花妃と香妃(8)
朝餉の後は、満妃による妃修行がはじまった。
一度経験したことがあるので知っているが、満妃の修行はとても厳しい。それはもう、天華で受けた教育なんて鼻で笑ってしまうレベルの厳しさに、花妃は初日でギブアップして裸足で逃げ出した。
そんな辛い思い出しかない修行を、なぜだかもう一度受けることになってしまった。
しかも今回は、香妃と食妃と三人で。
(どうして……こんな目に!)
花妃は両腕と頭とに盆を載せ、背筋を正し、ぷるぷるしながら無茶な姿勢に耐えていた。花妃の体幹は弱い。ほとんど一日中、何もしないで窓際にぼけっと座り、茶を飲み甘いものを食べつつ香妃と一緒に後宮生活の不満をぶちまけているだけなので、それも当然だった。
「花妃様、姿勢が崩れかかっているわ」
満妃はずっしりとした体をどっしりと構え、ピクリとも体を揺らさず優雅に姿勢を決めている。
もうだめだわ、と花妃が思ったと同時に、姿勢が崩れた。
「く……うっ、あっ!」
投げ出された体。お盆がぐわんぐわんと盛大な音を立てて落ちる。
一つため息をついた満妃は立ち上がり、お盆を拾い上げた。
「空の盆でよかったこと。何か乗っていたら、大変」
花妃の体を案じた女官が寄ってきたが、「ならぬ」と満妃が一喝した。ぎろりと睨んだ視線には迫力が滲んでいる。
「妾たちは修行中。誰も手助けをしてはならぬ」
その時、もう一つ盆がぐわんぐわんと音を立てて落下した。香妃だ。
汐蘭は息をつき、花妃と香妃とを交互に見つめた。
「全く……お前たち、情けないこと。少しは食妃を見習いたもれ」
確かに食妃はまっすぐ姿勢を保ったままで、盆が少しもぐらついていない。しかも食妃の盆の上には、山のように石が載っている。あんなに重いものを載せて姿勢を保っていられるなど、どうかしている。
(……あんなに細いのに、どうしてそんな……!)
花妃より華奢な肢体をしているというのに、解せない。
ぎりりと歯噛みをする花妃の前で、盆が振られた。
「ほら、もう一度」
目の前では満妃が一切の慈悲のない目で花妃を見つめていた。
*
「やぁ、よく来たな、春柳殿! それに、花妃様と香妃様も」
長い棒のようなものをかついだ剛妃が、からからと笑いながら迎え入れてくれる。それに一礼をしたのは、やはり食妃だった。
「お久しぶりです、瑞晶様。この度は突然の申し出を受け入れてくださり、ありがとうございます」
「いいや、私も暇をしていたんだ。春柳殿の案は渡りに船だった」
「……一体、あたくしたちはどうして剛妃様の宮になど連れられてきたのです?」
わけがわからぬ状況に剛を煮やしたのは香妃だった。
満妃の厳しい妃修行を終えた後、休憩もろくにとらないまま「さあ、次に参りましょう」と言った食妃にぐいぐいと押されるようにして連れてこられたのは、剛妃の宮だった。
花妃は剛妃の宮に入ったことはなかったが、随分と起伏に富んだ場所だった。岩と山と池とが存在する巨大な園林、その方々に宮が建っている。池のほとり、背後に岩山が聳え立つ場所で剛妃が待っていたのだ。
「あぁ、食妃から聞いてないのか? これから四人で、体力をつけるための特訓だ」
剛妃は輝くような笑みを浮かべつつ、とんでもないことをのたまった。これには花妃も空いた口が塞がらない。
「はぁ!?」
「あたくしたち、そのようなことは望んでいないのだけれど?」
「まあ、何をおっしゃるのです。失礼ながらお二人は、圧倒的に体力が足りていないご様子……。体力は資本ですよ。自分を助ける糧になります。それに、今のお身体の状態では、満妃様の修行にも支障が出てしまいますし。ですので、剛妃様にお願いをし、共に訓練をする所存。大丈夫です! わたくしも一緒にがんばりますから!」
「得物は槍でいいか? 剣? それとも弓? 短剣もあるぞ」
剛妃はなんか色々言いながら、大小様々な武器を取り出して並べ始めた。その表情はいきいきとしていて、とても楽しそうだった。
花妃と香妃はドン引きだ。衆目を憚らずあとずさった。
「なんて野蛮なの……!」
「あたくしたちはそのようなものを振り回す趣味はないのよ!」
「そうか? なら、素手で組手の訓練をするか」
「それは良い考えですね。体術は基本中の基本ですし」
どうしてそうなるのよ。
剛妃と食妃の会話にめまいがした。
「そうではなくって!」
「あたくしたちはやらないわ!」
「では早速……と言いたいところだが、その格好では動き辛いな。よし、まずは着替えだ」
花妃と香妃の言葉などまるで聞き入れられず、剛妃付きの女官に連れ去られ、二人は強制的に着替えさせられた。
男ものの袍、しかも袖が引き絞られていてまるで農民が着るようなものだった。
衣はゆったりしているほど身分の高い証。輸入ものをこのむ香妃の衣は例外だが、それでも全身に豪華な刺繍が施されていてただものではないことは一目でわかる。
こんな、刺繍の一つもない、簡素な衣とは訳が違う。
屈辱に震える花妃と香妃を尻目に、食妃はなぜかはしゃいでいた。
