子どもが苦手なので、義息子がいる結婚先から逃亡します
カタン、と、馬車が動く音がして、急に視界がハッキリとした。
流れ込んでくるのは、前世の記憶。
いや、後になって思えば、それはただの、神の啓示だったのかもしれない。
動き出した馬車の中で、流れていく景色を見ながら、私は思考を整理した。
馬車の窓に映るのは、茶色のパサついた髪と、濁った緑の目。
私の名前は、エイディス・サラーン。
サラーン伯爵家の血を継ぐ者だ。
伯爵である母が亡くなった途端、入り婿であった父は、自分の愛人とその子どもを家に招き入れた。
そうして、幼かった私の世界は崩壊した。
父と継母、義妹は、私を召使のように扱い、
私の日々は埃と共に過ごすものとなった。
月日が経ち、エイディス・サラーンは悪女だという噂が流れだす。
何のことはない、男好きな義妹が、私の名前で社交界を飛び回っているだけの話。
男好きで、浪費家で、気に入らないことがあると、すぐ癇癪を起こす。
それがこの、髪はパサパサ、体はやせ細って、でも体力だけはある私、エイディス・サラーンのことだそうだ。
自分の記憶を振り返り、ひとつひとつ、当てはめる。
うん、ずれていない。
馬車が動き出したとき、頭に広がった世界。
前世といわれるもので読んだ、漫画の主人公そのものだ。
ため息が出る。
なんて絵に描いたような、虐げられっぷり。
自分のことなのに、笑ってしまう。
今でこそ、薄らぼんやりと前世の記憶があるおかげで、
ふざけてんじゃないわよって怒れるけど、
この記憶がない間は、いつか家族はわかってくれるって、信じていた。
だいたい、あの父親。次の伯爵は私だって、わかっていたのかしら。
わかっていないわよね、馬鹿そうだったし。
また、ため息が出る。
今、私が向かっているのは、フレデリック・アブカリアン伯爵の邸だ。
若いながらも伯爵位を継ぎ、王太子殿下とも仲が良い。
だが、隣国の使者を迎える場で失敗をしたとかで、罰としてこの私、エイディス・サラーンを娶るよう、
王太子殿下に言われたらしい。
何を言っているんだか。
アブカリアン伯爵には、幼い子どもがいる。
前妻は、出産時に亡くなったらしい。
だから私は、後妻ということで、アブカリアン伯爵へ嫁ぐのだ。
もちろん数日は、婚約者としての扱いとなるようだが、
私の身はアブカリアン邸へと送られることになった。
漫画で読んだ話だと、王太子殿下は、エイディス・サラーンが虐げられている事実を知っており、
次期サラーン伯爵の保護ということで、アブカリアン伯爵にこの婚姻を持ち掛けたらしい。
アブカリアン伯爵には、エイディス・サラーンの事実は内緒で。
そこは打ち明けておけよ。
さらに漫画の話だが、エイディスが邸に着いた途端、
フレデリックは「私は貴女を妻とは認めない」とか言って、一か月ほど邸を留守にするのだ。
当然、起こるのは使用人たちによる陰湿ないじめ。
そんな中、邸を彷徨うエイディスの耳に入る、罵声。
横暴な家庭教師が、フレデリックの息子に、滅茶苦茶な指導をしているのだ。
そのせいで、エイディスは、フレデリックの息子にすら、蔑まれてしまう。
だが、エイディスにも冷たくあたる息子を、横暴な家庭教師の体罰から守ったことにより、
エイディスと息子の間に、信頼関係が生まれる。
その後、結婚したにも関わらず、エイディスの新たなる噂が流れていることを知り、フレデリックが帰還する。
エイディスに詰め寄るフレデリックの間に、フレデリックの息子が立ちはだかる。
息子が「僕のママを怒らないで!」とエイディスを庇ったことから、フレデリックの誤解が解けていく。
しっかりと思い出せる、そんな流れ。
娯楽として読むなら、良いんですけどねぇ。
自分の手を見る。
がりっがりのほそっほそ。
漫画のフレデリックは、よほど見る目がないんだと思う。
これのどこが、悪女なのよ。
さて。
先のことを考えよう。
もし、現実も漫画のように進むのなら、私は邸から逃げようと思っている。
私は、子どもが苦手だ。
嫌いではないし、傍から見ているぶんには、かわいいと思うこともある。
でも、漫画のエイディスのように、面倒を見たり、笑い合ったり。
そういうのは、絶対に無理だ。
子どもの頃のことって、結構覚えていたりするじゃない?
