花妃と香妃(6)
「お待たせいたしました、昼餉をお作りしましたので、是非ご賞味くださいませ」
食妃は相変わらず美しく整った顔に一変の曇りもない笑みを浮かべている。
何も知らないっていいわね、とさえ月橘は思った。
月橘の笑みの下に悪意が潜んでいると知ったら、このお気楽な表情も絶望に歪むのかしら。
毒を盛ったと濡れ衣を着せられたら、どんなにか慌てるだろう。嵌められたと気づいたところで、もう遅い。南部出身の妃二人の証言の方が、春柳一人の証言よりもよほど重視される。ここはそういう世界だ。
けれどもそれに気づかれてはならない。
花妃は華やいだ笑みを浮かべ、はしゃいだ声を上げてみせる。
「まあ、楽しみだわ。ねえ、香妃さま」
「ええ。今か今かと待っていたのよ」
「それでは、ご用意させていただきますね」
何の疑いも持っていない食妃は、顔を綻ばせ上機嫌で卓に皿を並べていく。
卓には、やたらめったら大量の皿が用意された。しかも全てが小ぶりのものだ。
三人分にしては確実に多い。全部で三十皿は下らない。
まるで宮廷料理のようだが、あれは大皿に山と料理が盛られているので、それとは違うようだ。
「一体これは……?」
「ふふ……わたくし、今回のお料理は少々趣向を凝らしてみたのでございます」
ぱか。
被せられていた蓋を外せば、皿には全て異なる種類の料理が盛り付けられていた。
「天華ではお料理を少しずつ盛り付ける軽食……点心というものがあるとお聞きしまして、それを昼餉に流用させていただきました」
昼から用意された料理の種類の多さに、さすがの花妃と香妃も面食らう。
しかし、ここで動揺をみせるわけにはいかない。
平静を装いつつ、花妃はあどけない笑みの裏に邪気を滲ませた。
「……随分たくさんあるようだけれど、結局のところお一人では作れずに厨師に手伝ってもらったということなのかしら?」
「いえ。すべてわたくしひとりで作り上げました」
さすがにそれは嘘だろう、と花妃と香妃は瞬時に思った。
用意された三十皿には、全て異なる料理が載っていて、どれもこれも手を抜いているようには見えない。これらをすべてひとりで作っているとなれば、超人技である。
花妃や香妃よりも華奢な食妃の細腕で、一体どうやってこんなにも大量の料理を作り上げたというのだろう。嘘に決まっているわ、と花妃は断じた。
いくら料理が好きだとはいえ、人一人にできることには限度がある。この量は不可能だ。
食妃は二人の心のうちを読んだのか、大変いい笑顔を浮かべていた。
「前日の夜からはりきって仕込みをいたしました。さ、どのお料理が気になりますか? どうぞ、お好きなものからお召し上がりくださいませ」
そう言われ、花妃ははっと我に返った。
あまりの料理の物量に圧倒されてしまったが、そうではない。
花妃の目的は、食妃の料理を食べることではなく、食妃の料理に毒を混入し彼女を貶めることにあるのだから。
花妃は食妃の背後に控える女官に目配せをした。この女官が、料理に毒を混入する手筈となっていた。
女官は静かに頷き、そっと視線を料理へと移した。その目に映っている料理は、羹の中に雲呑が浮いたようなものだった。
羹は食事においてまっさきに食べるもの。未だ湯気が昇るその羹に視線を向け、花妃はつい、と手を上げた。意図を理解した毒を混入させた女官が進み出て、その器の中身を椀へと取り分けようとした、その時。
「お待ちくださいませ」
食妃が女官の動きを制した。先ほどまでの咲き誇るような笑みから一転した無表情とかたい声。
気の小さい女官は食妃の制止に明らかに動揺した様子だったが、花妃は無邪気を装った。
「どうしたのかしら?」
「この料理……梅花湯餅といいまして、鶏出汁のすまし汁に梅肉を閉じ込めた雲呑を浮かべたものでございます。鶏皮には肌や髪に潤いを与える効果があり、梅には疲労回復効果がございます」
「はぁ……」
突如はじまる料理の解説。これには花妃も女官も呆気に取られるしかない。
「そんな梅花湯餅をお食事の初めにお召し上がりになるのは大変ご賢明な選択でございますが、今回ばかりはお止めするしかありませんでした。なぜなら……この梅花湯餅には、何者かの手が加えられてございます」
断じる食妃に、毒を混入した女官の動きが明らかにこわばった。
馬鹿ね、と花妃は心の中で毒づく。そんな表情をしたら、「わたしがやりました」と言っているようなものじゃないの。これだから使えない女官は嫌になるわ。
内心の苛立ちを顔に出さないよう努めつつ、花妃は笑顔を保ち続けた。
「まぁ! 食妃様。手が加えられているなど、どうしておわかりになるのですか?」
「わたくし、厨房にて全ての料理を盛り付けたのですが、その時に比べて雲呑に少々の歪みが出ており、かつ湯量が微妙に増えております。おそらく厨房で一度蓋をしてから宮へ運ぶまでの間に、誰かがこっそりと蓋を開いて中に何かを混入したのでしょう」
食妃の推測は的確だった。
食妃は翠の瞳で周囲を見渡し、なおも言葉を続ける。
「とすれば、短い道中に料理に細工ができるのは配膳の女官……梅花湯餅を配膳してきたのは……」
食妃の目は油断なく周囲を見渡し、己のすぐ近くでぶるぶる震えている一人の女官に目を止めた。
花妃は、あっと声を上げそうになった。
食妃の手が今にも女官を捕らえ、声をかけてしまいそうだ。
このままでは、あの気の小さい女官は洗いざらい真実をぶちまけてしまうだろう。
そうーー「食妃様を陥れるために花妃様に毒を盛るように命じられました」と。
そうなってしまえば花妃は一貫の終わりだ。
いくら天華で名高い名家出身とはいえ、他家の妃に危害を加えようとしたと知られれば厳罰は免れない。食妃にふりかかるはずだった罪の全てが己の身を襲ってしまう。
(それだけは避けなければ……でも、どうやって!?)
