第四話 赫ノ邑へ
──深夜3時。
人気のないアパートの一室で、綾木 陸は床に並べた装備のひとつひとつを、無言で手に取りながら確認していた。
机の上のメモには、観測者-ZEROが送ってきた情報が走り書きされている。
『常夜嶺』──GPS圏外、地図にない獣道、結界域。
綾木の表情は険しい。だが、その目は獲物を狙う獣のように鋭く、決意に満ちていた。そして改めて自分の持ち物を確認
◆ 持ち物チェックリスト
アウトドア用バックパック
容量30L超、防水カバー付き。重量バランスを考えパッキング済み。
ノートPC&モバイルバッテリー(高容量)
電源が切れても使えるようソーラーパネル式充電器も携帯。
録音・録画用端末(スマホ×2台+ペン型レコーダー)
一台は追跡不能なダミー端末。もう一台は録画専用。
登山用ヘッドライト&予備電池
山中の夜間行動を見越して、赤外線モード付き。
サバイバルナイフ&折りたたみナイフ
護身用だが、使う予定はないと信じたい。
簡易医療セット
止血帯、鎮痛剤、抗生物質、消毒薬、緊急用カプセル。
非常食と水(2日分)
レトルトパウチと高カロリーバー。浄水ストロー付きボトルも。
登山用グローブ・スパッツ・レインポンチョ
どれも動きやすさと耐久性を重視。
防犯用の閃光スティック&催涙スプレー
「効かねぇ相手なら、それもまた証拠だ」と綾木はつぶやいた。
記者証・身分証の偽造コピー(処分用)
身元を悟られぬよう、捨てられるダミー。
ロープとカラビナ(緊急用脱出セット)
神社対策として、お守り・塩・鏡の欠片・結界札のレプリカ
「効くかは知らん。でも持ってた方がマシだろ」と袋に突っ込む。
荷物の確認を終えると、綾木は立ち上がり、背負う感触を確認する。
「……これが俺の“装備”か。神頼みと根性、あとはクソみてぇな執念だけってわけだな」
皮肉めいた独り言をつぶやきながら、彼は部屋の照明を消す。
あとは結界域へ足を踏み入れるだけ。
異常な現象が起きるという、GPSが死ぬ一線。
そこには、噂でも伝承でもない……生きた“赫ノ邑が待っている。
早朝5時前。
わずかに白みかけた空の下、綾木 陸は静かにアパートの扉を閉めた。
ザックを背負い、帽子を目深にかぶり、足元は登山靴。まるで普通の登山者のような出で立ちだ。
とはいえ、向かう先は観光ルートでも登山道でもない。
地図から消された“何か”へ踏み込む旅だ。
「さて……行こうか、“地図にない村”へ」
無人の通りを一人歩く。
人気のない住宅街に、鳥のさえずりだけが響いていた。
やがて最寄り駅へ。
改札を抜けて、始発列車に乗り込む。乗客は数えるほど。
椅子に腰を下ろすと、リュックを足元に置き、窓の外に目を向ける。
(“常夜嶺”──アクセスは県道194号線から分岐する旧林業作業路。
崩れた斜面に祠と鳥居があり、その先が“結界域”)
反芻するようにZEROからの情報を頭の中で繰り返す。
わずかな情報。だが、それだけで十分だった。
綾木はスマホを取り出し、保存しておいたスレログを開く。
件の観測者ZEROの証言。
「あの村は……あれは、人の村じゃない」
「神社の中に、“赫”という漢字が刻まれていた」
「狛犬じゃなく、馬の頭の像」
「住人全員が赤い襷を巻き、無言で睨んでくる」
「義眼の男。鉈。追われる足音──」
(狂ってやがる……なのに、全部、妙に“真実味”がある)
車窓の外を、朝焼けが静かに照らしはじめる。
今日が“普通の一日”でないことを、誰よりも綾木自身が理解していた。
(あの村が本当に存在するなら──俺が見つける。俺が暴く)
彼の中の“記者魂”が、警告よりも好奇心と使命感を燃やしていた。
──そして数時間後。
乗り継ぎを経て、綾木は“その山の麓”へとたどり着く。
