第20話
【大陸暦一二二六年八月中旬】
婚約破棄から数日が過ぎた。
私は自室のソファに深く腰掛け、読書を楽しんでいた。ようやく周囲の喧騒も落ち着きを取り戻し、柔らかな日差しが部屋に差し込んでいる。
「お嬢様、お茶をお持ちしました」
「ありがとう、マリア」
マリアが銀のトレイからティーカップを置くと、淹れたてのダージリンの華やかな香りがふわりと広がった。
私は本から目を離し、温かなカップを手に取る。琥珀色の液体が喉を通ると、心地よい安らぎが全身の強張りを解いていくようだった。
「お嬢様、最近はとても穏やかなご様子ですね」
「そうね。自由になったからかしら」
私が微笑むと、マリアも安心したように顔をほころばせた。
『自由? まだ数日しか経っていないのよ?』
脳内に、アナの呆れたような声が響く。
(だからこそ自由なのよ。あの王太子のご機嫌を伺うという、果てしないストレスから解放されたんだもの)
『ふふ、確かにね。でも、家に籠って読書ばかりで本当に大丈夫? この前もお兄様と競うようにベリーのタルトをお腹に詰め込んでいたじゃない。太った公爵令嬢なんて、私は御免だわ』
(余計なお世話よ。それより、次はどう動くと思う?)
『決まっているじゃない。王太子はセシリアと婚約するわ。予想通りの展開よ』
(ええ、そうでしょうね)
『あなた、意外に冷静ね。正直、もっとウジウジ悩むと思っていたけれど』
(……あなたがいるからよ。一人じゃないもの)
『まあ、私もリリアナ・フォン・エスタークなんだけどね』
思わず吹き出しそうになり、口元を押さえる。マリアが不思議そうにこちらを見ていた。
「どうかされましたか?」
「いいえ、何でもないわ。ただ、とても素敵な本だと思って」
マリアは首を傾げたが、それ以上は追及してこなかった。
アナとの会話は、もはや私の日常の一部。穏やかな午後の時間は、このままゆっくりと流れていくはずだった。
――コンコン、と扉が鋭くノックされる。
「失礼します。お嬢様に至急のお知らせです」
入室してきた執事の手には、一枚の書状が握られていた。
「王宮からです。王太子殿下が、本日夕刻に重要な発表をされるとのことです」
受け取った書状に目を通す。
国王陛下臨席のもと、王太子が発表を行う。貴族は謁見の間に参集せよ――簡潔な文面が、事の重大さを物語っていた。
『来たわね』
(ええ。予想通りだわ)
『セシリアとの婚約発表。王太子も無駄に素早いわね』
(焦っているのよ。一刻も早く、既成事実として国王陛下に認めさせたいのでしょう)
『哀れね。でも、それが彼の破滅への第一歩になるわ』
私は書状を執事に返し、身支度を整えるようマリアに命じた。
これから始まる茶番劇を、この目にしっかりと焼き付けなければならない。
◇
夕刻の王宮。
謁見の間は、重苦しい熱気に包まれていた。
私は父と兄に付き添われ、列席の一角にいた。玉座には、国王ルドルフ陛下が深く腰掛けている。お顔の色は優れないが、その眼差しにはまだ鋭い威厳が宿っていた。
大きなステンドグラスから差し込む斜陽が、大理石の床を血のような赤色に染め上げている。
「父上、本日は貴重なお時間をいただき、ありがとうございます」
王太子エドワードが国王に一礼した。その所作は形式的で、どこか浮ついている。
公の場で国王を「父上」と呼ぶその甘さに、周囲の貴族たちが微かに眉をひそめるのが分かった。
「エドワード、話を聞こう」
陛下の静かな、しかし重みのある声。その表情からは、息子の意図を察しながらも、それを心から喜べない複雑な葛藤が読み取れた。
「皆に、重要な報告がある。私は、新しい婚約者を迎えることにした」
王太子の宣言に、場内がしんと静まり返る。
皆が固唾を呑んで見守る中、彼は自信に満ちた声で名前を呼んだ。
「セシリア・ローゼンタール、前へ」
促され、セシリアが優雅に歩み出た。
驚きと喜びに震えているような表情を浮かべているが、すべては計算ずくだろう。純白のドレスが夕日に照らされ、彼女を神々しい聖女のように演出している。
「セシリア、君が私の新しい婚約者だ」
「まあ、殿下……! 私、信じられませんわ……!」
