第15話
【大陸暦一二二六年四月初旬・夜】
人気のない王宮の廊下を、私とヴィクトール殿下は静かに進んでいた。
足音を殺し、冷たい壁の影に身を寄せながら目的地へと向かう。
高い窓から差し込む月明かりだけが、石造りの廊下を青白く、ぼんやりと照らしていた。
マリアから得た情報によれば、ダミアンとセシリアが、今夜九時に王宮の端にある応接室で密会するという。
その現場を押さえれば、二人の繋がりを証明できるはずだ。
『緊張してる?』
アナの声が、心の中に直接響いた。
(少しね)
正直に認める。こんな真夜中に王宮を忍び歩くなんて初めてだ。
もし見つかったら、言い訳のしようがない。
『大丈夫よ。その時はその時。ヴィクトール殿下に何とかしてもらいなさい。あなたは落ち着いて』
肺の奥まで冷えた空気を吸い込み、気持ちを落ち着かせた。
前を行くヴィクトール殿下の背中は、夜の闇の中でも不思議と頼もしく見える。
やがて、目的の応接室が見えてきた。扉の前には誰もいない。
ヴィクトール殿下が小さく手を上げ、私に待機の合図を送る。
応接室の隣には、小さな控室があった。
事前に調べた通り、二つの部屋は薄い壁一枚で仕切られている。控室の扉をわずかに開けておけば、隣の会話を聞き取ることができるはずだ。
「ここで待とう」
ヴィクトール殿下が囁いた。低く落ち着いた声だが、そこには確かな緊張が滲んでいる。
控室の中に入ると、身を隠す場所はほとんどなかった。
私たちは壁に背を預け、ただ息を殺す。
窓から差し込む月光が室内を淡く照らし、浮遊する埃がキラキラと光っていた。
鼻をつくのは、長い間使われていない部屋特有の、少し湿った埃っぽい匂いだ。
『もうすぐ来るわよ』
アナが囁いた直後、廊下に足音が聞こえてきた。
二人分。一つは軽やかで、もう一つは少し重い。
「……こちらに」
セシリアの声だ。
鈴を転がすような柔らかく優しげな声。けれど、今の私にはその響きが氷のように冷たく感じられた。
社交界で見せる清楚な笑みの裏に、一体何を隠しているのか。
「分かりました」
答えたのはダミアンだった。
いつもの丁寧な口調だが、どこか余裕がないようにも聞こえる。
二人が応接室に入る気配がし、重厚な扉が閉まる音が響いた。
ヴィクトール殿下が、そっと控室の扉を数センチだけ開ける。
隙間から覗く応接室では、ろうそくの炎に照らされて、セシリアのプラチナブロンドの髪がゆらゆらと揺れていた。
ダミアンは背中を向けて立っている。二人とも、こちらの存在には気づいていない。
『声を聞き取ることに集中して』
アナに促され、私は耳を澄ました。
ドクドクと、自分の心臓の音がやけに大きく響いて邪魔になる。
「……王太子殿下は、順調です」
ダミアンの声だ。壁越しでも、はっきりと聞き取れる。
「そう。それは良かったですわ」
答えるセシリアの声には、深い満足感が滲んでいた。
「春には……計画を……」
セシリアの声が不意に小さくなり、語尾が溶けて消える。
計画?
