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処刑回避を目指して未来の私と共に清楚系令嬢の仮面を剥ぎとります  作者: 宗像 凪


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第33話

【大陸暦一二二七年九月五日・早朝】


 セシリア・ローゼンタールとして知られる人物は、王宮の一室で荷造りを進めていた。


 必要最低限の品物を選り分け、手早く鞄に詰め込んでいくその手つきには、これまでの貴族令嬢らしい優雅さは微塵も感じられない。鏡に映る翠緑の瞳は鋭く、焦燥の火が灯っていた。


 暗殺は失敗したのだ。

 深夜に放った刺客から、いまだに連絡がない。おそらく捕まったのだろう。ならば、ここに留まるのは自滅を意味する。

 一刻も早く港へ向かい、ノルヴェリア行きの船に飛び込まなければ。


 最後の荷物を鞄に押し込み、彼女は部屋を後にした。

 王宮の廊下を歩く間、彼女は意地をかき集めて、四年間演じ続けてきた「清楚な令嬢」の仮面を貼り付け直した。


    ◇


 王都の港は、ひんやりとした朝靄に包まれていた。


 馬車から降りた彼女の目に飛び込んできたのは、整然と立ち並ぶ騎士たちの壁だった。

 王国騎士団の紋章を胸に刻んだ彼らが、港の出入り口を完全に封鎖している。潮騒に混じって、抜き身の剣が触れ合う冷たい金属音が響いた。


「これは……」


 彼女の足が止まる。

 そして、騎士たちの中心に立つ人物を捉えた。

 青灰色の瞳を持つ、凛とした佇まいの青年――この国の第二王子、ヴィクトール・ゼフィール。


「セシリア・ローゼンタール」


 殿下が一歩、重々しく前に踏み出した。


「いや、ナターシャ・ヴォルコフ。国家反逆罪で逮捕する」


 彼女の表情が、一瞬だけ剥がれそうに揺らいだ。

 だが、すぐにいつもの清楚な、可憐な笑みを浮かべてみせる。


「殿下、何かの間違いではありませんか? 私は何もしておりませんわ」


「まだその醜い演技を続けるつもりか」


 殿下の声は、冬の夜のように冷徹だった。


「昨夜、エスターク公爵邸を襲撃した刺客を捕らえた。その者の所持品から、お前の指示書が見つかっているのだ」


「それは……何かの陰謀ですわ。私を陥れようとする不届き者が……」


「ノルヴェリア諜報機関の内部文書も、既に入手しているわ」


 私は殿下の隣から一歩前に出た。

 逃げ場を与えないよう、紫紺の瞳で彼女を真っ向から見据える。


「本物のセシリア様は、四年前の事故で亡くなられました。あなたはその名を騙り、この国を蝕もうとしたノルヴェリアの工作員、ナターシャ・ヴォルコフ。違いますか?」


 数秒の、張り詰めた沈黙。

 直後、彼女が動いた。


 袖口から閃光のごとく短剣が滑り落ちる。

 彼女は最も近くにいた騎士に向かって跳躍し、鋭い刃を振るった。騎士が反射的に剣を抜き、それを弾き飛ばす。ガキン、と激しい金属音と火花が港に散った。


「捕らえろ!」


 殿下の鋭い命令が飛び、騎士たちが一斉に包囲を縮める。

 ナターシャは短剣を自在に操りながら後退していく。その身のこなしは洗練されており、歴戦の騎士たちですら一瞬怯むほどの鋭さがあった。


 しかし、あまりにも多勢に無勢だった。

 三方向から騎士が迫る。彼女は一人の剣を短剣で弾き、もう一人の刺突を身を翻してかわした。だが、背後から別の騎士が組み付き、ついにはその短剣が石畳の上に撥ね飛ばされた。


