第29話
【大陸暦一二二七年五月】
初夏の風が、王都の街路樹を優しく揺らしていた。
新緑の季節。長い冬が完全に幕を下ろし、木々は生命力に満ちた鮮やかな葉を茂らせている。王宮の庭園では薔薇が咲き始め、風に乗って甘く濃厚な香りが漂っていた。
あの日――未来の記憶を持つ「アナ」が処刑され、私の中に現れた日から約一年九ヶ月。
かつての私が処刑されるはずだった運命の日まで、残り一年と三ヶ月。
私は自室の窓辺に立ち、吸い込まれそうなほど高い初夏の青空を見上げた。
あの日から、私とアナは多くの戦いを乗り越えてきた。
フェリックスを失脚させ、ダミアンを逮捕へと追い込み、王妃アデライーデを幽閉させた。そして先月、ついに決定的な手がかりを得た。あのセシリアがノルヴェリアの使節と密会していたという疑惑だ。
ヴィクトール殿下の諜報機関は今、その方面への調査を総力を挙げて進めている。
全ては順調に進んでいる。いや、順調すぎるほどに。
『ねえリリィ。今日のヴィクトールとの会議、午後二時からよね』
アナの声が、ごく自然に頭の中に響いた。
(ええ、そうね)
私は声に出さず、心の中で応じる。
最近では、特に意識せずとも思考のやり取りができるようになっていた。
『調査の進捗報告でしょ。何か新しい事実を掴めていればいいけど』
(ええ、期待しているわ)
二人の会話は、驚くほど滑らかだった。以前のような「頭の中に他人がいる」という違和感は消え、今や私たちは息の合った最高のチームとなっていた。
考えることも、感じることも、徐々に境界線が失われつつある。
それは喜ばしいことのはずだった。
でも、何故だろう。最近、少しだけ奇妙な感覚を覚えることがあるのだ。
◇
午後二時、私はヴィクトール殿下の執務室を訪れた。
殿下は書類を整理しながら、私を温かく迎えてくれた。その青灰色の瞳は、いつものように冷静で、それでいて私に向けるときはどこか柔らかい。
「リリアナ、よく来てくれた」
「お呼びいただき、ありがとうございます」
席に着くと、テーブルの上には諜報機関からの生々しい報告書が広げられていた。
「監視を続けているが、相手も相当に用心深い。決定的な物証はまだだ。ただ――」
殿下が報告書を手に取った瞬間。私の脳裏に、ある推測が閃光のように走った。
『ノルヴェリアの諜報機関が、数年前に王国への工作員派遣を――』
「ノルヴェリアの諜報機関が、数年前に王国への工作員派遣を――」
私とアナが、全く同じタイミングで、一語一句違わぬ言葉を紡いだ。
『あ』
(え……)
『ごめん、どうぞ』
(いえ、あなたが先よ)
心の中で、アナの声と私の思考が完全に重なり合った。まるで合わせ鏡を見ているような、得体の知れない感覚に襲われる。
「リリアナ?」
急に黙り込んだ私を、ヴィクトール殿下が不思議そうに見つめた。
「あ、いえ。何でもありませんわ」
慌てて微笑んで誤魔化したものの、心臓の鼓動が早まるのを止められなかった。
今の現象は、何だったのだろう。アナの助言を聞くより先に、私も同じ答えに辿り着いていた。どちらが先に考えたのか、その源流すら判然としない。
『ねえリリィ、今のって……』
アナの声も、わずかに戸惑っているようだった。
(私も、全く同じことを考えていたわ。同時に)
『そうよね……本当に、同時。私たち、息ぴったりね』
アナは努めて明るく言ったが、その響きには言いようのない複雑な感情が混じっていた。
◇
その日の夕方、私はマリアと談笑していた。
「お嬢様、明後日のロゼンガルテン伯爵家で開かれるお誕生会ですが、お召し物はいかがなさいますか? 新調した薔薇色のドレスと、まだ袖を通されていない淡い水色のドレスがございますけれど」
「そうね、エリザベータ様は華やかな装いがお好みだから――」
薔薇色のドレスにしましょう。そう言いかけた瞬間、心臓の奥を掴まれるような強烈な忌避感が走った。
あのドレスは駄目だ。選んではいけない。
『……淡い水色のドレスにしなさい。未来の私はね、薔薇色のドレスを着て行ったわ。そうしたらエリザベータ様と色が完全に被ってしまったの。しかも私の方が質の良い生地を使っていたから、主役より目立ってしまって……本当に申し訳なかったわ。後に「リリアナがわざと恥をかかせた」なんて噂まで流されたのよ。今思えば、あれもセシリアの差し金だったんでしょうけど』
アナの説明は具体的で、ありありとその光景が浮かぶものだった。
しかし――私がその説明を聞き終わるよりずっと前に、私の心はすでに「水色」を選んでいた。アナが理由を告げる前に、私は薔薇色のドレスを避けるべきだと分かっていたのだ。
「淡い水色のドレスを用意してちょうだい、マリア」
「かしこまりました、お嬢様」
マリアが退室した後、私は鏡に映る自分を見つめた。
(アナ、今の……分かった?)