私は思わず身を乗り出しそうになったが、ヴィクトール殿下が制止するように私の肩を柔らかく抑えた。
「……リリアナ様は……」
ダミアンが私の名を口にした。心臓が跳ねる。
二人は私のことを、何と言っているのだろう。
「あの女は放っておいて。どうせ何もできはしないわ」
セシリアの声が、鋭い刃物のように冷たく響いた。
その瞬間、私の中で何かが凍りつく。
あの女――。
清楚な微笑みの裏で、彼女は私をそんな風に呼んでいたのか。
『冷静に。感傷に浸ってる場合じゃないわよ』
アナの声が頭を打つ。
その通りだ。今は感情に流される時ではない。証拠を掴むことが最優先だ。
「……殿下の信頼は……」
ダミアンが再び何かを言ったが、距離があるせいか会話が途切れ途切れになる。
もどかしい。もう少し近づければ……。
けれど、これ以上の接近はあまりに危険すぎた。
やがて会話が終わったのか、足音がこちらへ近づいてくる。
私たちは急いで控室の奥、闇の濃い場所へと身を隠した。
呼吸を止め、ただ時間が過ぎるのを待つ。
応接室の扉が開き、二人が立ち去る気配がした。
足音が廊下の彼方に消え、完全な静寂が戻ってから、私たちはようやく控室を出た。
「……決定的な証拠までは掴めなかったな」
ヴィクトール殿下が低く呟く。その声には、隠しきれない悔しさが滲んでいた。
「でも、二人が密会していた事実は確認できました」
「ああ。だが、それだけでは不十分だ。言い逃れを許さない確証がいる」
殿下の青灰色の瞳が、月光を受けて鋭い光を放つ。
「明日、ダミアンを問い詰めてみてほしい。動揺を誘えば、本音を引き出せるかもしれない」
「分かりました」
私は力強く頷いた。
ダミアンとの直接対決。明日が正念場になる。
「ただし、一人で危険な真似はさせられない。私の配下の護衛を、目立たないよう配置しておく。何かあれば、すぐに駆けつけられるようにな」
その言葉に、強張っていた心が少しだけ解けた。
ヴィクトール殿下は、いつだって私を守るための細やかな気配りを忘れない。
そして――。
協力してくれたマリアのことも考えなければならない。
ダミアンを問い詰めれば、密会の情報が漏れていたことにセシリアは気づくだろう。そうなれば、真っ先に疑われるのは彼女だ。
『マリアの立場が危うくなるわね』
アナが冷静に指摘する。
(ええ……これ以上、彼女に危ない橋を渡らせるわけにはいかないわ)
『ヴィクトール殿下に相談しなさい。彼なら別の情報網も持っているはずよ』
私は心の中で頷いた。マリアには感謝している。だからこそ、彼女を破滅に巻き込むわけにはいかないのだ。
◇
翌日の昼過ぎ、私は王宮の廊下でダミアンと遭遇した。
ダミアンは相変わらず整った容姿で、表面上は完璧に丁寧な笑みを浮かべていた。
黒髪を端正に整え、侯爵家の跡取りとして非の打ち所がない装い。
けれど、今の私にはその笑顔が仮面のように薄っぺらく見えた。
昨夜の密会を知った今、その裏に何が隠されているのかを考えずにはいられない。
「リリアナ様、ご機嫌いかがですか」
「ダミアン様」
私は足を止め、真っ直ぐに彼の目を見つめた。
一瞬、ダミアンの灰色の瞳が、捉えきれないほどわずかに揺れる。
「少し、お話ししたいことがありますの。よろしければ、庭園を歩きませんか?」
春の陽気に誘われて散歩を、という自然な体裁を装う。
ダミアンは一瞬躊躇する素振りを見せたが、突然の誘いに対する好奇心が勝ったのだろう。小さく頷いた。
「承知いたしました」
王宮の庭園は、春の花々が咲き誇り、むせ返るような甘い香りに包まれていた。
薔薇の新芽が力強く伸び、花壇には色とりどりのチューリップが整然と並んでいる。
遠くで庭師が作業をする剪定鋏の音が、パチン、パチンと規則正しく響いていた。
完全な二人きりではないこの距離なら、周囲の目も気にならない。
私たちは小道を歩きながら、言葉を交わした。
最初は、春の陽気や花々の美しさといった、どこまでも無難な話題。
けれど、私は機を見計らって本題を切り出した。
「ダミアン様。あなたは、セシリア様と随分親しくされているようですわね」
「……それが何か?」
ダミアンの声が、一気に硬くなった。
「昨夜、応接室で会っていらしたでしょう?」
はっきりと言い放つ。
ダミアンの足が、ピタリと止まった。
振り返った彼の顔は、幽霊でも見たかのように青ざめている。
「……誰から聞いたのですか」
動揺が隠しきれず、声が上ずっている。
視線が泳ぎ、額にはうっすらと汗が浮かび始めていた。
『あら。図星を突かれた人間の顔って、本当に面白いものね』
アナが愉しそうに囁く。
