花妃と香妃(4)
花妃と香妃のための料理を作る。
降って沸いたような僥倖に、春柳は厨房で大変張り切っていた。
「さぁ、お妃様たちのために、腕によりをかけた素晴らしい料理を作るわよ!!」
「は……はい」
「もっと気合を入れて、さあ!」
「はいっ!!」
満場一致で唱和したのは、花妃の厨房にいる厨師たちだ。
花妃と香妃のための料理を作るのだから、彼女たちの宮の厨房を使う必要がある。春柳の宮の厨房で作って運び込んでいては、冷めてしまうからだ。
だから春柳は、茶会の後すