第2話
【大陸暦一二二五年八月十五日・午後】
ロゼンガルテン伯爵邸へ向かう馬車の中で、私は窓の外を眺めていた。
王都の街並みが流れていく。石畳の道、行き交う人々、活気ある市場の声。いつもと変わらない、平和な午後の風景。けれど私の胸は、言いようのない不安に支配されていた。
「お嬢様、もうすぐ到着いたします」
向かいの席に座る侍女のマリアが、穏やかな笑顔で告げた。
何も知らない彼女は、いつもと変わらぬ献身的な様子で私の身なりを整えてくれる。
「ええ、ありがとう、マリア」
私は頷いたが、その笑顔を見ても心の震えは止まらなかった。
これから、セシリア・ローゼンタールという令嬢に会う。未来の私が言うには、この女性こそがすべての元凶。私を断頭台へと送った張本人だという。
『――覚悟はいい?』
頭の中で、未来の声が冷ややかに問いかけてくる。
私は小さく息を吐いた。正直に言えば、まだ覚悟など決まってはいない。
「……まだ信じられないわ。セシリア様が、そんな恐ろしい方だなんて」
独り言のように漏らしてしまい、慌てて口を閉じる。案の定、マリアが不思議そうに私を見ていた。
「お嬢様?」
「い、いえ、何でもないわ。お茶会の話題を少し、考えていただけよ」
取り繕うように微笑むと、マリアは納得したように頷いた。けれど、私の胸の内は鉛を飲み込んだように重いままだ。
『すぐに分かるわよ』
未来の声は、どこまでも確信に満ちていた。
『あの女の底知れなさがね。そして、私の言葉が真実だってことも』
やがて馬車が静かに停まり、私たちはロゼンガルテン伯爵邸に到着した。
門をくぐれば、手入れの行き届いた広大な庭園が目に飛び込んでくる。色とりどりの薔薇が咲き誇り、風に乗って甘い香りが鼻腔をくすぐった。
◇
お茶会の会場は、美しい庭園に面した陽光溢れるサロンだった。
大きな窓から差し込む午後の光が、部屋全体を柔らかく包み込んでいる。天井からは水晶のシャンデリアが眩い火花を散らし、壁には歴史ある名画が並ぶ。
すでに何人かの令嬢たちが到着しており、扇を手に歓談を楽しんでいた。
「リリアナ様、お待ちしておりましたわ」
主催者であるロゼンガルテン伯爵令嬢、エリザベータ様がにこやかに出迎えてくれる。栗色の髪を華やかに編み上げた、社交界の中心人物の一人とも言える令嬢だ。
「エリザベータ様、本日はお招きいただきありがとうございます」
「こちらこそ、お越しいただきありがとうございます。今日は新しいお客様もいらっしゃいますの。最近デビューされたばかりなのに、もう完璧な令嬢として評判で……ああ、ちょうど!」
エリザベータ様が弾んだ声で入口の方を見た。
釣られるように視線を向けた瞬間、私は思わず息を呑んだ。
プラチナブロンドの髪が、差し込む陽光を受けて眩いほどにきらめいている。
まるで最高級の絹糸を紡いだような、滑らかで美しい髪。それが優雅に結い上げられ、清楚な白い花の髪飾りで彩られていた。翠緑の瞳はエメラルドのように澄み渡り、レースをあしらったドレスは彼女の純真さを引き立てている。
その姿は、まるで神話の世界から抜け出してきた女神のようだった。
「皆様、こちらがセシリア・ローゼンタール様ですわ」
エリザベータ様の紹介を受け、彼女は流れるような動作で膝を折った。
「お初にお目にかかります。セシリア・ローゼンタールと申します」
鈴を転がすような、清涼感のある声。
その一挙手一投足には洗練された品格があり、見る者を一瞬で虜にする魔力が宿っていた。
『出たわね……』
頭の中で、未来の声が忌々しげに低く呟いた。猛毒を持つ蛇を見つけた時のような、底冷えする嫌悪。
『この女よ。私からすべてを奪い、死へと追いやった元凶』
心臓の鼓動が早まる。
けれど、目の前の少女は――こんなにも柔らかな微笑みを浮かべ、一点の曇りもない佇まいで立っている。
「まあ、なんて美しい方……」
私の隣にいた令嬢が、うっとりと溜息を漏らした。
セシリアの視線がゆっくりと会場を巡り、そして、私のところで止まる。