「それはお答えできませんわ。でも、あなた方が密会していたのは事実です。何を話していたのですか? 王太子殿下のこと? それとも……私のことかしら?」
畳みかけると、ダミアンは苦しげに唇を引き結んだ。
沈黙の後、彼は絞り出すように言った。
「……黙秘します」
その瞳には、隠しきれない焦燥があった。
「黙秘? まるで、ダミアン様には何か後ろめたいことでもおありのようですわね」
さらに一歩踏み込む。ダミアンの肩が、わずかに震え始めた。
「違います! 私は何も……!」
「じゃあ、なぜ昨夜、セシリア様と二人きりで? 何を話していたのか、教えてくださる?」
ダミアンは答えられず、深く俯いた。
強く握りしめた拳が震え、唇を噛みしめる痛々しい様子が見て取れる。
『もう少し追い詰めなさい』
アナの冷静な指示。私は言葉を継いだ。
「ダミアン様、あなたはセシリア様に利用されているだけなのよ。気づいていないのですか?」
「……利用?」
ダミアンが顔を上げた。
その目には、先ほどまでの動揺ではなく、激しい怒りの炎が灯っていた。
灰色の瞳が、鋭く私を射抜く。
「セシリア様が、私を利用しているだと? 冗談じゃない!」
地を這うような低い、けれど激越な声。
今まで彼が見せたことのない、むき出しの感情だった。
遠くの庭師が驚いたようにこちらを振り返ったが、気まずそうにすぐに視線を戻した。
「冗談ではありませんわ。セシリア様はあなたを――」
「黙れ!」
ダミアンが叫んだ。開放的な庭園に、その怒声が木霊する。
「セシリア様こそ、この国の希望だ! あの方だけが、私たちを救ってくれるんだ!」
「救う? 何を言っているの?」
「私は遠縁の下級貴族の出で、養子として侯爵家に拾われた身だ」
ダミアンは吐き捨てるように言った。その声には、長年溜め込んできた澱のような苦しみが張り付いている。
「常に『成り上がり』と蔑まれる苦しみが、貴女に分かるか! 生まれながらの公爵令嬢である貴女に!」
その言葉の重みに、私は一瞬言葉を失った。
ダミアンの目には、深い怒りと悲しみが混沌と渦巻いていた。
「貴族の集まりに出れば、誰もが私を嘲笑う。『あれが例の養子か』『所詮は下級貴族の卑しい血筋だ』と囁かれる。どれだけ努力しても、どれだけ成果を上げても、出自という壁だけで全てが否定されるんだ!」
ダミアンの声は、もはや慟哭に近かった。
「セシリア様は違う。あの方は、貴族制度を変えてくれると仰った。出自ではなく、能力こそが正当に評価される国にしてくれると!」
「セシリアのその言葉を、本当に信じているの? あの人は……」
「黙れ! 何不自由なく育った公爵令嬢に、私の何が分かるというんだ!」
ダミアンは私を激しく睨みつけると、踵を返して走り去った。
その背中は、怒りと悲しみで小さく震えているように見えた。
色とりどりの花壇を横切り、彼は王宮の奥深くへと消えていく。
私はただ、その場に立ち尽くしていた。
春の風が頬を冷やし、花々の甘い香りがどこか虚しく鼻をくすぐる。
『……逃げられたわね』
アナの声だけが、いつも通り冷静に響いた。
(ええ……)
証拠不十分。彼を追い詰めることはできなかった。
ダミアンの本音は聞けた。けれど、それだけでは彼女たちの繋がりを断つには足りない。セシリアとの繋がりを証明する、揺るぎない証拠がどうしても必要だ。
でも――。
(気持ちは、分からなくもないわね……)
私は小さく、独り言を漏らした。
ダミアン、あなたはそんなコンプレックスに苛まれていたのね。
生まれがすべてを決定するこの貴族社会の中で、どれほどの孤独を抱えてきたのだろう。
『甘い!』
アナが厳しく一喝した。
『そのコンプレックスに漬け込むのがセシリアの手口よ。ダミアンはただ、都合よく利用されているだけ。目を覚ましなさい』
(でも……)
『「でも」じゃないわ。次は確実に証拠を掴む。今は感傷に浸っている場合じゃないのよ』
アナの言葉は正しい。頭では痛いほど分かっている。
けれど、ダミアンの瞳に宿っていたあの絶望的な色を思い出すと、胸が締め付けられるようだった。
確かに、私には一生理解できない苦しみ。想像することしかできない、持たざる者の痛み。
自室に戻った私は、窓辺に寄りかかった。
春の陽光が王都を黄金色に照らし、街路樹の新緑が風に揺れている。
(セシリアは、どうやってダミアンをあそこまで心酔させたのかしら)
『簡単よ。甘い理想を語り、救いという名の希望を見せたの。「貴族制度を変える」なんて、ダミアンにとっては至高の救いだったんでしょうね』
(でも、本当にセシリアにそんな力が?)