セシリアは両手を口元に当て、感極まったように声を震わせた。
その可憐な仕草、潤んだ瞳。初見の者なら誰もが庇護欲を掻き立てられるであろう、完璧な演技だ。
「君こそ、私に相応しい伴侶だ。優しく聡明で、誰からも愛される君なら、きっと素晴らしい王太子妃になるだろう」
「殿下……ありがとうございます。私、精一杯お支えいたしますわ」
深々と礼をするセシリアに、パラパラと拍手が湧き起こった。
しかし、それは決して祝福の熱を帯びたものではない。社交辞令としての、乾いた音が虚しく響くだけだった。
『茶番と分かっていても腹が立つわね』
アナの毒づく声が聞こえる。
(でも、貴族たちの反応は冷ややかよ)
『そうね。いくらセシリアが名演技をしても、肝心の王太子がこれではね』
「これにて、発表を終わる」
満足げに宣言する王太子に対し、陛下は何も仰らなかった。ただ一度、深く、失望の色を隠しきれない様子で頷かれただけだった。
◇
謁見の間を出ると、廊下のあちこちで密やかな囁きが渦巻いていた。
私は父たちの側を少し離れ、壁際に身を寄せて周囲の会話を拾う。
「セシリア様は確かに素晴らしい方だが……」
「ええ、あんなに優しく聡明な令嬢は稀ですわね。ですが、ローゼンタール伯爵家とは、あまりに意外でしたわ」
ある貴族夫人が、扇で口元を隠しながら小声で漏らす。
「それほど権勢のある家でもないでしょうに。由緒こそあれど……」
「うちの娘の方が、家柄も教育も上ですのに。納得がいきませんわ」
名門貴族の夫人たちの間には、明らかな不満の種が撒かれていた。
何年もかけて娘を磨き上げ、王家との縁を模索してきた彼女たちにとって、中堅貴族の娘が王太子妃に選ばれたことは屈辱に近い。
「それに、王太子殿下がもう少し有能であれば……」
年配の夫人が、重いため息とともに呟いた。
「エスターク公爵家との縁を切ったのは、致命的な愚策ですわ。リリアナ様であれば、殿下を正しく導いてくださったでしょうに」
「セシリア様がどれほど優秀でも、殿下のこれまでの失態を拭い去ることはできませんもの」
彼女たちの声は小さいが、確実に広がっていく。批判の矛先は、すでに王太子個人へと向かっていた。
その時、廊下の向こうから慌ただしい足音が響いた。
「失礼します! ローゼンタール伯爵がお見えです!」
侍従の声に続いて現れたのは、肩で息をする中年の男性――セシリアの養父、ローゼンタール伯爵だった。
額には汗が滲み、旅の埃を被ったその姿は、いかに急いで駆けつけたかを物語っている。
「これは伯爵。わざわざ領地からお越しに?」
「ええ……。娘の婚約の知らせを聞き、驚いて参りました」
伯爵の顔には、喜びよりも困惑が色濃く出ている。
「おめでとうございます。お嬢様が王太子妃になられるとは、家門の誉れですな」
「ありがとうございます。しかし、私自身、まだ信じられないのです。セシリアはまだ若く、王太子妃という大役が務まるのかどうか……」
困ったように頭をかく仕草には、都会的な洗練さは欠片もない。
彼は野心家などではない。調査の結果通り、領地で平和に暮らすことを好む、善良で凡庸な父親なのだ。
「正直に申しますと……私は今でも、エスターク公爵家のリリアナ様こそが王妃に相応しいと思っております」
彼が漏らした本音は、静まり返った廊下によく通った。
「あれほどの名家の令嬢こそが、王国の将来を支えるのだと信じておりました。それが、突然うちの娘が……」
「伯爵、お気持ちは分かります。ですが、これは殿下がお決めになったことですから」
周囲の貴族たちは同情を寄せつつも、獲物を見つけた獣のような目で伯爵を取り囲み始める。
「伯爵、これからはよろしくお願いしますぞ」
「セシリア様に、ぜひうちの娘を紹介させていただけないか」
「いや、それは……」
社交界の濁流に呑み込まれ、伯爵はただ曖昧に頷くことしかできない。
(セシリアの養父は、本当に何も知らないのね)
『ええ。娘の本性も、その裏にある野心も。すべてを知らないまま、泥沼に引きずり込まれているわ』
アナの声が、冷徹に響く。
(気の毒だわ。伯爵に罪はないのに)
