第24話
【大陸暦一二二六年十月中旬】
庭園の木々の新緑が淡い朱色に変わり始めた頃、エスターク公爵邸をヴィクトール殿下が沈痛な面持ちで訪れた。
応接室のテーブルには、厚みのある書類の束が重々しく置かれている。
「アルフレッド公、これが……」
殿下は書類を見つめ、苦しそうに言葉を切った。
父は無言で、しかし深く頷いた。
「殿下が以前ご覧になったものより、さらに詳細な調査結果です。我が家の情報網が総力を挙げて裏付けを取りました。王妃陛下とグレンヴィル公爵家による不正の、これが全貌です」
殿下は震える指先で、一枚一枚、紙をめくっていく。
組織的な横領、帳簿の改竄、金銭の流れを示す緻密な記録。五年間にわたり、国庫から吸い上げられた莫大な富の証左がそこにあった。
「これほどまでとは……」
殿下の顔から、みるみる血の気が引いていく。
窓から差し込む秋の光が、彼の青ざめた横顔を峻烈に照らしていた。
「リリアナ殿」
ふいに、殿下が私を見つめた。その瞳には、深い自責の念が浮かんでいる。
「あなたは……私を恨まないか?」
「恨む……ですか?」
「私がもっと早く母上を止めていれば、あなたが危険に晒されることもなかった。母親の不正に気づきながら、即座に行動できなかった私の責任だ」
私は静かに首を振った。
「そんなことはありませんわ。殿下は今、誰よりも正しくあろうとされています」
「本当にそう思うか?」
「はい」
私は彼を真っ直ぐに見つめ返した。
「実の母を告発することが、どれほどの痛みか。私には想像もつきません。ですが殿下は、それでも正義を選ばれた。国のために、そして……私を守るために。その勇気を、誰が恨めるというのですか」
ヴィクトールの表情が、ほんの少しだけ和らいだ。
「ありがとう、リリアナ殿。あなたの言葉に、私は救われる」
『リリィ……』
アナの声が心に響く。
『ヴィクトール殿下は、本当に残酷な決断をしているわね』
(分かっているわ。でも、これは必要なことなのよ。王妃を止めなければ、この国そのものが腐り果ててしまう)
「……行こう。父上の、国王陛下のもとへ」
殿下は立ち上がり、証拠の束を強く抱えた。その背中には、愛を捨てて責務を背負った者の孤独な強さが宿っていた。
◇
国王の寝室には、微かに薬湯の香りが漂っていた。
天蓋付きのベッドに横たわるルドルフ陛下は、私たちが近づくと弱々しく身を起こした。
「ヴィクトールか。それに、リリアナも……」
陛下は枯れ木のように痩せていたが、その瞳にはまだ王としての鋭い光が残っている。
「父上、お加減はいかがですか」
「相変わらずだ。務めも果たせずこうして寝ている、情けない王だよ」
ヴィクトール殿下がベッドの傍らへと歩み寄る。
「父上。お伝えしなければならないことがあります。母上の、王妃アデライーデの不正についてです」
陛下の目が、わずかに見開かれた。
殿下から差し出された書類を受け取ると、陛下は一枚、また一枚と丁寧に目を通していく。室内を支配するのは、紙が擦れる音と、重苦しい沈黙だけだ。
やがて、陛下の手が小刻みに震え始めた。
「これは、事実か」
絞り出すような、掠れた声。
「はい。母上が国庫を横領し、実家であるグレンヴィル家へ流していた全記録です」
「……」
「流れた資金は、買収や政敵への攻撃……さらには、リリアナ殿を襲撃する計画の資金源にまでなろうとしていました」
襲撃、という言葉に陛下は驚愕し、ふらりとベッドから降りた。
「私が……私が病に伏している間に、これほどの暴走を許していたというのか……!」
その声には、深い自責が込められていた。陛下は窓辺に立ち、広大な王都を見つめる。
「王として、夫として……私は失格だ」
「父上……」
「アデライーデを呼べ。今すぐにだ!」
陛下が命じたその声は、病を感じさせないほど峻烈で、有無を言わさぬ威厳に満ちていた。
◇
十数分後、深紅のドレスを纏った王妃アデライーデが寝室に現れた。
室内を見渡した彼女の視線が私で止まった瞬間、明らかな嫌悪がその瞳に走る。
「陛下、お呼びでしょうか。ヴィクトールに、エスタークの娘まで……。病床にこれほどの人数が集まるとは、お体に障りますわよ」
王妃は余裕を装って微笑んだ。しかし、陛下が書類を突きつけた瞬間、その顔面から血の気が引いた。
「……これは、何ですの?」
「答えろ。お前は国庫を私物化し、グレンヴィル公爵へ流していたのか」
「罠ですわ! 誰かが私を陥れようと捏造したのです!」
王妃は激しく後ずさった。シルクのドレスが床を擦り、乾いた音を立てる。
「誰がそんな手の込んだことをする」
「それは……この娘ですわ! この狡猾なエスタークの娘が、私を疎ましく思って……!」
突きつけられた指先に、私は動じることなく静かな視線を返した。
『追い詰められた悪役って、誰も彼もお決まりの台詞を吐くのね』
(予想通りすぎて、驚きもしないわね)
