プロローグ
【大陸暦一二二八年八月十五日】
冷たい石の床に寝かされて、私は目を覚ました。
視界に映るのは、薄暗い独房の天井。
湿り気を帯びた石造りの壁。
鉄格子越しに差し込むわずかな光が、宙に舞う埃を白く照らしている。
ああ、そうだった。
今日は、私の処刑の日だ。
リリアナ・フォン・エスターク、十八歳。
エルデンハイム王国屈指の名門であるエスターク公爵家の長女として生まれ、かつては王太子エドワード殿下の婚約者だった。
そんな私は今日、国家反逆罪という身に覚えのない罪で、その生涯を終える。
遠くから、地鳴りのような民衆の声が聞こえてくる。
彼らは私の死を、娯楽のように待ち望んでいた。
「悪女を処刑しろ!」
「国を裏切った罪人に死を!」
私は、何も悪いことなどしていないのに。
重い体を起こし、膝を抱えて座る。
もう何もかもが終わったのだ。
喉の奥は乾ききり、弁明の言葉すら出てこない。助けてくれる人も、もうどこにもいなかった。
――どうして、こんなことになったのだろう。
全ての始まりは、三年前の夏。
あの日、私は運命の出会いをした。
セシリア・ローゼンタールという令嬢と。
プラチナブロンドの髪に、吸い込まれるような翠緑の瞳を持つ、清楚で美しい少女。
誰からも愛される完璧な令嬢。
私も最初は、彼女をかけがえのない友人だと思っていた。
まさか、その微笑みのすべてが、冷徹な演技だったなんて。
王太子エドワード殿下は、瞬く間にセシリアに心を奪われた。
社交界で殿下とセシリアが睦まじく話す姿を、私は何度、壁際から見つめただろう。
セシリアは殿下の腕に軽く触れ、甘えるように上目遣いで微笑む。
「殿下、お疲れではございませんか?」
その瑞々しい唇から溢れる気遣いに、殿下は相好を崩して答える。
「セシリアは本当に優しい」
かつて、私が同じ言葉をかけた時、殿下は疎ましそうにこう言った。
「リリアナの気遣いは義務的で、可愛げがない」
セシリアが言えば心からの献身となり、私が言えば無機質な義務となる。
ある日、私が殿下の執務室を訪れると、そこにはすでにセシリアの姿があった。
彼女は殿下の隣にぴたりと寄り添い、書類を見つめて感嘆の声を上げる。
「殿下は本当に、ご立派ですわ」
殿下は得意げに政務の話を語り聞かせていた。
私には決して見せなかった、とろけるような柔らかい笑顔で。
「リリアナは優秀だが、冷たすぎる。セシリアこそが、私を理解してくれる唯一の女性だ」
殿下はそう吐き捨て、私との婚約を一方的に破棄した。
そして数週間後。
王宮で盛大な披露宴が開かれ、新しい王太子妃候補として、セシリア・ローゼンタールの名が国中に知れ渡った。
セシリアは殿下の隣で、幸せそうに頬を染めていた。
「私、夢のようですわ……」
周囲の貴族たちは、手のひらを返したように二人を祝福した。
「お似合いのお二人だ」
「セシリア様こそ、次期王妃に相応しい聖女のような令嬢だ」
それだけなら、まだ良かった。
心は深く傷ついたけれど、愛のない婚姻を続けるよりは、別の人生を歩む道もあったはずだから。
けれど、彼らは私を逃がさなかった。
婚約破棄から数ヶ月。
突然、私に国家反逆罪の容疑がかけられた。
「隣国ノルヴェリアに機密情報を流していた」という、卑劣な濡れ衣だ。
開かれた裁判は、まさに茶番だった。
殿下の側近の一人、ダミアン・クロウが証言台に立ち、軽蔑の視線を私に向ける。
「確かに見ました。リリアナ様が、闇夜に紛れて怪しい人物と接触しているところを」
もう一人の側近、フェリックス・バーネットも後に続いた。
「私も目撃しました。彼女は明らかに何かを隠していましたよ」
二人とも、息を吐くように嘘をつく。
けれど、目の前には完璧な証拠が並べられていた。
偽造された手紙、改竄された記録。すべては私を葬り去るために周到に用意された罠。
そして極めつけは、長年私に仕えてくれた侍女、マリアの証言だった。
「申し訳ございません……でも、真実を話さねばなりません」
マリアはさめざめと涙を流しながら、断罪の一言を放つ。
「リリアナ様は、私に機密文書を持ち出すよう命じました。私は恐ろしくて、でも、逆らえなくて……」
信頼していた者に裏切られた瞬間、私の心は音を立てて砕け散った。
誰も私を信じなかった。
父は公爵家を守るために私を切り捨て、兄は辺境の任務に就かされており間に合わなかった。
かつての友人は皆、勝ち馬であるセシリアの側へと去っていった。
殿下は正義の審判者であるかのように、冷酷な宣告を下した。
「証拠は揃っている。リリアナ・フォン・エスターク、お前を国家反逆罪により、断頭台での処刑に処す」
