第10話
【大陸暦一二二五年十月中旬】
フェリックスを失脚させてから一週間が経った、ある朝のこと。
私は屋敷の中庭をひとり歩いていた。薔薇が咲き誇る庭園は、秋の柔らかな日差しを浴びて穏やかな時間が流れていたが、私の心象風景はそれとは正反対に、ひどく波立っていた。
――マリアの様子が、日に日におかしくなっているのだ。
「お嬢様、紅茶をお持ちいたしました」
庭園の四阿に置かれた椅子に腰掛けると、マリアが銀の盆を持って現れた。だが、カップを置くその指先は微かに震え、磁器が触れ合うカチリという音が頼りなく響く。
顔色は土色に近く、目の下の隈は化粧でも隠しきれていない。満足に眠れていないのは明白だった。
「ありがとう、マリア」
私は何も知らないふりをして、いつものように穏やかな微笑みで紅茶を受け取った。
二ヶ月前の深夜。私はマリアが日記を盗み見る現場をこの目で目撃した。それからずっと、何も知らない無垢な主人のふりをしてマリアを泳がせてきた。しかしフェリックスがあっけなく破滅したのを知ったマリアは今、自分も同じ運命を辿るのではないかと恐怖のどん底にいるのだろう。
(マリア……そろそろ限界のようね)
私は立ち上る湯気の向こうで、心の中に呟いた。
『ええ。あと数日、いえ、早ければ今夜にも告白に来るわね』
アナの声が、冷淡に囁く。
『忘れないで、リリィ。彼女がすべてを吐き出したら、例の弟の治療費を肩代わりする提案を出すのよ』
(もちろん、分かっているわ)
カップに口をつけ、香り高い茶葉の風味を楽しみながら、私はマリアの横顔を観察した。
肩を不自然に張り詰め、指先をこまめに動かしている。罪悪感と恐怖に苛まれているのが、語らずともその背中から痛いほど伝わってきた。
「マリア、顔色が悪いわ。少し休んだほうがいいのではないかしら?」
あえて優しく声をかけると、マリアは弾かれたように顔を上げた。
「い、いえ! 大丈夫です! ご心配をおかけして、申し訳ございません!」
上ずった声で慌てて否定する彼女に、私はなおも心配そうな表情を作って頷く。
「無理はしないでね。あなたに倒れられたら、私は困ってしまうもの」
「はい……ありがとうございます、お嬢様……」
マリアは消え入るような声で答え、逃げるように盆を持って去っていった。その背中は、見えない重石に押し潰されそうなほど丸まっていた。
『さあ、あとは果実が熟して落ちるのを待つだけよ』
アナの声に、暗い愉悦が混じる。
『今夜か、明日の夜。マリアは必ず、泣きながらあなたの足元に縋り付くわ。そうしたら、予定通りの「慈悲深い聖女」を演じるのよ』
(ええ。でも……)
私は紅茶を飲み干し、静かにカップをソーサーに戻した。マリアのあの追い詰められた様子を見ていると、どうしても胸がちくりと痛む。
すべてを知っているのに、知らないふりをして彼女を追い詰めている。この「慈悲」の正体は、彼女を一生縛り付けるための甘い罠なのだ。
『騙している、とでも言いたいの? 救ってあげるのよ、リリィ』
アナの声は、迷いを断ち切るようにきっぱりとしていた。
『セシリアという悪魔の支配から解放し、弟の命を救ってあげる。感謝されるべきはあなたよ。マリアにとって、あなたの「知らないふり」は最後の救いになるわ。だから、迷わず受け止めてあげなさい』
私は空を見上げ、小さく息を吐いた。アナの言う通りだ。マリアの罪をあえて白日の下に晒さず、恩義という形で上書きしてやる。それが、彼女を真の意味で救い、私の忠実な剣へと変える唯一の方法なのだ。
◇
その日の深夜。
私は寝室で、読書をしながら「その時」を待っていた。
柱時計の針が重なり、二十二時を告げようとしている。窓の外は重苦しい闇に包まれ、屋敷全体が深い眠りについたかのような静寂が支配していた。
――コン、コン。
予期していた通り、遠慮がちで、それでいて切実なノックの音が響いた。
「お嬢様……まだ、起きていらっしゃいますか。……少しだけ、お時間をいただけますでしょうか」
マリアの声だ。今にも消えてしまいそうなほど震え、張り詰めた緊張がドア越しに伝わってくる。
