第22話
【大陸暦一二二六年九月中旬】
婚約内定の発表から数日が経った。
私は久しぶりに社交パーティーの場に足を踏み入れていた。豪奢なシャンデリアが輝く大広間に入った瞬間、会場の空気がわずかに震え、あちこちから視線が突き刺さるのを感じる。
好奇、羨望、そして値踏みするような鋭い眼差し。
「まあ、リリアナ様!」
扇をひらめかせ、一人の貴族夫人が満面の笑みで駆け寄ってきた。
「ご婚約、おめでとうございます!」
「ありがとうございます」
「ヴィクトール殿下との婚約だなんて、本当に素晴らしいわ。リリアナ様、どうぞお幸せにね」
それを皮切りに、次々と貴族たちが祝福の言葉をかけてくる。その熱量は、一ヶ月前に王太子とセシリアの婚約が発表された時よりも、明らかに高かった。
『随分な人気者ね』
アナが皮肉っぽく脳内で囁く。
(私に人気があるのではないわ。皆、ヴィクトール殿下とお近づきになりたいだけ。分かりやすいくらいだわ)
『まあ、そうでしょうね。でも、利用できるものは何でも利用してやりましょう』
私は淑女の微笑みを崩さず、流れるように挨拶を返していく。
ふと、会場の隅で固まっているグループから、密やかな囁きが漏れ聞こえてきた。私は炭酸水のグラスを手に取り、喉を潤すふりをして耳を澄ませる。
「リリアナ様と第二王子殿下、本当にお似合いですわね。理想の二人だわ」
「ええ。あのお二人なら、きっとこの国を正しく支えてくださる」
夫人たちが期待に胸を膨らませて話している。
「ヴィクトール殿下は有能で誠実な方ですし、リリアナ様は言わずと知れた名門公爵家の至宝。才媛としての評判も高いですし。……それに比べて」
一人の夫人が声を潜めた。周囲の空気が、ピリリと緊張を帯びる。
「それに比べて、王太子殿下は……」
「まあ、奥様、滅多なことを」
「でも、皆様もお聞きになったでしょう? 先月の南部水害対策の件。予算配分を誤り、被災地への支援が大幅に遅れたとか。結局、第二王子殿下が独断で動いて支援を厚くし、ようやく王家の面目を保ったそうですわよ」
噂はさざ波のように広がっていく。私はグラスを傾け、静かにその波紋を見つめた。
「セシリア様があれほど献身的にお支えしているのに、王太子殿下は一向に……」
「本当に。セシリア様は素晴らしい方ですわ。先週も、殿下が外交文書の内容を誤解して隣国と揉めそうになった際、彼女が適切な助言をされて事態を収拾したとか」
「まあ、セシリア様がいらっしゃらなければ大変なことになっていたのね。おいたわしいわ、あれほど優秀な方が、お相手のせいで苦労なさって……」
『王太子の評判、完全に地に落ちているわね。聞いていて愉快だわ』
アナが楽しそうに笑う。
(ええ。セシリアがいくら完璧に立ち回っても、王太子の無能さは隠しようがないわ)
『でも、これはこれで少し厄介ね』
(どういうこと?)
『セシリアへの同情が集まりすぎているわ。彼女の評価が上がれば上がるほど、正体を暴いて引き摺り下ろすのが難しくなる』
(そうね。でも、今はこれで充分ではないかしら。歪みは必ず表に出るわ)
その時、重厚な足音と共に、宮廷の重鎮であるグレイソン伯爵が近づいてきた。
「リリアナ様、ご婚約おめでとうございます」
「ありがとうございます、伯爵」
「第二王子殿下と貴女の組み合わせは、まさに理想だ」
伯爵は周囲を警戒するように声を潜め、真剣な眼差しを私に向けた。
「正直に申し上げます。多くの貴族が確信し始めている。無能な王太子よりも、有能な第二王子こそが次期国王に相応しいと」
私は困ったように眉を下げ、慎み深く答える。
「伯爵、滅多なことを……。王太子殿下にはセシリア様という素晴らしい婚約者がおられます。きっと、これから良い方向へ変わられるはずですわ」
「……リリアナ様の慈悲深さには恐れ入る。だが、現実は残酷です。この一ヶ月だけでも殿下は失態を重ねすぎた。セシリア様がいかに優秀でも、殿下ご自身が変わらなければ国は傾く。第二王子派閥は、これから急速に勢いを増すでしょう。我らも、エスターク公爵家の協力を期待しておりますぞ」
『計画通りね』
アナが満足げに言った。
(ええ。貴族社会の空気が、確実に変わり始めている)
私は控えめに微笑み、伯爵を見送った。
会場のあちこちで、王太子への不信と第二王子への期待が入り混じり、熱を帯びた思惑が渦巻いていた。
◇
パーティーの後半、私は王太子派閥の重鎮たちが集まる一角の近くを通りかかった。
そこには華やかさとは程遠い、沈痛な空気が漂っている。
「困ったことになった。第二王子派閥の勢いが止まらん」