「瑞晶様、この衣、動きやすくてとてもいいですね! 組手の時だけでなく、料理を作る時にも使えそうです」
「だろう? もしよければ一着差し上げようか」
「よろしいのですか? とても嬉しいです」
どうかしている会話を繰り広げている二人の様子に、花妃と香妃は思わず身を寄せ合った。食妃と剛妃の視線がこちらに向く。
「さ、特訓開始だ」
「はじめは優しくいたしますので、そんなに怖がらなくても大丈夫ですわよ」
「ひぃっ」
肩をすくめる子羊の手を引く二匹の鬼。花妃と香妃には、そのように思えた。
*
「……あの、春柳様……やはり私には荷が重いかと……」
「まあ、何をおっしゃるんですか、愛凛様。愛凛様が適任かと思いますわ」
「ですが、私は地方出身者。こういったものは満妃様にお任せするのが良いのでは」
「満妃様には姿勢や立ち居振る舞いを教えていただいております。教養面は愛凛様が最適かと存じますわ。何せ大作『後宮楼夢』には、数々の詩経や古の人物たちの教えも折り込まれており、単なる大衆小説ではない奥深さがあるのだと大層な評判となっているそうですから」
「……そこまで褒められると、照れてしまいます」
「事実なのですから、胸をお張りになってください! わたくしも教養面にはいささか不安がありますため、愛凛様に教えていただければとても心強い限りです」
花妃の目の前で繰り広げられるこの茶番は一体なんなのか。
昼餉の後、寂妃愛凛の宮へ連れ去られた。昼餉もきっちりと食妃が管理したものだったし、とても悔しかったが、その料理はなかなかの味だった。
しかもいつもと違って満妃との妃修行、剛妃との組手とかなり動き回った後だったのでお腹がぺこぺこで、いつもの倍量は食べてしまった。
心地よい肉体疲労、満腹な胃袋。
花妃と香妃は一旦寝室に下がってゆっくりと昼寝をしてから、茶でも飲んで優雅な午後を過ごすつもりだった。
しかし食妃がそれを許さなかった。
「午後は座学でございます!」
と休憩もそこそこに二人の手を取りぐいぐいひっぱり、寂妃の宮まで連れてきたのだ。
寂妃。
花妃と香妃にとっての嘲笑の対象。
枯草色の地味な襦裙、一重瞼の細い目、常に下がった困り眉、小さくて主張の乏しい唇、妃だというのにいつも自信がなさそうで、人との関わり合いを避ける心根の小ささ。
そんな寂妃を花妃と香妃は常に小馬鹿にしていたし、何かにつけて嘲笑っていた。
誰かを馬鹿にすることで、自分の地位を確認し、安心したいという気持ちが根底にあることに、花妃は気づかない。
彼女よりはまし、と思うことで優越感を感じていたいのだ。
だが今、長卓の前に寂妃が座り、卓を挟んで花妃、香妃、食妃が横並びになっている。
卓には分厚い書が置かれ、四人の前にはそれぞれ書道具が置かれていた。
食妃におだてられた寂妃は、その気になったのか、丁寧に頭を下げた。
「では……私などには過分な役目とは存じますが、少しばかり教鞭を取らせていただきます」
そう言って二冊の分厚い本を示した。
「詩書とはすなわち『詩経』と『書経』。これらは士大夫の教養ですが、我ら妃が覚えておいても損のない知識にございます。いえ、陛下をお支えするという役割を考えれば、むしろ知っておかねばならない知識とさえ言えますわ。詩経と書経を学ぶことで、道徳のなんたるかを知り、正しい道を知ることができる……。どちらの書も大変重要ですけれど、教養という意味では詩経のほうが我々妃には重要でしょう。はじめの頁をご覧になってくださいませ。意味を理解したら、心を無にして書き写しましょう」
ここから二刻、寂妃による詩経講座が始まった。
詩の形式をとった教養文、道徳文を読み、意味を理解したらひたすらに書に書き写す。意味を理解していなくても書き写す。
はっきり言って、かなり眠かった。
早起き、過酷な妃修行、やったことのない無茶な組手、満腹になるまで食べた昼餉からの座学だ。眠くならないはずがない。
花妃と香妃は白目を剥きつつ寂妃の講座を受けたのだが、一方の食妃は完全覚醒した目つきで極めて真面目に書写に徹していた。
半ば眠りながら適当に書いている花妃の文字とは違い、細かくもきっちりと書いている字は明朗としているし、「桃の夭夭たる 灼灼たり其の華 之の子ゆき帰ぐ 其の室家に宜し……」と真剣に呟いているではないか。
(……こんな女に負けるものですか!)
花妃と香妃は胸の内で同時にそう呟いた。二人とも気位が高く、とんでもないくらいに負けず嫌いなのだ。
かくして二刻続いた座学さえもこなしてみせ、夕餉の前にもうひとっ走りさせられ、ほうほうの体で自宮に戻り、湯浴み中にうっかり寝落ちしかけ、食妃プロデュースの夕餉をむしゃむしゃと食べると泥のような眠りについた。
夢さえ見ないほど深く眠った二人の下に、翌日、またしても食妃が訪れたのを見て、悪夢の再来だと呻いたのだがなんの意味もなく、前日と同じスケジュールをこなすこととなった。




