第13話
【大陸暦一二二五年十二月初旬】
冬の訪れとともに、王宮を包む空気は鋭い冷たさを増していった。
ヴィクトール殿下との協力関係を築くことに成功してから約一ヶ月。静かな冬の始まりであったが、その静寂の裏側では、確実に何かが動き始めていた。
定例の昼食会。王太子と向かい合って座るこの時間は、いつもなら話好きの王太子が主導権を握り、私が聞き役に回る穏やかなひとときだった。しかし、今日は殿下の様子がどこか違っていた。
「リリアナ」
「はい、殿下」
「……最近、少し疲れているように見えるが」
「そのようなことはございませんわ」
「そうか」
王太子の声には、以前のような温かみが薄れていた。何か引っかかるものがあるような、拭いきれない違和感を覚える。
『ダミアンが動き始めたわね』
アナの声が心に響いた。
『あいつ、毒を盛る代わりに「言葉」を盛っているわ。確実に王太子へ、あなたの悪評を吹き込んでる』
昼食会が終わり、一人廊下を歩いていると、待っていたかのようにダミアンが近づいてきた。
「リリアナ様、ご機嫌よう」
相変わらず丁寧な物腰だが、眼鏡の奥で光る冷たさが私の背筋を凍らせる。
「ダミアン様。ご機嫌よう」
「先日の夜会でのご様子を拝見いたしましたが……殿下に対して、少々距離を感じましたな」
「そのようなことはございません。私は常に殿下を敬愛しておりますわ」
「それは何よりです」
ダミアンは優雅に微笑んだ。しかしその笑みには、どこか作り物めいた冷ややかさがあった。
「ただ、殿下はリリアナ様の態度を気にしておられるご様子でした。婚約者として、もう少し温かく接して差し上げてはいかがでしょうか」
言うだけ言うと、ダミアンは一礼して立ち去った。
『印象操作の天才ね、あいつは』
(でも、私は何も変えていないわ。いつも通りに接しているのに……)
『事実なんて関係ないのよ。ダミアンはあなたの些細な沈黙を「無視」と呼び、あなたの慎み深さを「軽蔑」と呼び変えて王太子に届けている。言葉の錬金術師だわ』
その言葉の「毒」は、数日後の会合で目に見える形となった。
◇
十二月中旬。王宮での会合で、私は政務について意見を求められた。
「リリアナ。東の国境警備の増員要求について、どう思う? 予算を割くべきかどうか、迷っているんだ」
王太子が私に問いかける。その傍らには、いつものようにダミアンが控えていた。
「兄エリオットの報告によれば、隣国ノルヴェリアの活動が活発化しているとのことです。国防は国家の基盤。警備強化は妥当な判断かと存じます」
「しかし、ダミアンは財政負担を懸念して、民衆への還元に回すべきだと言っている。……リリアナ、お前は私の判断よりも、兄上の言葉を優先するのか?」
「いえ、殿下のお考えも一理ございます。ただ、国を守ることこそが……」
その瞬間、ダミアンが滑り込むように口を挟んだ。
「リリアナ様。今、殿下のお考えに『一理ございます』と仰いましたが、それはつまり、他に『より正しい理』があるということでしょうか?」
「いえ、そういう意味では……」
「殿下のご判断を疑問視なさるとは、婚約者としていかがなものかと」
王太子の表情が、わずかに曇った。
「ダミアン、リリアナはそういう意味で言ったわけではないだろう」
「失礼いたしました。しかし、リリアナ様は常に殿下のご判断に別の視点を提示されます。それは殿下を導こうというお気持ちからだとは存じますが……」
ダミアンはあえて言葉を濁したが、その意図は明白だった。「リリアナは殿下を否定したがっている」と印象づけているのだ。
『見事な曲解ね』
私は何も言えなかった。ここで弁解すればするほど、ダミアンの土俵に乗せられ、利用されるだけなのだ。
会合の後、私は一人で廊下を歩いた。
『だから言ったでしょ。ダミアンは曲解のプロ。どんな言葉も自分の都合良く解釈するわ』
(でも……)
『これからもっとひどくなるわよ。冬を通じて、あいつは執拗に王太子に吹き込み続けるわ』
◇
その夜、私は父と兄に状況を報告した。
「ダミアン様が王太子殿下に、何かを吹き込んでいるようです」
父は執務室の椅子に座ったまま、厳しい表情で私を見た。
「ダミアン・クロウか。あの男、表向きは忠実な側近を装っているが……」
「セシリア様の指示で動いている可能性が高いです」
兄エリオットが腕を組んで呟く。
「リリアナ、無理に誤解を解こうとするな。ダミアンのような男は、どんな言葉も自分の都合の良いように解釈する」
「ですが……」
「婚約破棄は避けられないだろう」
父の言葉は冷静だったが、その目には娘を案じる色が確かにあった。
「ならば、最良の形でそれを迎える準備をしろ。これは条件闘争になる。持参金、名誉保証、すべてを取り返す。そのためには、向こうから破棄を申し出させることが重要なのだ」
「分かっています」
兄が私の肩に手を置いた。
「リリアナ、お前は一人じゃない。俺たちがついている」
その言葉に、少しだけ胸の重さが軽くなった気がした。
◇
新年を迎えても、状況は変わらなかった。むしろ、ダミアンの暗躍は加速していた。
新年最初の昼食会で、王太子は以前よりもいっそう言葉少なだった。