「くっ……!」


 なおも抵抗を試みた彼女だったが、複数の騎士に取り押さえられ、地面に膝をつかされた。

 重々しい鉄の手枷が、その細い手首を拘束する。


 再び訪れた静寂。

 しかし、そこから漏れ聞こえてきたのは――。


「……ふふ」


 低く、地を這うような冷笑だった。


「あははははっ!」


 清楚な令嬢の仮面が、音を立てて崩れ落ちる。

 ナターシャの翠緑の瞳が、氷のように冷たく、昏い光を宿した。その口元に浮かんでいるのは、隠そうともしない冷徹な笑みだ。


「ああ、そうだ。私はスパイ。ナターシャ・ヴォルコフ、ノルヴェリア王国諜報機関所属。……それで満足?」


 その声は、もはや令嬢のものではなかった。

 低く、辛辣で、どこか男性的な響きさえ持っている。四年間演じ続けた虚像が、完全に剥ぎ取られた瞬間だった。


「でも、もう遅い」


 ナターシャは、勝利を確信しているかのように嘲笑った。


「あなたたちの国は、既に内部から腐りきっている。あの無能な王太子が次期国王になれば、この国は勝手に自壊する。万が一それを防いだとしても、今度は醜い王位争いで混乱が起きる。どちらにせよ、ノルヴェリアの勝利は時間の問題だ」


「お前の計画は、既に潰えている」


 殿下が静かに、しかし断固として告げた。


「我々は団結している。お前が蒔いた不和の種は、全て我々の手で摘み取った」


「……そうね。とても残念なことに」


 ナターシャの視線が、私を捉えた。

 粘着質な、どろりとした憎悪がこもった視線。


「リリアナ……なぜお前は私の邪魔ばかりする? こんな場所までわざわざ出向いて、私を笑いものにしに来たっていうの!」


 その声には、剥き出しの憎しみが滲んでいた。


「あなたに一つ、聞きたいことがあったの」


 私は彼女の問いを遮るように、静かに語りかけた。


「なぜ、私を狙ったの? どうせ最後の賭けに出るなら、殿下か陛下を狙うのが定石でしょう?」


「……ふん」


 ナターシャは自嘲気味に鼻で笑った。


「理由は二つ」


 彼女は拘束されたまま、冷たい視線を私に投げつけてくる。


「一つは、純粋な合理的判断。ヴィクトールと国王の警護は完璧で、短期間での暗殺は不可能だった。でも、お前を殺せばヴィクトールは動揺する。婚約者の死という隙を利用して、逃亡の時間を稼ぐつもりだった。上手くいけば、公爵家との関係を壊すこともできたしね」


 私は拳を握りしめ、表情を硬くした。殿下は無言のまま、彼女を見据えている。


「そして、もう一つは……」


 ナターシャの瞳が、真っ赤な憎悪に燃え上がった。


「個人的な恨み」


 その声は、屈辱と悔しさで小刻みに震えていた。


「最初にお前を調べた時、お前はただの公爵令嬢に過ぎなかった。義務を果たし、王太子の婚約者としての役割を淡々とこなすだけの、どこにでもいる退屈な人形」


 彼女は、何か遠い記憶を辿るように目を細めた。


「でも、違った。お前は家族に愛され、友人に恵まれ……あんな王太子に捨てられても、今度は第二王子に愛される。私が決して持てなかったものを、お前は最初から全て持っていた」


 その言葉には、隠しようのない嫉妬が混じっていた。


「私は幼い頃から工作員として飼い慣らされてきた。人間らしい感情なんて許されず、ただ任務のためだけに生かされてきた。家族も、友人も、恋も……私にとっては全て、任務のための『演技』でしかなかった」


 ナターシャは吐き捨てるように笑う。


「それなのにお前は、何も犠牲にせず、何も失わずに全てを手に入れている。それが、どうしても許せなかった」


 私は、何も言い返せなかった。

 彼女の吐露した言葉に、嘘は混じっていないと感じたから。


「……それに、知ってる?」


 彼女の声が、わずかに揺れた。


「あの王太子はね、私を寵愛しながらも、何かにつけてお前を引き合いに出した。リリアナは冷たい女だと言ったそばから、『昔のリリアナは可愛げがあった』『あの頃は良かった』なんて。それを隣で聞かされる私の、滑稽で惨めな気持ちがわかる?」


