花妃と香妃(9)ー1
「ーーもう限界でございます。わたし、食妃様にいじめられているのです!」
花妃は愛らしい顔立ちを限界まで歪め、悲哀に満ちた表情で静帝陛下に訴えた。
桃紅色の襦裙の袖を涙で濡らしよよと泣く花妃の様子は万人の庇護欲をそそるものである。
毒殺の濡れ着を着せられそうになった食妃の逆襲という名の猛特訓が始まってから四日。陛下の御渡りにこれ幸いと花妃は訴えた。
「食妃様はきっと、わたしが気に入らないのでございます。朝から晩までわたしを監視し、訓練という名目で虐待をするのです。睡眠もままならず、食事も好きに摂らせてもらえず、お茶の時間さえも許されない……こんな横暴、まかり通るわけがありません!」
花妃は自身の不遇を喚き散らした。
実際、花妃は辛かった。慣れない姿勢を維持し続け、組手をこなしたことにより単純に筋肉痛で体が悲鳴を上げていたし、脳みそも限界だった。午後に座学をしているせいで、夢にまで詩書の内容が出てくる始末だ。
しかし静帝陛下は、この花妃の訴えにことりと首を傾げる。
「昨日、似たような話を香妃からも聞いたのだが……余には食妃がそこまでひどいことをしているとは思えぬ」
「陛下は話に聞いただけだから、そのようにおっしゃるのです。実際に目の当たりにすれば、いかに酷いかがおわかりになりますでしょう!」
陛下の同情を買いたい一心で花妃は激しく言い募った。両目には涙が光り、震える声には悲痛さが如実に現れる。
月橘がこうして喚けば、天華では家の者も家臣も友人も、皆が慌てふためき、月橘の機嫌を取るためにたくさんの菓子や宝玉を手に猫撫で声を出したもの。
だから陛下もきっと、いや絶対に、月橘のいうことを聞いてくれる。月橘には過去の経験からくる確信があった。
「それは辛かったな。可哀想に。食妃には余から厳しく言っておく。いや……花妃に辛く当たった罰として、後宮から追放しよう。気づかずにいてすまない。そなたの気分が落ち着くまで、毎日宮に来よう」とさえ言ってくれるかもしれない。
そんな甘い幻想を抱きつつ涙を流してみせたのだが、陛下の言葉はにべもないものだった。
「……最近、そなたと香妃、食妃は汐蘭に妃としての立ち居振る舞いを教わっているらしいな」
「ええ。満妃様はとても厳しくて、すこしでも失敗をすると罵倒が飛んでくるのです」
もちろん、これは誇張表現だ。満妃は失敗すれば呆れたため息を落としてくるけれど、決して罵詈雑言を浴びせたりなどしない。
だが、陛下の同情を買うためには、少々大袈裟に言った方がいいだろう。どうせ真実などわからないのだし。
「剛妃には体術を教わっているとか」
「はい。訓練と称し、嬉々としてわたくしの体を打ってくるのです。あのように野蛮な女性、わたしは初めてお目にかかりました。妃であるということが信じられないくらいです」
これも大袈裟だ。剛妃はむしろ、かなり手加減して組手をしてくれているのだが、そもそも組手をすること自体に嫌悪感がある月橘はこうでも言わないとやっていられない。
「寂妃は詩書のなんたるかを教えているという」
「ええ。男性に必要な教養を、妃が何故知る必要があるのか……全く理解ができません」
詩経も書経も士大夫、つまり科挙に合格して官僚になるような人々が身につけるべき教養だ。妃に必要な知識では断じてない。
「食妃はそれらを共に受けながら、そなたと香妃との食事の差配までしているのだとか」
「そうなのです。食べるものにまで首を突っ込んでくるなんて、食妃様ったらなんてお節介!」
花妃はここぞとばかりに高い声を上げて食妃を非難した。
「大体、どうしてわたしと香妃様にかまうのかしら。放っておいて欲しいものだわ。妃同士だからといって、馴れ合う必要なんてどこにもないのに!」
この際、最初に絡んだのは自分であるということは置いておく。どうせそんなこと、陛下にわかりはしないのだ。重要なのは陛下に、「食妃が急にいらぬお節介を焼いてきた」と印象付けることだ。
「…………」
静帝陛下は月橘の訴えを眉をしかめて聞いていた。
陛下は顔立ちが整っているので、どんな顔をしていたって様になる。満妃などはもっと陛下に太って欲しいと思っているらしいが、月橘としては今のままで全然いい。
大体、永安に住む中央貴族は太りすぎだ。
ふくよかさが富の証とはよく言うが、限度というものはあるだろう。
丸い腹を突き出して脂でてらてら光る顔をしている男より、ほっそりとして彫像のように整った顔立ちをしている陛下のほうがよほど見栄えがいい。
そんな陛下は、椅子にゆったり背を預けると、肘掛けに手を置いてじっと花妃を見据えた。
「……満妃は妃としての責務を誰よりも理解しており、隙のない立ち居振る舞いを身につけている。剛妃は陵雲の出自として、武芸に秀で一介の兵にも負けぬ武力を有している。寂妃は漠草という地方出身でありながら詩書に通じ、知識量は官僚にも負けていない。そして食妃は食に通じているばかりか、そんな妃たちの特性を見抜き、自らの血肉にしようと努力を重ねている」
「は……陛下、一体何を……?」
「対して、そなたと香妃とはどうなのだ? そなたは日がな一日、茶を飲んでいるだけ。香妃は珠海からもたらされたもの珍しい輸入品にうつつを抜かしているだけ。現状に不満を言いつつも自らを高めようという気概もなく、妃として何かを成そうという心意気も感じられぬ」
淡々と告げる陛下の声には一切の慈悲も優しさも感じられない。
花妃の背筋を嫌な汗が伝った。
「そなたに彼女らを責める権利はあるのだろうか。もしも悔しさを感じるのなら、何か彼女らに負けぬそなただけの特技で彼女らに並び立ってみせるがいい」
「ですが、彼女たちはわたしに酷い仕打ちを……」
「それが事実ならば許しはせぬが、他の妃や女官に尋ねても、そうした事実は聞こえてこない。大方、余の関心を買いたいが為の誇張だろう?」
思惑を言い当てられ、どきりと心臓が跳ねた。
陛下が静かに息を吐く。
「……後宮という狭い世界に籠め置いているのは申し訳なく思う。何かと不自由もあるだろう。が、そなたと同じ境遇でも、腐らず弛まず研鑽を積んでいる妃もおるのだ。そうした者を見習い、そなたも自分にしかできない特技を身につけ、民の役に立ててもらいたいものだ」
そうして陛下は立ち上がると、「邪魔をした」と言って宮を出る。
今しがた言われたことに衝撃を受けた月橘は、陛下を見送ることさえせず、呆然とその場に座ったままだった。
「……わたしが、悪いって言うの……?」
どうして。理解できない。
「わたしが何をしたって言うのよ……!」
ぎりり、と拳を握りしめて屈辱に耐える。
「……信じられない。許せない!」
心の底からふつふつと湧き上がってくる怒りは、一体誰に向けたものなのか。
甘やかされ、何をやっても肯定され、どんなわがままも許されていた花妃にはそれさえもわからない。
その晩、花妃は、眠れぬ夜を過ごした。思考がぐるぐるめぐり、目が冴えてしまっていた。