「まあ、リリアナ様!」
彼女はパッと顔を輝かせ、私の方へ歩み寄ってきた。
足取りは軽やかで、ドレスの裾がまるで春の蝶が舞うようにふわりと揺れる。
「お初にお目にかかります! 以前からお噂はかねがね伺っておりました。エスターク公爵家のご令嬢として、そして王太子殿下のご婚約者として、学識も高く慈悲深い、理想の女性でいらっしゃると」
「あ、ありがとうございます……」
あまりに真っ直ぐな称賛に、私は気圧されるように答えた。セシリアの瞳には一点の邪気もなく、私に会えた喜びが純粋に溢れているようにしか見えない。
『騙されては駄目。いい、騙されないで』
未来の声が、こびりつくような鋭さで警告する。
『その笑顔も言葉も、すべては計算され尽くした劇薬よ。相手の心に忍び込むためのね』
けれど、どうしてもそうは思えなかった。彼女の瞳に宿る憧れは、鏡の前で練習して作れるような薄っぺらなものには見えないのだ。
「いいえ、私こそ。セシリア様のお噂は伺っておりますわ。とても素敵な方だと」
「まあ、恐れ多いですわ! 私など、皆様に比べればまだまだ至らぬことばかりで」
セシリアは頬を染め、慌てたように首を横に振った。その仕草ひとつとっても、守ってあげたくなるような可憐さに満ちている。
『ほら、この「謙遜」が彼女の武器よ』
未来の声が、冷淡に分析を続ける。
『自分を下に置くことで、周囲の警戒心を解く。そして無防備になった相手の懐に、音もなく入り込むの。蛇が獲物を狙う時のようにね』
お茶会が始まると、セシリアは瞬く間に輪の中心となっていった。
テーブルには銀の紅茶セットが並び、繊細な意匠の菓子が甘い香りを漂わせている。
セシリアは誰の言葉にも熱心に耳を傾け、絶妙なタイミングで言葉を添えた。
「セシリア様、そのハンカチの刺繍、本当にお見事ですわね」
「そんな、皆様に比べれば……私、刺繍は苦手で、いつも指を刺してばかりなんですの。血だらけになって、教師に叱られてばかりで」
セシリアが恥ずかしそうに打ち明けると、周囲の令嬢たちから親近感に満ちた笑いが漏れた。
「私も同じですわ! 刺繍は本当に難しくて」
「でしたら、今度ご一緒に刺繍をいたしませんか? 皆様から学びたいことがたくさんありますもの。お互いに教え合えたら、きっと素敵ですわ」
流れるような誘いに、令嬢たちは「ぜひ!」と手を取り合った。
彼女は自らの欠点を晒すことで相手の心の壁を取り払い、共通の話題で一気に距離を縮めてしまう。さらに、話題は音楽へと移る。
「セシリア様、ピアノもお得意だと伺いましたわ」
「少々嗜んでおりますけれど、皆様のような優雅な演奏には及びません。先日の演奏会で拝聴したエリザベータ様の音色は、本当に心に響きました。あの力強い低音の出し方、私にもいつか教えていただけますか?」
「まあ、セシリア様! 喜んでお教えしますわ」
自分の才能を語るのではなく、相手の才能を具体的に褒め、教えを請う。
称賛されたエリザベータ様は、誇らしげに顔を上気させていた。
『見なさいよ、この見事な社交術』
未来の声が吐き捨てる。
『相手の自尊心をくすぐり、自分を慕う者へと変えていく。教科書通りの人心掌握術ね。……ああ、反吐が出るわ』
私は黙って紅茶を口に運んだ。
確かに彼女の振る舞いは完璧だ。けれど、それは高い教育を受けた令嬢として当然の矜持ではないだろうか。
「リリアナ様」
ふいに、セシリアが私に顔を向けた。
「はい?」
「リリアナ様の学識の高さ、心から尊敬いたしますわ。王国の歴史や政まで深く理解されているなんて。殿下も、あなたのような聡明な婚約者をお持ちで、本当にお幸せでいらっしゃいますわね」
一点の曇りもない、翠緑の瞳。
「殿下は……とても、お優しい方ですわ」
「まあ! きっと、お二人の間には強い絆があるのでしょうね。羨ましいですわ」
セシリアは本当に、私たちの幸せを心から祝福しているように見えた。
『……ふん。探りを入れてきたわね』
未来の声が緊張を孕む。
