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後宮入内(3)

 静帝(せいてい)陛下がお見えになった。

 春柳(しゅんりゅう)はばあや仕込みのたおやかな笑みを絶やさずに静帝を迎える正式な礼の姿勢を取る。

 間違っても調理中のような、本能ダダ漏れのだらしない表情を見せるわけにはいかない。


「静帝陛下におかれましては、ご機嫌麗しく。宮にお越しいただき、わたくし、胸の震えるような喜びに溢れております」

「うむ。約束通り、やって来た。今宵の夕餉はいかほどか?」

「もちろん、全てつつがなく準備できてございます」


 春柳がそっと宮の奥を手で示せば、そこには既に卓の上に料理がきちんと並んでいた。

 卓に近づいた静帝が腰を下ろしたのを見計らい、料理に被せてあった蓋を取った。


「本日の献立は、蟠桃飯(ばんとうはん)粉骨魚(ふんこつぎょ)冬瓜干貝(とうがんばんぺい)にございます」

「おぉ……!」


 静帝陛下の顔がパッと明るく輝いた。

 春柳は料理の説明を、至極丁寧に静帝に解説する。


「蟠桃飯は、山桃と蓮の実を米と一緒に炊いたもの。どちらにも疲労回復、消化促進効果があります。また粉骨魚は鯉の姿煮となっておりまして、一昼夜じっくり煮込んであります故、骨が粉のようにほろほろと崩れるほど柔らかくなっております。冬瓜干貝は文字通り、冬瓜と干貝とを煮込んだ(スープ)にございます。体の熱を覚ます効果がございますわ。まずは羹からぜひお召し上がりくださいませ」


 なるほど、と頷きながら静帝陛下が匙を取り、器を手に取り、そして冬瓜を見てはたと動きを止めた。


「冬瓜に彫り物がしてあるな……?」

「この度の後宮入りの喜びを表現するため、祥国の神獣、龍を彫らせていただきました。陛下のご治世が末長く続くように、との願いをこめさせていただいております」

「そなたは随分と器用なようだ」

「料理を嗜むものとして、当然の技巧にございます」


 飾り彫りは幽山を統べる(れい)一族にとっては必須技能である。

 中でも神獣である龍や幽山の霊獣白澤(はくたく)などは、嫁入り前に習得すべき技法。

 ただ、小さく切られた冬瓜に彫るほどの細やかな技術を会得したのは、ここ百年で春柳だけである。

 ともあれ、静帝は上品な食べ方で冬瓜を口に含んだ。


「出汁のおかげで冬瓜が優しい味になっている。干貝も柔らかで、実に食べやすい」

「お褒めの言葉、身に余る光栄でございますわ」

「そなたも食べるが良い」

「では、僭越ながら」


 向いの席に座った春柳は、静帝の言葉に甘えて匙を取った。


「そなたはどんなものを好む?」

「わたくしは何でも口にいたします。好き嫌いはございません」


 誇張はない。

 春柳は植物でも動物でも虫でも爬虫類でも、何でも食べる。


「だが、随分と細いようだが……」

「幽山に住む人々は、心と体の双方にほどよい食事を取る、すなわち『食養生』を旨としております。永安の方々とは、考え方が異なるのです」

「ふくよかさが富の証ではない、ということか……そうした考えが昇陽でも浸透するとよいのだが……」


 崇悠が考えながら蟠桃飯を手にしたので、春柳もそれに倣う。


「山桃と蓮の実を炊き込んだ飯というのは初めて食べたが、なかなかに良いものだな。米が甘くなってしまうのかと思ったが、違うようだ」

「米と共に炊く前に一度煮て、強すぎる甘味を抜いてありますので、そのおかげかと」

「この鯉はまことに柔らかい。口の中で骨までもがほろりと崩れてなくなってしまうようだ」


 静帝は春柳の出した料理をいたく気に入ってくれたようだ。

 箸の進む速度は速く、あっという間に料理が皿から消えてゆく。


「陛下はお魚がお好みでしょうか?」

「ああ。どうにも肉というのは脂身が強く、食べると腹の調子が悪くなる」


 静帝が眉を跳ね上げそう言った。


「なぜああも脂っこいのであろうな。おまけに味も濃いので、少し食べれば十分だというのに、妃も家臣もこぞって俺に肉を食べさせたがるのだ」


 どうやらよほど食事に困っているらしい。

 全ての料理を平らげた静帝に食後の茶を出す。

 肘掛けに肘をもたせ、随分とくつろいでいる様子だった。


「そなたのところにいると、肩肘張らずにいられるゆえ心が落ち着く」

「そのように仰っていただけると有難いですわ」

「明日の朝の食事も楽しみにしているぞ」

「……明日の朝、でございますか」

「ああ。明日の朝だ」


 表面でにこやかさを取り繕ったまま、春柳は内心で焦った。


(明日の、朝餉……!!!!!)


