第25話
【大陸暦一二二六年十月末】
調査団の最終報告が国王のもとに届けられた。私とヴィクトール殿下も、その場への同席を許された。
報告書を読み進める国王陛下の顔は、深い失望と怒りに歪んでいた。陛下は病床から重い身を起こし、分厚い書類の束を一枚ずつ、ゆっくりとめくっていく。その指先は、わずかに震えていた。
「……結局、証拠は動かしがたい、ということか」
陛下の声は、低く、地を這うように重かった。
「はい、陛下」
調査団の団長が、深く頭を下げた。
「帳簿の改竄跡、金銭の流れ、関係者の証言。すべてが符合しております。王妃陛下とグレンヴィル公爵閣下による不正は、もはや疑いようもございません」
陛下は報告書を閉じ、深くため息をついた。その肩が、耐えきれない重荷を背負ったかのように沈み込む。
「……分かった。王妃を呼べ」
◇
謁見の間に入ってきた王妃アデライーデの顔は、幽霊のように蒼白だった。
纏っている臙脂色のドレスこそ相変わらず華やかだったが、目の下の濃い隈が、謹慎の日々がいかに彼女を追い詰めていたかを物語っている。
「陛下……」
王妃の声は震えていた。彷徨わせた視線が私とヴィクトール殿下を捉えた瞬間、その瞳にドロリとした憎悪の色が浮かぶ。
「アデライーデ」
玉座に座る陛下が、疲労の滲む声で呼びかけた。
「調査の結果が出た。お前の不正は、確定的だ」
「そんな……そんなこと……っ」
王妃がよろよろと後ずさる。
「この書類には、お前とグレンヴィル公爵が行った五年間におよぶ横領の全容が記されている。総額も、その卑劣な使途も……すべてだ」
陛下が報告書の束を突きつける。王妃はそれを一瞥し、さらに顔を青ざめさせた。
「これは罠です! 誰かが私を嵌めようと……!」
叫ぶ王妃の声には、かつての威厳はなかった。それは窮鼠の叫びのように、絶望的な響きを帯びていた。
その時、王妃の視線がある一点に釘付けになった。彼女は目を見開き、ひったくるように侍従から書類を奪い取ると、狂ったようにページをめくり始めた。
「待って。この……書類の整理の仕方……」
王妃の手が激しく震え、一冊の帳簿を掴み出す。
それは横領金の流れを紐解くのに役立った、特に重要な証拠の一つだった。複雑な金銭の流れが、驚くほど整然と、あまりにも「証拠として都合の良い形」で整理されていた。
「この、この書類は……セシリア!」
王妃の顔から、完全に血の気が引いた。
「セシリアが、財務の書類を整理したいと申し出てきた時……私はてっきり、王太子の婚約者として学びたいのだと……!」
『あっ』
アナの声が、私の脳内に鋭く響いた。
『そういうこと!?』
(まさか……わざと、証拠が見つかりやすいように整理したの……?)
私は背筋に冷たいものが走るのを感じた。セシリアは王妃に歩み寄り、信頼を得て、その裏で王妃を破滅に導く確実な証拠を編み上げていたというのか。
「セシリア! セシリアをここに呼びなさい! 今すぐに!」
「アデライーデ、何を言っている」
陛下の制止にも、王妃は聞く耳を持たなかった。
「あの娘です! あの娘が、私に近づいてきて、書類を整理すると……そして、わざと証拠が見つかりやすいように仕組んだのです!