「母上! リリアナ殿を巻き込むのはおやめください。これは、あなた自身の罪だ」
ヴィクトールの鋭い声が響く。
「ヴィクトール! あなたは私の息子でしょう!? なぜ、この娘の肩を持つの!」
「母上が間違っているからです。私は、正しい道を選びたいだけだ」
王妃の顔が、怒りと恐怖、そして絶望で醜く歪んだ。
「お前は……私を裏切るのね」
「裏切りではありません。これ以上、母上を『化け物』にさせないための決断です」
国王陛下が、重いため息をつくと共に宣告した。
「アデライーデ。これより全容を調査する。それまで、お前には谨慎を命じる」
「陛下、お待ちください!」
「王妃としての職務をすべて禁じ、自室に軟禁せよ。――連れて行け」
陛下の冷徹な命令により、王妃は叫び声を上げながら侍従たちに引きずられていった。
扉が閉まった後、部屋は重苦しい虚無感に包まれていた。
◇
調査は迅速、かつ容赦なく進められた。
王家の調査団はグレンヴィル公爵邸を家宅捜索し、王妃からの具体的な指示が記された書簡を数多く押収した。
判明した事実は、凄惨なものだった。
横領額は王宮予算の三割。それは福祉や国防に回されるべき血税だった。さらには、反対派貴族への脅迫や、実行犯を雇っての襲撃工作。
王妃とグレンヴィル家は、王家の富を「暴力の資金源」として使い込んでいたのだ。
「……母上を、告発してしまった」
夕刻のエスターク邸。
夕日に染まる応接室で、ヴィクトールは自嘲するように呟いた。
その肩は、いつになく小さく見える。
「母親を裏切った私を、あなたは軽蔑しないか?」
「裏切ったのではありません、ヴィクトール殿下」
私はゆっくりと彼に近づき、その視線を受け止めた。
「殿下がされたのは、愛する母を正しい道へ引き戻そうとする、真の愛情ですわ。間違いを見て見ぬふりをする方が、よほど残酷です」
「真の愛情……」
「ええ。殿下は、国と、そしてお母様ご自身のために、もっとも辛い道を選ばれたのです」
ヴィクトールは小さく微笑んだ。その表情には、憑き物が落ちたような清々しさが混じっている。
「……ありがとう、リリアナ殿。君の言葉に、救われるよ」
少しの間、二人の間に穏やかな沈黙が流れた。
ヴィクトール殿下は小さく息を一つつくと、遠い記憶を辿るように語り始めた。
「父上も、苦しんでいる。父上は、前の王妃陛下を深く愛していたんだ」
「前王妃陛下……エリザベート様ですか」
「ああ。兄上の母君だ」
殿下の瞳は、どこか遠くを見つめていた。
「エリザベート様が亡くなったとき、父上は深く悲しんだ。だがその時点では跡継ぎは兄上一人。当時、幼い兄上に対して不穏な企みもあり、父上は感情を押し殺して、軍閥のグレンヴィル公爵家から母上を妃に迎えたんだ。王としての義務のために」
「それは……お辛いことですね」
「父上は王妃として母上を尊重しようと努力されていた。だが、やはり心の中のエリザベート様への想いは消えなかったのだろう。そして今、母上に裏切られた」
殿下は、深くため息をついた。
「王妃陛下も、お気の毒な方ということでしょうか……」
「そうかもしれない。だが、王族は個人的な感情よりも国を優先しなければならない。父上のように、私も、そうありたいんだ」
殿下は立ち上がった。夕日が、その背中を照らしている。
「では、そろそろ失礼する。あなたと話せて、少し楽になった」
応接室の扉に向かって歩き出す殿下の背中は、どこか少しだけ軽くなったように見えた。
「殿下。一つだけ、お願いがございます。私のことは単にリリアナとお呼びいただけませんか」
「……ありがとう。実はそう呼ぶ機会を完全に失って困っていたところだったんだ」
そう言って、殿下はここ数日で初めて心からの笑顔を見せた。
◇
一方、王妃アデライーデは自室で謹慎していた。
扉の外には監視の兵が立ち、豪華な部屋は今や牢獄と化していた。
「これは……罠だわ。誰かが私を陥れようとしている」
しかし、心の奥では分かっていた。証拠はすべて本物だ。だが、認めるわけにはいかない。
「私は王妃よ。このまま終わるわけにはいかないわ」
窓の外を見つめる王妃の目には、未だ執念の炎が燃え盛っていた。
同じ頃、グレンヴィル公爵も書斎で頭を抱えていた。
証拠隠滅の時間すら与えられず、派閥の貴族たちは沈みゆく船から逃げ出す鼠のように離れていく。
「くそ……このままでは、すべてが終わる……」
そして、国王ルドルフは病床で報告書の山を見つめていた。
「アデライーデ……なぜ、こんなことを……」
政略結婚だったとはいえ、国王は彼女を尊重しようとしてきた。その努力は無残に裏切られた。王妃の裏切りは、病床の国王の心を深く傷つけていた。しかしそれでも、彼は王だった。
「証拠をさらに精査せよ。すべての真実を明らかにするのだ」
国王の命令には、揺るぎない決意が込められていた。
王宮の夜は更けていく。すべての真実が白日の下に晒される日は、もうすぐそこまで来ていた。