『ええ。私が言う前に、あなたはもう答えを選んでいた。最近、こういうことが増えているわね』
(……ええ、そうね。本当に)
アナの助言を待たずとも、私自身が「未来の知識」を自分の直感として使い始めている。まるでアナと私の境界線が、霧が晴れるように曖昧になっていくような。
それは成長なのか、それとも。
◇
夜。私は自室のソファに身を沈め、窓の外に広がる星空を眺めていた。
初夏の夜風は涼しく、開け放たれた窓からカーテンを白く揺らして吹き込んでくる。
「ねえ、アナ」
私はふと思いたって、声に出して呼びかけた。
『何?』
「私たち、本当に良いコンビになったわよね。最初はあんなに大変だったのに。あなたの声が聞こえたとき、私、パニックで……」
私は苦笑しながら、あの日を思い出す。突然頭の中に他人の声が響き渡り、本気で病に冒されたのだと絶望したことを。
『ああ、そうね。あなた、幻聴だって騒いで大変だったわ。ベッドの下に隠したお母様の日記の在処を教えたら、ようやく信じてもらえたんだっけ』
「失礼ね。誰だってそう思うわよ。でも、今ではあなたがいて当然というか。一人でいるのが思い出せないくらいだわ」
『……そうね』
アナの声が、いつもより少し遠くなった気がした。
「マリアの裏切りも、王太子との婚約破棄も。全部、あなたがいたから乗り越えられたの。辛いこともあったけど、二人だったから楽しかったわ」
『あなたが頑張ったからよ。私はただの、未来の残滓なんだから……』
アナの声が、微かに震えた。
『だって、あなたは「私」なんだもの』
その言葉に、胸の奥がチクリと痛んだ。今までは、明確に「私」と「アナ」を区別できていた。けれど最近は――。
そのときだった。ふっ、と。アナの気配が消えた。
「アナ?」
返事がない。静寂だけが部屋を支配する。
「アナ!」
私は思わず立ち上がり、心の中で必死に叫んだ。
数秒の沈黙。そのわずかな時間が、永遠のような暗闇に感じられた。心臓がうるさいほど脈打ち、息が詰まる。
『……ごめん、ちょっと意識が逸れてたわ』
ようやく戻ってきたアナの声は、どこか無理をして明るく振る舞っているようだった。
「嘘ね」
『何が?』
「嘘をついているわ。何か、隠しているでしょう?」
『別に隠してなんか――』
「嘘よ」
私はきっぱりと言い放った。一年九ヶ月。この長い時間を共に過ごし、私は誰よりもアナの声の機微を知っている。
「最近、時々あなたの声が聞こえにくくなる。それに、あなたの考えが私の考えと混ざり合って、区別がつかなくなってきているわ」
アナはしばらく黙り込んでいた。そして、諦めたように深い溜息をついた。
『……そうね。私たち、混ざってきているわ。境界が曖昧になって、一つになろうとしているのよ。あなたと、私が』
静かだが、重い告白だった。
「混ざるって……。それは、あなたが消えてしまうということ?」
『消えるわけじゃない。一つになるだけよ。もともと、私たちは同じ一人の人間。現在のあなたと、未来の私――二つの経験が融合するのよ』
「でも、それは……『アナ』という個性が、いなくなるということじゃない!」
私の声が震える。アナはもはや単なる記憶の塊ではない。一緒に戦い、笑い、苦しみを分かち合ってきた、かけがえのない相棒なのだ。
『リリィ』
アナが、かつてないほど優しい声で私の名を呼んだ。
『ありがとう、そんなに心配してくれて。でも、大丈夫。私はあなたの血肉となり、魂の一部になる。いなくなるわけじゃないわ』
アナは、幼子をあやすような慈しみを持って続けた。
『考えてみて。最初は私の声が邪魔だったでしょう? でも今は、私がいて当たり前。融合すれば、もっと自然になるだけよ。私の知識も、後悔も、経験も、すべてをあなたの直感として、自在に扱えるようになるの。私の声を聞かなくても、あなたはもう迷わなくなる』