何がその子のトラウマになるかもわからないし、他人の子どもに気楽に接するなんて、私には無理。
私に向かって、よだれまみれの手を伸ばされても、反射的に避けちゃうと思うし。
わかっているくせに、わからないフリをして気を引こうとされると、イライラすると思う。
うん、無理。
漫画のエイディスは、根気強く、フレデリックの息子と向き合い、彼の心を解きほぐすのだ。
私がエイディスな以上、漫画のような展開は、まず無理。
子どもへの体罰は私だって止めたいけれど、フレデリックの息子は最初、エイディスにも殴る蹴るをしてくるのだ。
そうやって接するのが、正しいことだという教育により。
私だと、間違いなく怒ってしまう。無理。
幸い、エイディスが、アブカリアン邸でも働こうと思っていたから、使用人の服は、鞄の中にある。体力もある。
そして、私は、自分の実家に未練がない。
アイツらが、どんなに迷惑を被ろうと、痛くも痒くもない。
逃げるしかない。
逸る気持ちと、緊張で心臓が暴れ出すのを、深呼吸をして落ち着かせる。
鮮明に脳内に浮かぶ漫画の背景から、邸内での逃走経路を考える。
そうこうしている間に、馬車は邸へと着いた。
馬車から降りた途端、一人の青年が、お付きの人と共に、邸から現れた。
整えられた、陽に輝く金色の髪。遠目でもわかる、綺麗な青い瞳。
美しいと称されるだろう、その顔は、きっとフレデリック・アブカリアン伯爵、本人。
彼は、こちらにもわかるように、大きく息を吐き、
「私は貴女を妻とは認めない」
そう言って、私の横を通り、自分の馬車へと向かった。
はい、逃亡決定。
荷物を自分で持った私を、メイドは無愛想に案内する。
案内されたのは、日当たりも悪い、屋根裏部屋。
漫画で見たから知っている。伯爵がいない間、この部屋近辺は、ろくに掃除もされないのだ。
私が部屋に入って、鞄を床に置くと、メイドは扉を閉めて去っていった。
扉には、鍵がかかっていない。
彼女たちは、私が自分で、ご飯をねだりにくるのを、待っているのだ。
卑しい女だと、笑うために。
漫画ではムカついたけれど、今はそれが有難い。
そのおかげで、少なくとも三日は、誰もこの部屋に来ないことがわかっている。
フレデリック本人がいない間、邸の掃除はメインエリアしかされない。
さらに、メイドと騎士が夜に逢引きをするので、裏口のカギは開いたままになっている。
さらにさらに、フレデリックの息子は、フレデリック本人がいない時は、自分の部屋と教育部屋の往復しかしない。
これはもう、逃げるための道筋が出来ているようなものよね。
この部屋へ案内されるまでの道と、逃亡のための道は、案内されながら、しっかりと確認をしておいた。
暗い顔も出来ていたはずだから、警戒もされていないはず。
とりあえず、夜まで仮眠をとることにした。
心が逸って眠れないとしても、逃亡のために、体は休めるべきだ。
布団も何もないベッドの枠に横になって、私は目を閉じた。
そうして起きたとき、見事に時間帯は夜だった。
っしゃあ!!
心の中でガッツポーズをする。
最悪、今までの疲れが祟って、寝過ごしてしまうかも、と思ったけれど、
やっぱりドキドキしていたからか、あまり眠れなかった。
月明りを頼りに、鞄の中から、使用人の服を出す。
そして、着替えながら思う。
サラーン伯爵家の使用人の服は、アブカリアン伯爵家の使用人の服より、ずっと粗末なものだった。
ちょっと恥ずかしい。
けど逆に、街に出ても、うまく紛れ込めると思う。
どこまでも、幸運が味方している。
人がいないとわかってはいても、出来るだけ静かに、部屋の扉を開ける。
荷物は置いていく。大したものは入っていないし、どこで足が付くか、わからない。
それに、体は身軽な方が良い。
はしごを降りて、扉を三つ通り過ぎる。階段を降りて、小さい扉二つと、大きな扉一つ、小さい扉一つ、通り過ぎた。
そうしてまた、階段を降りる。
さすがに、一階に降りると、灯りが零れている部屋もある。
主がいない間、躾のなっていない使用人たちが、思い思いに過ごしているせいだ。
うまく調度品の影を辿って、目指す裏口へ向かう。
もう少し、あの扉を出れば外。
というところで、メイドが騎士と喋っていた。
ちょっと!もう少し奥でやって!明るいところでやりなさい!!