『あるわけないでしょ。一介の伯爵令嬢が貴族制度の根幹を揺るがせるわけがない。ダミアンはただ、騙されているのよ』
アナの分析はどこまでも冷徹だった。
私も、理性ではそれを理解している。けれど、あのダミアンの悲痛な叫びだけは、どうしても演技だとは思えなかった。
『リリィ、あなたまだ甘いわ。敵を討つには、情けをかけている余裕なんてないのよ』
(分かっているわ……)
私は窓枠を強く握りしめた。
次は確実に証拠を掴む。ダミアンの感情的な吐露だけでは不十分だ。
セシリアとの密会の真実、そして彼女が描く真の目的を、白日の下に晒さなければ。
◇
その日の夕方、私はヴィクトール殿下に報告するため、再び彼の書斎を訪れた。
窓から差し込む夕日が、室内を血のような赤色に染めている。
「リリアナ殿、無事だったようだな」
ヴィクトール殿下が椅子から立ち上がり、私を迎えてくれた。
その表情には、はっきりとした安堵の色が浮かんでいる。
「はい。密会の具体的な内容は聞き出せませんでしたが、ダミアンの本音を引き出すことには成功しました」
「見張らせていた護衛の報告によれば、ダミアンは随分と興奮していたようだが」
殿下が静かに告げる。
「あと少しで、護衛が割って入るところだったと聞いた。リリアナ殿に危険な真似をさせたこと、詫びさせてほしい」
私は驚いて殿下を見上げた。殿下が謝るようなことではないのに。
「いいえ。むしろ、私の知らないところでお守りいただいたこと、感謝いたしますわ」
「当然のことだ。君を危険に晒すわけにはいかない」
殿下はそう言って私に椅子を勧めた。
私は腰を下ろし、昼間の会話を克明に報告した。
ダミアンが抱える出自へのコンプレックス、セシリアへの心酔、そして「貴族制度の変革」という言葉。
ヴィクトール殿下は腕を組み、険しい表情で考え込んでいた。
燃えるような夕焼けを見つめ、沈黙が流れる。
「貴族制度改革、か」
やがて殿下が口を開いた。その声には、深い疑念が混じっている。
「妙だな。単に王太子妃の座を狙う令嬢にしては、掲げる野心が大きすぎる」
「私も同じ疑問を抱きました。王太子妃になりたいから制度を変えたいのか、制度を変える手段として王太子妃を狙っているのか。あるいは、単にダミアン様を取り込むための口実に過ぎないのか……」
「口実ならまだいい。だが、もし本気だとしたら――セシリア嬢、彼女は一体何者なのだ……?」
殿下の青灰色の瞳が、夕日を反射して鋭く光る。
「彼女の出自、そしてローゼンタール伯爵についても徹底的に洗う必要がある。本当にただの伯爵令嬢なのか、それとも背後に何者かがいるのか……」
殿下は言葉を切ったが、その目には確かな警戒が宿っていた。
「次は、確実に証拠を掴みましょう。ダミアン様の独白だけでは不十分です。セシリアとの実質的な繋がり、そして彼女の真の目的を暴かなければ」
「ああ」
ヴィクトール殿下が重々しく頷く。それから、少し表情を曇らせて続けた。
「ただ、リリアナ殿の侍女、マリアのことだが」
「はい」
「ダミアンが密会の露見に気づいた以上、これ以上彼女に潜入させるのは危険すぎる」
殿下の言葉に、私も同意した。やはり、考えることは同じだった。
「もうマリアをセシリアに接触させてはいけない。彼女を諜報活動から外すべきだ」
「では、セシリア様の監視は?」
「私の側で手配する」
ヴィクトール殿下は、断固とした口調で言った。
「マリア一人に頼る段階は終わった。王宮の護衛の中には、私に忠誠を誓う者がいる。彼らを使って、今度はダミアンの側から動向を探らせよう。セシリアは今、最高潮に警戒しているはずだからな」
その言葉に、私はようやく胸をなでおろした。
マリアを危険から遠ざけることができる。そして、殿下の強力な情報網が動くのだ。
「セシリアの正体、必ず私が暴いてみせる」
ヴィクトール殿下は、決意を込めてそう結んだ。
春の夕暮れが、王都を真っ赤に染め上げていく。
ダミアンとの対決は、不完全燃焼に終わった。けれど、私たちは新しい手がかり、そして巨大な違和感を手に入れた。
セシリアの野心は、私の想像を遥かに超えているのかもしれない。
その美しく微笑む仮面の裏には、まだ誰も知らない「何か」が潜んでいる。
私は暮れゆく窓の外を見つめた。
本当の戦いは、まだ始まったばかりなのだ。