『来たわね。準備はいい? 最高の演技を期待してるわよ、リリィ』
(……頑張ってみるわ)
私は大きく深呼吸をして、読みかけの本を静かに閉じた。
「どうぞ、マリア。入って」
ドアがゆっくりと開き、マリアが室内へ滑り込んできた。
だが、その姿はいつもとは一変していた。顔色は幽霊のように青白く、目は真っ赤に腫れ上がっている。部屋の中央までたどり着くやいなや、彼女は糸が切れた人形のようにその場に膝を突き、床に両手を突いた。
「マリア!? 一体どうしたの、そんなところで……!」
私は驚愕を装い、本を投げ出すようにして立ち上がった。半分は演技だが、半分は本物だ。跪いて頭を垂れる侍女の姿は、想像以上に凄惨な覚悟を感じさせた。
「お嬢様、私……私……!」
マリアの声は、激しい慟哭に遮られた。床に落ちる涙の音が聞こえるほど、彼女は激しく肩を震わせている。
「私、お嬢様を……お嬢様を、裏切っておりました……!」
その告白は、血を吐くような苦しみに満ちていた。
「どうか……どうか、お許しください……!」
「マリア、顔を上げて。何を言っているの? 裏切っていたなんて、そんな……」
私は彼女の傍らに駆け寄り、その細い肩に手を置いた。だが、マリアは頑なに頭を上げようとせず、額を床に擦り付けながら言葉を絞り出す。
「弟が……たった一人の弟が、重い病気なのです……」
嗚咽混じりの、途切れ途切れの真実。罪悪感と後悔という名の毒が、彼女の心から溢れ出していた。
「治療費が払えず、途方に暮れていた私に、セシリア様が手を差し伸べてくださいました。治療費はすべて出す、と。……でも、その代わりに……!」
マリアは激しく息を吸い込み、魂を削り出すように続けた。
「お嬢様の動向を、すべて教えろと命じられました。日記を盗み読み、何を考え、誰と会うのか……。断れば弟が死んでしまうと思い、私、私は……!」
(……すべて、知っていたわ。でも、今は「初めて聞いた」私でいなければ)
私はわざとらしく息を呑み、絶句した表情を作って後ずさった。
「まあ……マリア、あなたが……嘘よ、信じられないわ……!」
『完璧だわ、リリィ。そのまま、慈悲のターンへ持ち込むのよ』
アナの声に励まされ、私は震える指先を口元に当てた。
マリアがようやく顔を上げる。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔。彼女は私を見上げ、絶望に満ちた瞳で言った。
「お嬢様のお優しいお心を裏切り続けた私に、もはや生きる資格などございません。せめて、死んでお詫びを」
「死ぬなんて、馬鹿なことを言わないで!」
私は膝をつき、マリアの両肩を強く掴んで揺さぶった。
「落ち着いて、マリア。まずはすべて話して。いつから、どんな風に……最初から、ゆっくりでいいから」
マリアは震える唇を噛み締め、すべてを語り始めた。
半年前、弟が難病に倒れたこと。法外な治療費に絶望していた自分に、天使のような微笑みで近づいてきたセシリア。
最初は「憧れのリリアナ様とお近づきになりたいから、予定を教えてほしい」という、些細な、よくあるお願いだった。
だが、一度金を受け取ってしまえば最後。要求は次第にエスカレートし、プライバシーに関する盗み見、盗み聞き、そして王太子との仲を裂くための情報収集へと変わっていった。
セシリアはマリアの首に「弟の命」という鎖を巻き付け、優しく微笑みながら「マリア、弟さんの具合はどう? まだお金が必要よね」と、毎日のように囁き続けたという。
耐え難い罪悪感。そして、フェリックスの破滅。
次は自分だという恐怖と、これ以上お嬢様を裏切りたくないという良心の呵責。そのすべてが限界を超え、今夜の告白に至ったのだ。
「どんな罰でも受けます。今すぐ解雇して、衛兵に突き出してくださっても構いません。ただ……これ以上、お嬢様を騙しながらお側にいることだけは、耐えられなかったのです……」
マリアは再び、床に泣き崩れた。
私は深く、深く息を吸い込んだ。そして、用意していた「救済」を口にする。
「マリア、顔を上げて」
慈愛に満ちた、しかし凛とした声。マリアがおずおずと顔を上げる。