私の願いが通じたのか、メイドと騎士は、互いに目を閉じて、濃厚なキスを始めた。
っしゃあ!っしゃ!!
心の中でガッツポーズを二連続。
継母と義妹の視線から逃れるために身に着けた、気配消しの特技が冴え渡る。
私は、見事外に出ることが出来た。
そして、わりと近くにある、使用人の通用門へと辿り着く。
素晴らしくも杜撰なことに、門は少し開いていた。
門が軋むこともなく、私は伯爵の邸を後にした。
誰も追ってきていないか、緊張しながら、見苦しくない程度に、走る。
最初は競歩程度の速さで。
誰も来ていないと確信を得てからは、逸る気持ちのまま、走った。
自由。自由だ。自由になったんだ。
今まで生きてきたエイディスの気持ちと、前世の私の気持ちが混ざる。
街へ向かわず、山を駆けあがる。
息が切れても、脚や顔が草で切れても、それが嬉しい。
私は、自由なんだ。
顔や体にまとわりつく髪が邪魔で、手頃な鋭い石で、適当に髪を切る。
髪はそのまま、崖下へと放り投げた。
見つかっても嫌だし。
走って歩いて、歩いて走って。
途中で見つけた草と木の実で、獣除けの薬を作り、体に塗りたくった。
幼い頃、家族に命じられて山菜を採りに行ったときに、庭師のおじいさんに教わったものだ。
ありがとう、あの時の庭師のおじいさん。空で見守っててください。
人にあえば、今の私は間違いなく、山姥と恐れられるだろう。
自由への興奮からか、走っても走っても、足が止まらない。
疲れて歩いても、また走れる。
顔は、ずっとニヤけている。
念のため、髪を切った鋭い石を、ずっと握っている。
あはははは!!
ヒヒヒヒヒ!!!
うっふふふふふふ!!!!!
さあ!とにかく領を出るのだ!
頭の中にある地図だと、ひたすら山を越えていけば、別の領へすぐ出られる。
私は自由だ!!
漫画なんて知らない、家族なんて知らない、貴族なんて知らない。
ああ!!世界が私を後押ししてくれている!!!
今にして思うと、本当にあの時、私はおかしくなっていた。
思い出しても、黒歴史。
でもまあ、そのおかげで、領を出るどころか、さらに三個の領を飛び越えて、私は隣国に辿り着いていた。
木の実や湧き水で生き長らえてきたものの、元々の栄養不足もあり、ぶっ倒れたのだが、
そこがたまたま、隣国の、人里離れた教会の近くだったのだ。
さらにたまたま、そこは人々の駆け込み寺のようなところで。
ボロボロな姿の私を、教会の人々は皆憐れんでくれて、治療まで施してくれたのだった。
医者に診てもらい、ご飯もしっかり食べた私は、しばらく教会で働いていた。
恩返しが、したかったのだ。
もちろん、出来ればすぐに教会を離れたかったけれど、ツテがあるわけでもなく。
働いている間に、教会へ物を運ぶ商人さんとのコネを作り、私はその商会の従業員として、教会を後にした。
「懐かしいわねぇ……」
ぽつりと、呟いてしまう。
海風の心地よいこの街の、大きな図書館。
ここには、遠い国の新聞を、いくつも保管してあるという。
噂を聞いて、見てみたかったのだ。
図書館の窓に映るのは、茶色のふわふわの髪と、澄んだ緑の目。
平民ならよく着ている、落ち着いた色のゆったりとしたワンピースに、少しお腹が目立っている。
私の名前は、エイディス・サラーンだった。
今の私の名前は、ただのエイリーンだ。
手もとにあるのは、エイディス・サラーンだった頃、エイディス・サラーンがいた国の新聞。
エイディス・サラーンは悲劇の令嬢として、描かれている。
伯爵家を乗っ取ろうとした当時の父、継母は処刑となったようだ。
義妹は、正当な次代の伯爵の悪評を撒いたとして、強制労働施設へ。
フレデリック・アブカリアン伯爵は、見る目のない伯爵として、描かれている。