王妃が狂乱したように叫ぶ。陛下は深くため息をつき、静かに侍従へ合図を送った。
「……セシリア・ローゼンタールを呼べ」
◇
数分後、セシリアが謁見の間へと姿を現した。
水色のドレスをたおやかに揺らし、プラチナブロンドの髪を光り輝かせる彼女は、相変わらず何も知らない無垢な令嬢そのものに見えた。
「陛下、お呼びでしょうか」
その声はどこまでも柔らかく、翠緑の瞳は不思議そうに部屋を見渡している。
「セシリア! あなたが私を嵌めたのね!」
詰め寄ろうとする王妃を侍従たちが取り押さえる。セシリアは驚いたように目を瞬かせ、困惑の表情を浮かべた。
「あの……王妃様、何を仰っているのですか? お加減でも……?」
「しらばっくれないで! あなたが私の財務を手伝うと言い出し、書類を整理して……わざと証拠が見つかりやすいように仕組んだのでしょう!」
それまで驚きに見開かれていたセシリアの瞳がわずかに揺れた。だが、それは動揺ではなく、深い「悲しみ」の色だった。
「王妃様……それはあまりにも、酷い誤解でございます」
傷ついたように声を震わせ、彼女は陛下へと向き直る。
「確かに私は、王妃様のお手伝いをさせていただきました。ですが陛下、それは王妃様の方からお声がけいただいたことでございます」
「嘘を!」
王妃の叫びを、セシリアは悲しげな微笑みで受け流した。
「嘘ではございません。王妃様は『王太子妃になるなら、宮廷の財務を理解しておくべきだ』と仰いました。私はそれを光栄に思い、懸命に努めました。書類も王妃様のご指示通り、少しでも分かりやすくなるようにと整理したつもりでした」
セシリアの声は落ち着いていた。しかし、その目には涙が浮かんでいる。
「……正直に申し上げます。途中に幾度か、書かれた数字に疑問を持ったことは認めます。ですが、私が扱わせていただいた書類はほんの一部にすぎません。まして、王妃様が不正をなさっているなど、私は夢にも……」
セシリアの瞳から、ついに一筋の涙がこぼれた。その姿には、一点の曇りも感じられない。むしろ、信じた人間に裏切られた悲劇のヒロインに見える。
『完璧ね……』
アナが、苦々しげに吐き捨てた。
(ええ。これでは王妃の言葉は、ただの苦し紛れの責任転嫁にしか聞こえないわ)
案の定、周囲の貴族たちがざわめき始める。
「セシリア様は頼まれて手伝っただけではないか」
「そもそも、不正をしたのは王妃様ご自身に変わりはないではないか」
「継子の婚約者に罪を擦り付けようとするなんて、見苦しい」
蔑みの視線が王妃を刺す。セシリアは俯き、ハンカチで目元をぬぐった。
「私はただ……王妃様のお役に立ちたくて……」
そのか弱き姿に、王太子エドワードがたまらず彼女の肩を抱き寄せた。
「セシリア、君は何も悪くない。継母上は、君に八つ当たりをしているだけだ」
「エドワード様……」
王太子の腕にすがりつくセシリア。その構図は、悪しき魔女を打ち倒す勇者と姫君のようだった。王妃の顔が、絶望に歪む。
「違う……違うのよ……」
だが、もはやその声を拾う者は誰もいない。
「十分だ」
陛下の重々しい宣告が響いた。
「アデライーデ。証拠が揃った以上、私は処分を下さねばならない。お前は王妃としての職務をすべて停止し、これより離宮からの外出を禁ずる。王妃の地位を取り上げるつもりはないし、離宮内では自由にして良い。だが、来客や書簡のやり取りはすべて余の許可を必要とする」
「陛下!」
「グレンヴィル公爵には爵位を嫡男に譲らせ、隠居を命ずる。お前の実家がこれ以上、王宮に関わることは許さぬ。――これが、国を欺いた者への罰だ」
冷徹な陛下の声に、王妃はその場に崩れ落ちた。かつての威厳は粉々に砕け散り、ただ打ちひしがれた一人の女がそこにいた。
「連れて行け」
侍従たちに引きずられ、王妃は叫び声を上げながら謁見の間を後にした。
◇
王妃が退出した後、ヴィクトール殿下も静かに立ち上がった。その背中は、見ているこちらが胸を締め付けられるほど孤独に見えた。
「陛下、失礼いたします」
「ヴィクトール、待て。……お前には、酷な結果となったな」
「……はい」
殿下の声が微かに震える。
「だが、お前のしたことは正しい。王族として、国のために正しい選択をした。余はお前を誇りに思う」
「……ありがとうございます」
殿下は深く頭を下げ、足早に退出していった。その背中が、小刻みに震えているのを私は見逃さなかった。
◇
廊下を歩いていると、少し開いた扉の奥から声が聞こえてきた。思わず足を止めると、中には憔悴しきった王妃と、ヴィクトール殿下が向かい合っていた。
「……母上」
殿下の声は、鉛のように重かった。
「僕は、間違ったことをしたとは思っておりません」
王妃は答えず、ただ窓の外を見つめていた。その横顔には、絶望の影が深く刻まれている。
「母上は、僕に王位を継がせたかった。そのためにグレンヴィル家の力を強めようとした。それは分かっています。ですが……」
「……そうよ」
王妃が枯れた声で応じた。