 隔絶された土地、幽山に住まう一族の姫である春柳は世間知らずだが、此度の後宮入りに際し、若い頃後宮女官だったばあやからあれこれと色々なことを聞かされていた。

 後宮に入るということは、すなわち皇帝の妻となること。

 夜に訪れた皇帝が朝の話をした。つまり、朝まで春柳の宮で過ごすことを意味している。そしてそれは、褥を共にするということだ。


(どうしましょう……朝餉の材料が用意できないわ!)


 褥を共にしてしまえば、いくらなんでもこっそり夜中に抜け出して池に潜って蓮の実を集めたり、鯉を捕獲したり、はたまた桃や冬瓜をもぐことができないだろう。


(どうして……どうして思い至らなかったのかしら。もっとたくさん、集めておくべきだったのだわ。いえ……陛下に、同じ食材を使った料理を連続して出すことなどできない。他の食材を集めなくては……でもどうやって!?)


 幽山時代より、自分で食べるものは材料から自分で調達するという考えが当たり前になっていた春柳であるからして、女官に言いつけるという発想がまるでなかった。

 頬に手を当て、内心でどうしようどうしようと焦っていると、不審に思った崇悠が「どうした?」と問いかけてくる。


 これはもう、白状するしかない。


 が、まさか「夜中に池に潜って魚をとっていいでしょうか?」と馬鹿正直に尋ねるわけにもいかない。

 困った春柳は、肩に垂れていた己の黒髪を一房指に絡め、上目遣いに静帝を見つつ、もじもじと問いかけた。


「その……大変嬉しいお言葉でございますが、まだ準備ができておらず……」

「…………!」


 春柳の言葉に、崇悠は瞠目した。

「陛下をお迎えするにあたり、わたくしは万全の準備を整えたいと考えておりまして……あ、明日、ではいかがでございましょうか」


 そう。明日。

 あと一日猶予を貰えれば、きっと完璧に全てを用意できる。

 だから明日もう一度来てほしい。

 そんな自分勝手な願いを込めて崇悠を熱心に見上げれば、崇悠は顔を赤らめ、片手で顔を覆い、視線を右斜め下に落としてから言う。


「そうだな。そなたにも準備がある。確かにそうだ。事を急いた俺が悪いな」

「いえ、事前に予期しなかったわたくしが悪いのでございます」

「己を責めるな。明日と言わず、俺はいくらでも待とう。……考えてみれば、急ぐ必要はない」


 すっくと立ち上がった静帝は、それでも名残惜しそうに春柳を見つめる。

 深い紫色の瞳が、熱を帯びたように潤んでいた。


「春柳……そなたの輿入れを、俺は心から待ち望んでいた。しばらくはこうして、夕餉を共にできるだけで十分だ」

「わたくしも、陛下の下に参る時を楽しみにしておりました。一刻も早く、準備を整えますので、どうかお許しくださいませ」


 そう。一刻も早く後宮内に存在する動植物を把握し、かつ静帝陛下に出すための食材を確保する道筋を確立させなければ。

 きっと思いが通じたのだろう。静帝が頷いてくれた。

 宮の出入り口まで行き、くるりと春柳を振り向くと、名残惜しそうに春柳の顎に指をかけた。そのままわずかに指に力が入れば、春柳の顔がくっと上向きにされる。

 切なげな、何かを耐えているかのような表情の崇悠が、春柳の瞳に映る。特徴的な金の瞳は苦しそうに歪んでいた。


「陛下……?」

「…………すまない、だが……」

 静帝の顔が近づいてきて、おでこがこつんとぶつかった。高い鼻が、春柳の頬を掠める。唇が触れ合いそうなほど接近した刹那、動きを止めたのは静帝だった。

「……いや……なんでもない」


 不意に体が離れると、静帝は「明日の夜にまた来る」と言い残し、去って行った。

 見届けた春柳は首を傾げる。


「一体どうしたのかしら。……まあ、いいわ。陛下をガッカリさせないためにも、早く後宮中の動植物を把握し、かつ、食材確保の方法を考えなくては」


 むん、と両手に拳を作って気合いを入れる春柳。

 やることは山積みだ。早速今夜も後宮内を散歩しなくては、と思うのだった。


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