使用人の管理も杜撰だったこと。
悪女という噂を鵜呑みにして、エイディス・サラーンの噂の正当性を調べなかったこと。
いくつもが問題行動として、新聞には挙げられている。
彼は、エイディス・サラーンがいなくなった後、噂を手掛かりに後を追い、義妹に辿り着いたらしい。遅すぎる。
フレデリックの息子は、王宮で問題行動を起こしたとして、アブカリアンの親戚筋へ養子として送られたらしい。
しっかりと教育を施してくれる、厳格な家だとか。
そして、エイディス・サラーンとフレデリック・アブカリアンの婚姻を後押しした王太子。
やり方に問題しかないところと、彼の施策はほとんどが失敗していることから、王太子としての資質を疑われている。
エイディス・サラーンは、あまりにも理不尽な生活、婚姻に疲れ、崖に身を投げたとされている。
今でも、彼女の髪が発見された崖下の川の下流では、花が捧げられているらしい。
基本的な内容は、ある貴族と、王太子への批判になるのだが、
見出しを悲劇の令嬢とし、エイディス・サラーンの生涯を絡ませることで、うまく不敬から目が逸れるようになっている。
なかなか、やり手の書き方だ。
それにしても、邪魔だからと投げ捨てた髪が、そんな使い方をされるとは思わなかった。
追われても困るから、崖下へ投げただけなんだけど、結果的に良かったわ。
さて、このまま、王太子がどうなったか、アブカリアン伯爵がどうなったかも、追っていこうかしら。
「エイリーン」
続きの新聞に手を伸ばそうとして、優しく静かに、声をかけられた。
「オリバー。用事は終わったの?」
「ああ。せっかくのキミとの旅行だからね。すぐ終わらせたよ」
椅子にかけたまま後ろを向けば、そこには私の愛しい人。赤毛のオリバー。
オリバーは、私の手元に目を向ける。
「だいぶ遠い国の新聞だね。面白い記事はあった?」
「ええ。まるで小説みたいな記事だったわ。……でも、胎教には悪かったかも」
大きくなったお腹に、手をあてる。
私たちは今、出産に力を入れているという病院があるこの街へ、旅行として来ていた。
良い所なら、このままここに滞在して、産んでしまうつもりだ。
そういった夫婦は多いようで、長期滞在者への手当てが充実しているところも、ここへ来るための後押しとなった。
産むことになったら、オリバーの家族も駆けつけてくれる予定となっている。
私は、子どもが苦手だ。
でも、オリバーと出逢って、結婚をして。
彼と過ごす日々の中で、思ってしまったのだ。
オリバーを、お父さんにしてみたい。
絶対、彼は良い父親になる。
たくさん、相談をした。
彼にも、友人にも、彼の家族にも。
私がダメになりそうになっても、親友のメアリーがいる。隣の気の良いおばさんも、助けてくれるらしい。
オリバーの友達の、ジョーンもクライスも、その妻たちも、応援してくれている。
そうして、私は彼の子どもを、産む決意をした。
オリバーが、優しく私の頭を撫でてくれる。
「じゃあ、この後は、ゆっくり過ごそうか」
「どうせなら、胎教に良さそうな絵本でも探してみる?」
「それも良いね」
遠い国の新聞を片付ける。
私とは、関係のないことだ。
きっと本当に、あの時、エイディス・サラーンは亡くなったのだろう。
漫画のことを、やけに鮮明に思い出せたこと。
ボロボロだった私が、遠くまで逃げ切れたこと。
辿り着いた先が、教会だったこと。
全てが、神の思し召しのように感じる。
だから私は、教会で祈りを欠かさない。
私を助けてくれた全てに。
今も、生きていられることに、感謝して。
(ありがとう、神様)
そう思った時、お腹を、赤ちゃんが蹴ったような気がした。