「リリアナ、新年の民衆への施しについて相談したい。今年は例年より増やそうと思うのだが」
「殿下のご判断は正しいと思いますわ」
私は慎重に言葉を選んだ。しかし、同席していたダミアンが即座に口を挟む。
「リリアナ様、『正しいと思います』と仰いましたが、本心からそう思われているのでしょうか?」
「もちろんですわ」
「それならば幸いです。先日の会合では、殿下のご判断に疑問を呈しておられたように見受けられましたのでな」
王太子が私を見る。その視線には、明らかな疑いの色が混じっていた。
「リリアナ、私の判断が気に入らないのか?」
「そのようなことは……」
「なら良いのだが」
王太子は私から視線を逸らした。
『無駄よ。ダミアンが積み重ねた印象操作は、簡単には消えないわ』
昼食会が終わり、廊下でセシリアとすれ違った。
「リリアナ様、殿下とのお昼食会はいかがでしたか?」
「ええ、問題ございませんわ」
「そうですか。それなら良かったですわ」
セシリアは優しく微笑んだ。しかしその瞳の奥には、何かを計算するような不気味な光があった。
「最近、殿下は少しお疲れのご様子ですわね。リリアナ様も、殿下のお心を和ませて差し上げてくださいね」
『嫌味ね。暗に、あなたが殿下を疲れさせていると言っているのよ。「お心を和ませて差し上げてくださいね」って、婚約者に対して何様のつもりかしら』
私は何も言い返さず、その場を離れた。
◇
二月、冬も深まった頃。マリアが新たな報告を持ってきた。
「お嬢様、少し気になることがございます」
「何かしら」
「ダミアン様とセシリア様の密会ですが、頻度が増えています。以前は二週に一度程度でしたが、最近はほぼ数日おき……しかも、密会の時間も長くなっています」
「場所は?」
「王宮の離れた応接室です。二人きりで、一時間以上話し込んでおられます」
「内容は分かる?」
「詳しくは聞き取れませんでしたが……『王太子』『春』『計画』といった不穏な言葉が漏れ聞こえました」
『証拠を集める時期ね』
私はすぐにヴィクトール殿下に報告した。王宮の奥、人目につかない書斎での密談だった。
「ダミアン様とセシリア様の密会が、かなり頻繁になっていますわ」
「やはりな。何か大きな動きを計画しているのだろう」
「マリア経由で、密会の証拠を集めます」
「頼む」
ヴィクトール殿下は窓の外を見つめた。雪が静かに降り続けている。
「父上のご体調が優れず、兄上が政務を代行する機会が増えている」
「国王陛下のご体調は、それほど良くないのでしょうか?」
「ああ。公務への出席が、ほとんどなくなった」
殿下の声には、深い憂いがあった。
「そして、兄上は……」
殿下は言葉を濁した。しかし、その意味は痛いほど分かった。王太子が政務を代行しているが、すべてが空回りしているのだ。
「国政が心配ですわね」
「ああ。父上が倒れれば、兄上が即位する。その時、この王国がどうなるか……」
ヴィクトール殿下は深く息を吐いた。
「だからこそ、今のうちに手を打たねばならない。必要ならばダミアンを引き離し、兄上の周囲を浄化する必要がある」
『国王の体調悪化は想定内。でも、王太子の無能さは予想以上ね』
(セシリアの影響かしら……)
『確実にあの女の影響よ。セシリアの甘い言葉と、ダミアンの阿諛追従に乗った結果、政務の判断を誤って評判を落としている。それが今の王太子よ』
ヴィクトール殿下が真剣な表情で私を見た。
「リリアナ殿、できれば春までに証拠を固めたい。そして一気に追い詰める」
「はい」
◇
二月下旬。私は自室で、一人静かに窓の外を眺めていた。
雪が降り積もる王都。長い冬が、ようやく終わりに近づいている。
この冬を通じて、王太子の態度は確実に変わってしまった。以前のような温かな言葉は消え、私を見る目には常にわずかな疑念が浮かぶようになった。ダミアンの暗躍は、着実に、致命的な効果を上げていた。
『ダミアンの印象操作は完璧ね。王太子は、あなたが自分を見下していると信じ込み始めているわ』
アナの声が響く。
(私は何も……)
『事実は関係ないの。ダミアンが作り上げた「印象」が、王太子の中ではすでに真実になっているわ』
窓の外では、雪が静かに降り続けている。冷たく、白く、すべてを覆い隠すように。
『春になれば、もっと悪化するわよ』
アナが冷静に告げる。
『王太子はさらにセシリアに傾倒し、あなたとの距離は修復不可能になる。婚約破棄への道が、確実に近づいているわ』
(……ええ。それはもう分かっているわ)
『春が来たら本格的に動くわよ。そのための証拠集めを急ぎなさい』
私は拳を強く握りしめた。冬が終われば、春が来る。新しい季節、そして新しい戦い。
ダミアンの暗躍は続き、婚約者である王太子の心は私から離れきってしまった。でも、私には味方がいる。父、兄、ヴィクトール殿下、そしてマリア。
『次はダミアンを追い詰める。春には決着をつけるわよ』
(ええ。もう迷わないわ)
窓の外の雪景色を見つめながら、私は決意を新たにした。
冬を通じて、ダミアンは暗躍し続けた。王太子と私の関係には、修復不能な亀裂が入った。そして春を迎える頃には、すべてが変わるだろう。
冷たい冬の終わりに、私の心もまた、静かに凍りついていた。