「このままでは、我々の立場も危うい。だが、どうすればいい。殿下はまた失態を演じられた」
「セシリア様がいらっしゃるではないか。彼女の知恵を借りれば……」
「セシリア様は確かに優秀だ。だが、彼女には後ろ盾がない。エスターク公爵家とローゼンタール伯爵家では、天と地ほどの差がある。王太子殿下ご自身が、その手で実力を示さねば未来はないぞ」
重苦しい沈黙が彼らの間を流れる。
「……我々は、どうすべきか。第二王子派閥に鞍替えすべきか?」
「馬鹿な! 今さら寝返ったところで、どちらからも信用されん」
「では、このまま沈みゆく船と心中しろと言うのか!?」
焦燥と不安。王太子派閥は、すでに内部から腐り始めていた。
『見なさい。王太子の足元はもうボロボロよ』
(ええ。放っておいても自滅しそうね)
『いいえ、それは許さない。私たちが引導を渡さなければ、復讐にならないわ。それに、彼らはこの国にとって毒でしかないもの』
私は優雅に歩を進めながら、会場全体を見渡した。
美しいドレスと宝石で飾られた貴族たちの裏側で、熾烈な権力闘争の火蓋はすでに切られているのだ。
◇
同じ頃、国王ルドルフは病床に横たわり、侍従からの報告に耳を傾けていた。
「陛下、ヴィクトール殿下とリリアナ様の婚約は、貴族社会で極めて好意的に受け入れられております。しかし同時に、王太子殿下への資質を問う声が日に日に強まっております」
侍従の言葉に、国王は深く目を閉じた。
枯れ枝のような指が、シーツを力なく掴む。
「エドワードは……やはり、変われなかったか」
漏れた呟きは、吐息のように儚い。国王は込み上げる咳を堪え、震える声で尋ねた。
「セシリア・ローゼンタールは、どうだ」
「はい。献身的に殿下を支えておられます。外交文書の件でも、彼女の適切な助言がなければ危機を免れなかったと、高い評価を得ております」
「そうか……」
国王の表情に、複雑な色が浮かぶ。安堵、そしてそれ以上に深い疑問。
「セシリアは、ローゼンタール伯爵の養女……間違いないな」
「はい。遠縁の男爵令嬢で、両親を事故で亡くして孤児となったところを引き取られたと聞いております」
「それにしては、随分と教養が高いように思えるが」
国王が低く呟いた。
「リリアナは幼少より、将来の王妃として最高の教育を受けてきた。それでも外交文書の機微を理解するには、膨大な知識と訓練が必要だ。それを、中堅貴族の、しかも養女である娘がなぜそれほど鮮やかにこなせる?」
「それは……確かに」
「ローゼンタール家に、王妃候補を育てるほどの力はないはずだ。一体、彼女はどこでその教養を身につけたのだ……」
侍従は答えられず、ただ頭を下げた。
国王は窓の外の暗い空を見つめ、力なく息を吐く。
「まあ良い。伴侶が優秀であることは、エドワードにとって幸運なことだろう。だが、それが逆に彼奴の影を濃くしている。皮肉なことだが」
「……恐れながら、その通りかと」
侍従が躊躇いつつも同意した。国王は深く息を吐いた。
「エドワードが王位を継いでも、ヴィクトールとリリアナがいれば国は何とかなるか……」
安堵と諦めが混じった声。国王はもう、息子を教育する気力を失っていた。ただ、ヴィクトールという「予備」が完璧に整ったことに、束の間の安らぎを見出していた。
◇
翌日の午後、私は父の書斎に呼ばれた。
デスクには、山のような書状が置かれている。
「リリアナ、座りなさい。昨夜のパーティーの後、驚くほどの数の貴族家から書状が届いた。すべて、エスターク家との関係強化を望むもの――つまり、第二王子派閥への合流希望だ」
父の言葉には、確かな勝利の予感が宿っていた。
「これで第二王子派閥は最大勢力となるだろう。だが、リリアナ。お前は今、もっとも重要な立場にいる。多くの目が、お前の挙動一つ一つを監視していると思え」
「はい、お父様」
「そして、王妃アデライーデ様だ。あの方は実子のヴィクトール殿下を愛しておられるが、同時に我が家の権力が肥大化することも望んでいない。繰り返すが、あの方がどう動くか警戒を怠るな」
父の警告を胸に刻み、私は書斎を後にした。
自室に戻り、窓から流れる雲を眺める。
『王妃がどう動くか、楽しみね』
(ええ。今は静かだけれど、嵐の前の静けさよ。あの方は必ず、私たちの前に立ち塞がるわ)
『準備はいい?』
(ええ。受けて立つわ。これが私たちの選んだ道、私たちの復讐だもの)
秋の風が、庭園の木々を激しく揺らしている。
分断された貴族社会。加速する権力闘争。
私は静かに瞳を閉じ、次なる一手へと意識を向けた。