「あなたを王にしたかった。エドワードよりもずっと、あなたの方が優秀だから。あの男が王になれば、あなたの才能は疎まれ、使い潰される。私にそれを黙って見ていろというの?」
「それでも、やり方が間違っていた! 横領や不正の上に築かれた王位など、僕は望まない!」
殿下の悲痛な叫びに、王妃は自嘲気味に、悲しく笑った。
「そうね、不正だわ。でもヴィクトール……あなたは知らないでしょう。私が、どれだけ……」
言葉を切り、彼女は窓の外を仰いだ。
「私は、愛されない王妃」
その告白に、殿下が息を呑む。
「陛下は、前王妃のエリザベート様を愛していらした。今でも、ずっと。私は政略で迎えられた二番目の妃に過ぎない。陛下は、愛するエリザベート様の息子を守るために、グレンヴィル家の力を必要とした。ただ、それだけだったのよ」
「母上……」
「陛下は優しかったわ。王妃として敬意を払ってくださった。でも、それだけ。私を見つめるその瞳には、いつもエリザベート様の面影があった。……比べられ続けるのよ。死んだ人間と。聡明で、国民に愛された完璧な前王妃の『影』として」
王妃の手が、窓枠を白くなるほど握りしめる。
「あなたを産んだ時、期待したわ。これで陛下も私を見てくださるのではないかと。でも……陛下の一番は、やはりエドワードだった」
殿下は言葉を失い、母を見つめることしかできない。
「だから、あなたを王にしたかった。あなたなら、エドワードよりも立派に国を治められる。そうなれば、私はようやく、あの人の影から抜け出せるのだと……」
「それは、母上の望みです。僕の望みではない」
殿下は絞り出すように言った。
「僕は母上に愛されたかった。王にしてほしかったわけじゃない」
「愛してるわよ!」
王妃の声が、初めて感情を剥き出しにした。
「あなたは私の息子。愛しているからこそ、最高位に就かせたかった!」
「でも、その愛が僕を苦しめた! 母上は僕のためと言いながら、不正を働き、リリアナを傷つけようとした。それは……愛とは言わない!」
王妃の顔が、リリアナの名に歪む。
「あの娘さえいなければ……」
「母上! リリアナは関係ない。母上が間違ったのは、その手段を選んだ時だ!」
長い沈黙の後、王妃は深く息をついた。その表情からは、毒気が抜けたような諦念が漂っていた。
「……そうね。私が間違っていた。でも、ヴィクトール。一つだけ覚えておいて。私がしたことは、すべて、あなたのためだったの。例えそれが、歪んだ愛だったとしても」
「……分かっています。だから、辛いんです」
王妃は小さく、悲しく微笑んだ。
「私を許さなくていい。でも、忘れないで。あなたは私の、たった一人の大切な息子よ。さあ、行きなさい。あなたには未来がある。私のような失敗をせず、野心に囚われて大切なものを見失わないで」
殿下は何も言えず、ただ深く、深く頭を下げた。
「母上、どうか……お体を大切に」
それだけを残し、殿下は部屋を出ていった。扉が閉まる音が、空虚に響く。
残された王妃は、震える肩を抱きしめ、誰にも届かぬ呟きを漏らした。
「愛されたかった。ただ、それだけだったのに……」
廊下の影で、私はそのすべてを聞いていた。
胸が締め付けられる。彼女が犯した罪は許されない。けれど、その根底にあったのは、ただ一人の女としての孤独な悲鳴だった。
『同情する?』
アナが静かに問いかける。
(……ええ、少しだけ)
『悲しい人ね。王妃という地位にいながら、本当に欲しかったものは、ついに手に入らなかったのだから』
月明かりが、廊下を冷たく照らしていた。
◇
その夜、私はヴィクトール殿下と密かに会っていた。
人目を避けた応接室で、彼は組んだ手を見つめたまま動かない。
「リリアナ。母親を告発し、幽閉に追い込んだ私は、やはり息子として最低の人間なのかもしれない」
「そんなことありません。ヴィクトール殿下、あなたは正しいことをされたのです」
「……そうだろうか」
彼は窓の外の月を仰いだ。そして、話題は王妃が最期に叫んだ「セシリアの罠」に及ぶ。
「セシリアが、わざと証拠を残しやすいように書類を整理したという話。あなたはどう思う?」
「分かりません」
私は正直に答えた。
「彼女が王妃陛下に接近していたのは事実です。ですが、それが王妃陛下を陥れるためだったのか、それとも単に権力者に媚びを売るためだったのか……」
「最初から、すべてを潰すつもりだったとしたら?」
殿下の言葉に、アナが冷静に付け加える。
『結果は同じよ。王妃が不正をした事実は変わらない。でも、もしあいつが意図的に導いたのだとしたら、その計算高さは異常だわ』
セシリア・ローゼンタール。王太子派にも王妃派にも入り込み、その両方を自滅に導くかのような動き。彼女の目的は、一体どこにあるのか。
「彼女の過去を、もっと徹底的に調べる必要がありますわ」
「ああ。今日、彼女は完璧に逃げおおせた。だが、確実に追い詰めてみせる」
月明かりの下、私たちは決意を新たにした。セシリアの正体――それを暴くことこそが、次なる戦いの焦点となる。