法廷の隅で、セシリアは悲しげに顔を伏せていた。
けれど、私には見えた。
伏せられた睫毛の隙間で、彼女の翠緑の瞳が、愉悦に歪んで笑っていたのを。
(……すべて、あなたの仕業だったのね)
私が邪魔だったのだ。
王妃の座に登り詰めるため、血統も後ろ盾も完璧な「元婚約者」という存在を、根絶やしにしたかったのだ。
けれど、誰も私の叫びには耳を貸さない。
「心優しいセシリア様が、そんな酷いことをするはずがない」と。
――ガチャリ、と重い鉄の音が響く。
「時間だ。立て」
武装した衛兵が二人、無機質な足音を立てて迎えに来た。
私はゆっくりと立ち上がり、覚悟を決める。
せめて最後まで、エスターク公爵家の娘として、誇り高くあろう。
衛兵に両腕を掴まれ、独房から引きずり出される。
カチカチと石床を叩く靴音。
処刑場へと続く、長く暗い廊下。
やがて大きな扉が左右に開かれ、突き刺すような眩しい光が差し込んだ。
王都の中央広場。
そこには無骨な断頭台が鎮座し、周りには黒山のような群衆が詰めかけていた。
「出てきたぞ!」
「国を裏切った悪女だ!」
「殺せ! 処刑しろ!」
罵声が耳を劈き、どこからか投げられた石が頬をかすめる。
民衆は、セシリアの振りまいた虚構の噂を信じ、私を「絶対の悪」だと決めつけていた。
断頭台への階段を、一段、また一段。
高い場所に立つと、群衆の醜い顔がよく見えた。
怒り、憎しみ、そして下劣な好奇心。
そして――私は見つけてしまった。
群衆の最前列に、セシリアがいた。
彼女はプラチナブロンドの髪を優雅に結い上げ、身に纏うのは繊細なレースをあしらった上質の絹のドレス。
対する私は、櫛も通されず艶を失った髪に、埃にまみれた囚人服。
セシリアは殿下のすぐ隣で、痛ましそうに両手で顔を覆っていた。
周囲の人々が、口々に彼女を慰めている。
「ああ、お優しいセシリア様。元友人の処刑を見届けるなど、お辛いでしょうに」
殿下は彼女の肩を抱き寄せ、甘い声で囁く。
「無理をしなくていい。君は十分に慈悲深いよ」
「いいえ、殿下。これも、私の務めですわ……」
虫酸が走るほどの完璧な演技。
けれど、指の隙間から覗く彼女の瞳は、一点の曇りもなく勝ち誇っていた。
私たちの視線が、一瞬だけ重なる。
セシリアの唇が、音もなく動いた。
幼少期に読唇術を学んでいた私には、その言葉が残酷なほど鮮明に読み取れた。
『――さようなら、リリアナ様』
どろりとした憎悪が、胸の底からせり上がる。
けれど、縛られたこの身では、もう指一本動かせない。
断頭台の中央で、王太子エドワードが巻物を広げた。
金髪に青い瞳。かつて私が愛した男。
殿下は朗々と、断罪の言葉を読み上げる。
「リリアナ・フォン・エスターク。お前は国家反逆罪により、ここに断罪される。悪は滅びるべきだ。正義は、必ず勝つのだ!」
正義。
あまりの滑稽さに、笑いが込み上げそうになる。
あなたはただ、女の甘い毒に踊らされているだけなのに。
衛兵に促され、私は台の上に跪かされた。
頬を打つ、冷たい木の感触。
首を置く窪みに、頭を乗せる。
すぐ隣で、執行人が巨大な斧を静かに構えた。
――ああ、本当に終わりなのだ。
意識の淵で、走馬灯のように記憶が蘇る。
亡くなった母の優しい笑顔。十二歳の頃、病床で握られた手の温もり。
『リリィ、あなたは強い子。どんな時も、自分を信じなさい』
お母様。ごめんなさい、私は強くなれなかった。
父の厳格な横顔。転んで泣いていた私を無言で抱き上げてくれた、あの大きな手。
『お前はエスタークの娘。この程度のことで涙を見せてはならぬ』
お父様。私を捨てたあなたを、それでも恨みきれません。
そして、兄の不器用な励まし。
『お前は優秀だな。将来、きっと立派な王妃になれるぞ』
お兄様。最後まで私を助けようとしてくれて、ありがとう。
奪われた婚約者の地位。
踏みにじられた公爵家の誇り。
何もかもを、あの女に奪われた。
もし。
もしも、もう一度だけやり直せるなら。
時間を巻き戻すことができるなら。
今度こそ、あの女の化けの皮を剥いでやる。
騙されていた自分の愚かさを捨て、地を這ってでも真実を暴いてみせる。
この無念を、絶望を、すべてあいつらに返してやる。
執行人が、斧を天高く掲げた。
群衆が固唾を呑み、世界から音が消える。
――もう一度。私に、チャンスを。
斧が、一気に振り下ろされた。
首筋に鋭い衝撃が走る。
刃が落ちた瞬間、視界は真っ白な光に塗りつぶされた。
意識が、遠い闇へと溶けていく。
もし、もう一度……