花妃の頭が目まぐるしく動き、しかし打開策が全く思い浮かばず、食妃の手が女官の腕を掴む寸前。
ーーガシャーン!!
盛大な音がして、件の梅花湯餅の器が派手に宙を飛び、中身を撒き散らし、床に叩きつけられて砕け散った。
誰も一体何が起こったのかがわからず、一瞬呆然とする。
「あら、ごめんあそばせ」
呆ける周囲に落ち着き払った声がかけられた。香妃だ。香妃は悠然と扇子を揺らしながら、全く悪びれない様子で言葉を続ける。
「料理に虫が止まりそうだったから、つい。あたくし、虫が大嫌いなものですから」
床に叩きつけられた料理は見るも無惨な状態となった。そこにちらと視線を送ってから、香妃は平然と続ける。
「お料理に誰かが手を加えたなんて、きっと食妃様の見間違いだわ。考えてもご覧なさいよ。厨房からここまで運んでくる間の振動で料理が歪んでしまったのかもしれないし、お湯の量だってただの勘違いに違いないわ。さ、汚れた床は女官に片付けてもらいましょう」
香妃の一言で、さっと動き出した女官たち。これで証拠は残らない。
(助かったわ……)
花妃はほっと胸を撫で下ろした。
香妃の鮮やかな助けがなければ、あのまま女官が真実を吐露して花妃の立場は苦しいものとなっていただろう。
一方の食妃は、とびちった料理と割れた床とを片付ける女官たちにぞっとするような冷たい視線を送っていた。
香妃が食妃の気を引こうと、あえて明るい声をかける。
「食妃様。まだまだ料理はこんなにたくさんあるのよ? そんな表情をしていては美しいお顔立ちが台無しだわ。さ、気を取り直して、他の料理をいただきましょう」
「……ええ、そうですわね」
食妃は床を見つめていた視線をぱっと上げると、その顔に笑顔を浮かべる。
が、先ほどに比べ、心なしか圧がある。笑顔ではあるものの、どこか恐ろしさを感じるようなものとなっていた。
「では、香妃様にはこちらの『麗慧湯』をおすすめいたします。気の巡りを良くし、お肌の調子を良くする湯でございまして。厚く塗ったお化粧でさえごまかしきれていない、肌荒れの激しい香妃様にぴったりのお料理と存じます」
ぴしり。
歯に絹着せない食妃のもの言いに、場の空気が凍りつき、三度は気温が下がった。
香妃の肌は、確かに花妃から見ても荒れている。白粉の下に潜む隠しきれないほどの赤いぶつぶつ。それらをどうにか隠そうと厚く化粧を施し続ける。
常に顔の半分を扇子で隠しているのは、吹き出物まみれの顔を見られるのが嫌なせいだ。
妖艶で美しい雰囲気を醸し出しているが、よくよく見ると肌荒れのひどい香妃がそのことを気にしているのは周知の事実。とはいえ触れたってよい事があるわけもなく、公然の事実として誰もが口にはしなかったのだがーー。
花妃は食妃を盗み見た。笑みを浮かべているが、目は笑っていない。
これは怒っているーーしかも相当に。
美人が怒るとこうも迫力があるのね、と花妃は内心で首をすくめた。
香妃には悪いが、自分に飛び火しなくて良かったと心の中でちらりと舌を出す。
二人の戦いの行方はどうなるのかしらとすっかり観戦モードに入っていた花妃だったが、食妃がぐるんと首の向きを変え、こちらを見つめてきた。
「そうそう。花妃様は感情の起伏が激しく、常に心が落ち着かず苛立っているご様子ですので、肉末芹菜などいかがでしょう? クコの実と棗の煮汁を加えた布丁などもおすすめですわ」
全然、傍観者などではいられなかった。ばっちり飛び火していた。
食妃は天女のような美貌の顔に虎のような獰猛さを潜ませ、牙をちらつかせつつ、花妃と香妃が売った喧嘩に真っ向から対峙してきた。