「それは……私が『未来のあなた』のすべてを継承する、ということ?」
『ええ。あなたは、二つの人生の記憶を併せ持つ、新しいリリアナ・エスタークになるのよ』
「新しい……リリアナ」
現在の私と、凄惨な死を経験した未来の私。その両方が一つになった人格。
「いつ……その時は来るの?」
『分からない。けれど、おそらくあの日よ。大陸暦一二二八年、八月十五日前後』
「八月十五日……」
来年の夏。未来のアナが処刑された日。そして、アナが私の中に現れた日。
『あの日、私は死んだ。だから、同じ日に私たちは完全に一つになるんじゃないかしら。それが、この現象の終着点よ』
「その日まで、あと一年と少し……」
私は窓の外を見た。瞬く星々が、私たちの運命を見守るように静かに輝いている。
「分かったわ。ならば、その日まで全力で一緒に戦いましょう。そして融合した後も、私はあなたを抱えて生きていく」
『ふふっ』
アナが笑った。それは、この世で最も信頼し合っている者同士にしか出せない、晴れやかな笑い声だった。
『相変わらず、無茶苦茶な前向きさね。でも、いいわ。その日まで全力で支えてあげる。融合したあなたは、きっと誰よりも賢く、強い女性になるわよ』
「ええ。約束よ」
胸の中にあった寂しさは、不思議と消えていた。
これは終わりではない。私たちが完成するための、新しい始まりなのだ。
◇
翌日、再びヴィクトール殿下との会議に臨んだ。
セシリアは相変わらず尻尾を出さないが、確実に包囲網は狭まっている。
「兄上は今も、彼女を聖女のように信じ切っている。決定的な証拠を突きつけるまで、何も見ようとはしないだろうな」
殿下が呆れたように零すと、私は深く頷いた。
「ですが、それももう長くは続きませんわ」
『ねえリリィ、ヴィクトール殿下って本当に几帳面よね。あの報告書の整理、見て? ミリ単位で揃ってるわよ』
(それは、確かにそうね。性格が出ているわ)
『未来では気づかなかったけど、こういう細かい配慮ができる人だったのね。王太子なんて、書類は側近に丸投げだったのに』
(……比較はやめて差し上げて)
『比較じゃないわ、観察よ。パートナーの特性を把握するのは軍師の基本でしょ?』
アナの声には、いつもの茶化すような響きが戻っていた。私は内心で小さく溜息をつく。
「リリアナ、何か気になることでも?」
「いいえ、殿下の頼もしさを再確認しておりましたわ」
微笑むと、殿下も優しく微笑み返してくれた。その穏やかな空気の裏側で、私たちは着実に刃を研いでいる。
◇
六月に入り、初夏の陽気はさらに色濃くなった。
王宮の庭園では、菖蒲や紫陽花がしっとりと咲き、色彩を深めている。
最近では父や兄との食事も、ごく自然なものになっていた。かつての氷のような関係は溶け、今では家族としての情愛を感じることができる。
すべてが、未来とは違う。運命は、確かに書き換わっているのだ。
その夜、私は再びアナと語り合った。
『ねえリリィ。調査が進むほど、私は自分が嫌になるわ。どうしてあんな男を信じてしまったのか、なぜセシリアをもっと早く疑わなかったのかって』
「今回は違うわ。私たちが二人で、正体を引きずり出してあげるのよ」
『ええ。まずはセシリアを片付ける。その後の未来は、リリィ、あなたが自分で選びなさい。私のように流されるんじゃなく、あなたの心に従って』
(アナ……)
窓の外を見れば、夏が刻一刻と近づいている。
セシリアとの最終決戦。そして、アナとの境界が消えるその時。
「ねえアナ。私たち、きっと大丈夫よね」
『……ええ、そうね』
アナの声が、風のように優しく包み込む。
『きっと、大丈夫よ』
星の瞬く夏の夜。二つの人格が、まだ「二人のまま」語り合える貴重な時間。
それは別れではなく、一つの「究極のリリアナ」へと生まれ変わるための、愛おしい準備期間であった。
あの日から、約二年の月日が経とうとしていた。