『王太子との仲を確認しに来たのよ。敵を知るためにね。いい、今の笑顔を忘れないでおきなさい。この数年後、彼女はこの手であなたのすべてを奪うんだから』
私はティーカップをソーサーに戻した。手がわずかに震え、カチリと硬質な音が響く。
その後もお茶会は和やかに続き、誰もがセシリアに好意を抱いたまま幕を閉じた。
別れ際、セシリアは私の両手をそっと包み込んだ。その手のひらは、驚くほど温かかった。
「またお会いできますよう。私、ずっとリリアナ様のようになりたいと願っておりましたの。……いつか、本当の友人にさせていただけたら」
その真っ直ぐな熱量に、私は胸の奥が熱くなるのを感じていた。
『……はあ』
頭の中で、未来の私が深いため息をついた。底なしの愚かさを見るような、冷えた吐息。
『完璧に毒が回ったわね、リリアナ』
◇
帰りの馬車の中、夕闇が王都の街をオレンジ色に染めていく。
「お嬢様、セシリア様、本当に素敵な方でしたね」
マリアが弾んだ声で言う。彼女もすっかり魅了された一人らしい。
「ええ……本当に、あんなに優しくて控えめな方がいるなんて」
『いないわ。そんな生き物は、この世のどこにも存在しない』
未来の声が即座に否定した。
「でも、あんなに自然な振る舞いが、すべて演技だなんて……」
『だから「天才」だと言っているのよ。舞台役者ですら、あんなに見事には演じられないわ。誰も気づかない、綻びを見せない。それが彼女の真骨頂なの』
「でも、証拠がないわ……」
『そうね。今の彼女は、ただの「完璧な令嬢」だもの。けれど――』
未来の声が、残酷な宣告を下す。
『今夜、わかるわ。あの女の本性と、あなたの周りに潜む裏切りがね』
「今夜……?」
私は思わず声に出していた。マリアが不思議そうにこちらを伺っている。
「お嬢様? どうかなさいましたか」
「あ、いえ……少し、疲れただけよ」
慌てて窓の外へ視線を逸らす。
その時、私は違和感に気づいた。マリアの様子が、どこか落ち着かない。視線が定まらず、時折窓の外を気にしては、また私を見て、慌てて目を逸らす。
『気づいた? マリアの様子が、いつもと何だか違うことに』
未来の声が、静かに、けれど逃げ場を塞ぐように問いかけてくる。
『今夜、あなたは血を吐くようなショックを受けることになるわ。信頼していた者に裏切られるという、地獄のような真実をね』
馬車は規則的な音を立て、エスターク公爵邸へと向かう。
空は次第に濃紺へと沈み、不吉な夜の帳が降りようとしていた。
◇
深夜、私は自室でひとり、日記を綴っていた。
ランプの灯が、静まり返った部屋を朧気に照らす。
セシリアへの好感と、未来の自分の警告。その板挟みで、ペン先は何度も止まった。
『いいわ。今夜、証明してあげる』
未来の声が、闇の中から囁く。
「……証明?」
『マリアが今夜、あなたの日記を盗み見に来るわ』
心臓がドクリと跳ねた。ペン先からインクが滴り、日記の端に黒い染みを作る。
「まさか! マリアは五年も私に尽くしてくれているのよ。そんなこと、するはずがないわ!」
『五年仕えようが、十年経とうが、裏切る時は一瞬よ』
未来の声は、極北の氷のように冷たかった。
『彼女はセシリアに買収されているのよ。マリアの弟が、重い病気なのは知っている? その治療費と引き換えに、彼女はあなたの情報を逐一流しているの。殿下との仲、あなたの本音、弱点……すべてをね』
「弟の……治療費……?」
私は言葉を失った。マリアに弟がいることさえ、私は知らなかったのだ。
『信じられないなら、罠を仕掛けなさい。あなたが寝静まった頃、彼女は必ずここへ来る。今日のあなたの「本音」を盗み出すために』
未来の声に従い、私は震える手で日記を引き出しに収めた。
鍵はあえてかけず、中身が覗けるよう少しだけ隙間を開けておく。
部屋の灯りを消し、ベッドのカーテンの陰に身を潜めた。
窓の外には、冴えざえとした月が昇っている。
静寂の中で聞こえるのは、自分の早まる鼓動だけ。
信じたい気持ちと、裏切りの予感。
暗闇の中で、私はただ、重い扉が開く音を待っていた。