 その告白には、プロとしての矜持を傷つけられた女の屈辱が滲んでいた。


「そして……ローゼンタール伯爵」


 彼女の声が、いっそ切ないほどに低くなる。


「任務のために演じていたはずなのに……あの人と過ごす時間は、心地よかった。本物の家族なんじゃないかって、初めて錯覚した。人間らしい居場所を、初めて得た気がした」


 彼女は、ゆっくりと瞳を閉じた。


「でも、お前のせいで全てが壊れた。計画も、疑似家族も、私が初めて手に入れた『まともな生活』も。全て、お前に奪われた!」


 ナターシャが目を見開き、私を激しく睨みつけた。


「だから殺そうと思った。どうせ失敗するなら、逃げる前にせめてあの女だけは道連れにしてやろうってね」


「プロの工作員が、私情で動いたというのか」


 殿下が呆れたように呟く。ナターシャは力なく笑った。


「私も人間よ。完璧な機械じゃない」


 彼女は手枷をかけられた自分の両手を虚しく見つめ、肩をすくめた。


「史上最高の工作員なんて言われても、最後は感情に負けた。……ただ、それだけのこと」


 殿下が騎士たちに頷きを返す。


「王都へ連行せよ」


 命令を受け、騎士たちが動き出す。

 ナターシャは最後にもう一度だけ私を見た。その視線には、憎悪と、そして奇妙な諦念が入り混じっていた。

 彼女はそのまま顔を背けると、静かに護送用の馬車へと乗り込んでいった。



(……とにかく、やったわ。アナ。ついに彼女を捕まえたわね)


 いつもなら真っ先に歓喜の声を上げるはずのアナが、妙に静かなことに違和感を覚えつつ、私は心の中で明るく声をかけた。


『家族も、友人も、恋も……全て奪われた、ね』


 アナの声が、心の奥底で反芻するように響く。


『未来では、私がそうだったのよ。リリィ』


    ◇


 数時間後、王宮の謁見の間。


 病床から無理に身を起こした国王ルドルフ陛下が、玉座に鎮座していた。顔色は優れないが、その瞳には王としての確かな意志が宿っている。

 その御前で、手枷をかけられたナターシャが冷たい床に跪かされていた。


 室内には、ヴィクトール殿下、私、そしてローゼンタール伯爵の姿があった。

 伯爵の顔は土色に蒼白く、この数週間で十歳も老け込んだように見える。


「証拠を提示せよ」


 陛下の下した重い声が響く。

 殿下が一歩前に出て、ノルヴェリアの内部文書、刺客の供述書、そして本物のセシリア一家の凄惨な記録を次々と読み上げていった。


「ローゼンタール伯爵」


 陛下が、震える伯爵に視線を向けた。


「そなたは、この者の正体を知っていたか?」

「いいえ……陛下……」


 伯爵の声は、今にも消え入りそうだった。


「私は……完全に騙されておりました。あの娘が本当のセシリアだと、信じて疑いませんでした」


 伯爵の目から、大粒の涙が溢れ出した。


「本物のセシリアは……四年前のあの事故で、もう……」

「分かった」


 陛下は静かに、慈悲を含んだ声で言った。


「歴代のローゼンタール伯爵の貢献と、そなたのこれまでの忠義を鑑み、故意はなかったと判断する。しかし、結果として国家反逆の幇助となった事実は重い。爵位と領地は安堵するが、しばしの謹慎を命ずる」


「……ありがたき幸せにございます」


 伯爵は深く頭を下げ、ふらつく足取りで退出していった。その背中は、見ているのが辛くなるほど小さく見えた。


「ナターシャ・ヴォルコフ」


 陛下が冷徹な眼差しで、ナターシャを見下ろした。


「そなたはノルヴェリアへ送還とする」


 ナターシャの瞳が、わずかに見開かれた。意外な裁定だったのだろう。


「両国の外交関係を考慮し、処刑ではなく送還とする。しかし、二度とこの国の地を踏むことは許さぬ。次に現れた時は、その首を刎ねるものと思え」


 ナターシャは何も答えなかった。ただ口元に冷ややかな笑みを浮かべたまま、騎士たちに連行されていく。

 謁見の間の重厚な扉が閉まり、彼女の姿は完全に見えなくなった。


「……ヴィクトール、リリアナ」


 陛下が、疲れを滲ませた声で私たちを呼んだ。


「よくやってくれた。そなたたちの働きがなければ、この国は取り返しのつかない危機に瀕していただろう」


「陛下、もうお休みください」


 殿下が心配そうに駆け寄る。陛下は小さく頷き、侍従に支えられながらゆっくりと玉座を後にした。


 再び、静寂が戻る。


「ようやく……終わりましたのね」


 私は、自分でも驚くほど小さな声で呟いた。


『やったわ、リリィ。ついに……』


 アナの声が、心の中で響いた。

 そこには確かな安堵と、どこか遠くを見つめるような一抹の寂しさが混じっていた。


 セシリアの断罪。

 それはアナにとって、最大の悲願であった復讐の完了を意味していた。


 だが、これで全てが終わったわけではない。

 最後の復讐——王太子エドワードの失墜が、まだ残っている。

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