその未来へと、一歩ずつ歩みを進めていった。