『それが現実よ。セシリアは自分の目的のために、恩人である養父すら道具にしている。見なさい、これが貴族社会の醜悪な真実よ』
私は静かに頷き、その場を後にした。この不協和音だらけの舞台は、まだ序幕に過ぎない。
◇
その夜、私は月明かりの差し込む庭園で、ヴィクトール殿下と密会していた。
夜風が金木犀の甘い香りを運び、頬を優しく撫でていく。
「リリアナ殿、今日の発表にはあなたも来ていたんだな。兄上も、わざわざ呼ぶとは悪趣味が過ぎる」
ヴィクトール殿下が、苦々しく吐き捨てた。
「いいえ。皆様の生身の反応を見るには、絶好の機会でしたわ」
「君は本当に強い。普通なら、もっと動揺し、憤るはずなのに」
「動揺したところで、現実は一歩も動きませんから」
殿下は、私の答えに寂しげな苦笑を浮かべた。
「確かにそうだね。しかし、貴族たちの反応は明白だった。セシリアを賞賛すればするほど、兄上への不信感は深まっている。セシリアの才能が明らかになればなるほど、兄上の無能さが際立つんだ。皮肉なものだよ」
「ええ。彼女は確かに完璧な令嬢です。だからこそ、恐ろしい」
月光が殿下の横顔を照らし、その表情を険しく縁取る。
「リリアナ殿。君は今も、彼女の正体を暴くつもりかい?」
「もちろんです。それが私の、そして――私たちの目的ですから」
私の言葉に、殿下は真っ直ぐにこちらを見つめた。
「彼女は嘘をついています。あの慈愛に満ちた仮面の下にある、真実の姿を必ず引きずり出します。セシリアが嘘をついたまま王妃の座に就けば、この国は根底から腐り落ちてしまう」
「……分かった。僕も協力しよう。全力で、君の盾となり矛となろう」
殿下が私の手を取った。その掌の熱が、冷え切った私の指先へと伝わってくる。
「ただし、無理はしないでくれ。あなたの安全を、何よりも大切にしてほしい」
『あら。これは……』
(何でもないわよ)
『ふふ、そう? でも、心強い騎士様じゃない』
私たちは月明かりの下で、これからの戦略を静かに語り合った。
木の葉を揺らす風の音だけが、私たちの共謀を隠してくれていた。
◇
同じ頃、王宮の奥深く。国王ルドルフは、息子を私室に呼び出していた。
「エドワード、セシリア・ローゼンタールとの婚約は認める」
「ありがとうございます、父上! これで私もようやく、真に相応しい伴侶を得ることができました」
手放しで喜ぶ息子を、国王は冷めた目で見つめる。
「エドワード、一つ聞きたい。なぜ、リリアナ・フォン・エスタークではいけなかったのだ?」
「彼女は冷たすぎます。王太子妃には不向きです」
王太子は即座に、自信たっぷりに答えた。
「冷たい? 感情を制し、常に冷静であることは、王妃としての美徳ではないのか」
「いいえ、民に愛されるには何より優しさが必要です。セシリアにはそれがある。彼女こそが理想の妃です」
国王は深く、重いため息をついた。
病に蝕まれた身体を揺らし、窓の外の月を仰ぐ。
「……もうよい。下がりなさい」
王太子が退出した後、静寂だけが部屋に残された。
ルドルフは、激しい咳き込みを抑えながら自問する。
(エドワードは、何も分かっていない。リリアナという類稀なる才女を自ら手放すことが、どれほどの損失か。私が健勝であれば、もっと早く手を打てたものを……)
国王の瞳に、深い絶望と、王国の行く末への懸念が過った。
◇
自室に戻った王太子エドワードは、最高の気分でワインを口にしていた。
窓から見える月が、自分の輝かしい未来を祝福しているように見える。
「これで全てうまくいく。セシリアがいれば、私は歴史に名を刻む名君になれるはずだ」
鏡に映る自分を見つめ、満足げに口角を上げる。
「リリアナは間違っていた。私の判断を冷淡に批判するだけの女など不要だ。セシリアこそが、私を真に理解し、愛してくれる唯一の女性なのだから」
彼は拳を握りしめ、根拠のない自信に酔いしれていた。
父の失望にも、貴族たちの冷笑にも、背後に忍び寄る破滅の足音にも気づかぬまま。
「明日から、新しい時代が始まる。私とセシリアの手で」
王太子は、無邪気でさえある笑みを浮かべた。
その盲目な執着が、やがて自らを焼き尽くす炎になるとも知らずに。