「あなたも、地獄のような苦しみの中にいたのね」
私は彼女の濡れた頬をそっと撫でた。伝わってくるのは、生身の人間の、必死な熱だ。
「弟さんの命と、私への忠誠。その間で引き裂かれ、セシリアに脅され……。それでもあなたは、自らの意志で真実を話しに来てくれた。そうね?」
「お嬢様……」
「マリア。私は、あなたを許します」
静かな宣言に、マリアは信じられないものを見るかのように目を見開いた。
「で、ですが……私はお嬢様を売ったのですよ!? 許されるはずが……」
「ええ。だから、条件があるわ」
私は手を離し、獲物を射抜くような鋭い視線でマリアを見つめた。
「まず、弟さんの治療費は、明日から私がすべて肩代わりするわ」
「え……?」
マリアが呆然と口を開ける。世界がひっくり返ったような顔だ。私は一気に畳み掛けた。
「その代わり、セシリアの前では今まで通り忠実なスパイとして振る舞いなさい。そして、引き続き私の情報を彼女に流すのよ」
マリアの瞳に、困惑と、そして徐々に理解の光が灯り始める。
「つまり……セシリア様には従順なふりを続け、お嬢様の情報を流しているように見せかけて、実際は……」
「そう。彼女に流す情報は、すべて私が精査し、流して良いと判断したものだけ。あなたは私のために、二重スパイとして動くのよ。……本当の忠誠を、私に捧げられる?」
『いいわ、リリィ! 完璧な勧誘よ』
アナの声が、満足げに響いた。
マリアはしばらく呆然としていたが、やがてその瞳に、かつてないほど強い決意の光が宿った。
「……分かりました。セシリア様の前では、愚かな小娘のふりを貫き通します。ですが、私のこの命、この魂がお仕えするのは――リリアナお嬢様、あなた様お一人だけです!」
「ありがとう、マリア」
私は微笑み、彼女の震える手を握りしめた。
「それから、弟さんの件は安心して。最高の名医を手配するわ。転院の準備も進めましょう」
「お嬢様……! お嬢様……っ!」
マリアは再び顔を覆って泣き崩れた。だが、先ほどの絶望の涙ではない。それは、暗闇の中に一筋の光を見出した者の、安堵の涙だった。
私は彼女を優しく抱きしめた。
その体温を感じながら、私の胸は僅かに痛んだ。
(……マリアのこの涙も、忠誠も、本物。でも、私はこれを最初から計算していた。アナ、私は……これでいいのよね?)
『ええ。彼女は救われた。あなたは駒を得た。誰も損をしていないわ。さあ、顔を上げて。戦いはこれからよ』
◇
マリアが落ち着き、部屋を辞去した後。
私は一人、窓辺に立って月を見上げていた。銀色の月光が、私の白い寝巻きを青白く染めている。
『お疲れ様、リリィ。これで屋敷内の守りは盤石ね』
アナの声が、労うように響いた。
『マリアは一生あなたを裏切らないわ。お嬢様が、裏切りを知ってもなお、弟の命を救ってくれた。その恩義は、何よりも重い楔になる』
「……ええ。上手くいったわ」
私は小さく呟いた。マリアを完全に手中に収めた。セシリアの耳目を、こちらが制御できるようになったのだ。
『次はダミアンね。マリアを介せば、セシリアとダミアンの密会場所や時間が正確に把握できる。そこで動かぬ証拠を突きつけるのよ』
「ダミアン……。フェリックスより、ずっと手強い相手よね」
窓の外、夜風に揺れる薔薇を眺めながら、私は拳を握りしめた。
一人目、フェリックスは排除した。二人目、マリアは味方に変えた。
一歩ずつ、確実に。処刑台へと続く階段を逆走し、私は未来を書き換えている。
「アナ。あなたと一緒なら、本当に勝てる気がするわ」
『当然でしょ。私たち、二人で一人なんだから』
アナの声に、微かな、しかし確かな信頼の温もりが混じった。
鏡を見なくても分かる。今の私は、以前のようなただ守られるだけの公爵令嬢ではない。
父が味方になり、侍女が剣となり、未来の私が盾となる。
セシリア、その聖女のような仮面が剥がれ落ち、醜い本性が月光の下に晒される日を、私は心から楽しみにしているわ。
私は夜空に向かって、静かに不敵な笑みを浮かべた。
まだ見ぬ明日への、宣戦布告として。