道中、少しだけ地元のタクシー運転手と話を交わしたが、「ああ、その林道は通れないよ。数年前から崩落で封鎖されてる」と気まずそうに言われた。
それでも行くと伝えれば、運転手は言葉を濁しつつも送ってくれた。
途中からは徒歩。獣道に近い山道を、彼は黙々と歩く。
やがて。
朽ちた看板。崩れかけた柵。
その奥に──あった。
小さな祠と、苔むした鳥居。
空気が、変わった。
風が吹かない。音がしない。虫の声さえ、遠のいた。
そして、スマートフォンのGPSが……途切れた。
──圏外。完全に、外部との連絡は絶たれた。
綾木は息を整え、祠の前で足を止める。
「ここからが、“結界域”か……」
帽子を深くかぶり直す。
肩に手をやり、装備の確認。
(逃げ道はない。何が起きても、すべては“取材”だ)
彼は、一歩。
祠の横を通り、鳥居をくぐった。
その瞬間。
空気が変わった。
肌にまとわりつくような、粘ついた“気配”が、綾木を迎え入れる。
⸻
足を踏み出すたび、世界の輪郭がわずかに歪んでいく。
色彩が薄れていく。音が遠のく。
木々がそよぐ音も、小鳥のさえずりも、すっかり消え失せていた。
ただ、重く澱んだ空気と、冷えた霧が肌にまとわりつく。
──鳥居をくぐった瞬間、何かが変わった。
綾木 陸は直感でそれを感じ取った。
ここは、“あちら側”の世界。
見えていた世界が、見えない世界へと塗り替えられていく──その境界を越えてしまったのだと。
(……戻るなら今だぞ、綾木)
自嘲気味に心中で呟きながら、足を止めない。
手にしたザックの肩紐が、ぐっと重みを増した気がした。
靴裏で折れた小枝の音は、まるで水中に沈んだように鈍く、くぐもっている。
吐く息が、白い。
けれど、体温が下がったわけではない。
それは気温の問題ではない、“空間”そのものの問題だ。
(……時間の流れまで、おかしい)
秒針が動く感覚がない。
何秒立ち止まったか、何歩歩いたのかも曖昧になる。
時計を見ようとしても、腕の感覚が妙に重く、動きが緩慢になるような錯覚。
そんな中──
「……チリ……ン……」
耳元を掠めた、かすかな鈴の音。
風はない。木も揺れていない。
なのに、はっきりと音が聞こえた。
金属が擦れるような、どこか冷たく濁った響きだった。
(……幻聴、か?)
振り返るが、そこには灰色の霧があるだけだった。
木々の間も、影一つない。
けれど、背中の皮膚が粟立つような“視線”の気配だけが、ひどく生々しく残っていた。
そして、さらに歩を進めてしばらく──
霧が、ふっと切れた。
空気の密度が変わったような瞬間。
それは、まるで異界の“ベール”をめくったような感覚だった。
木々の向こうに、見えたのは──
村だった。
朽ちた茅葺。傾いた木造家屋。
黒ずんだ瓦は苔に覆われ、壁の土は風雨に削られて崩れかけていた。
まるで、昭和の廃村に迷い込んだかのような錯覚。
だが、それ以上に異様だったのは──
すべての家屋に吊るされた、赤い布。
薄暗い中でもやけに鮮やかに浮かぶ“赤”。
それは玄関の上に、窓の桟に、柱の先端に──まるで何かを封じるか、祓うかのように結ばれていた。
色褪せもせず、風も吹かぬのに、微かに“ゆらめいて”いる。
綾木の背筋に、氷の針が突き立ったような感覚が走った。
(これは……風じゃない。……“動いてる”)
まるで、赤布そのものが“呼吸”しているようだった。
──不意に、綾木の胸がきゅうっと収縮する。
見つけてしまったのだ。
“あってはならないもの”を。
(……ここが、“赫ノ邑”)
彼の足が、地面に縫い付けられたように動かなくなる。
地図にない村。
存在してはいけないはずの村。
けれど、今まさにその目の前に、“赫ノ邑”はあった。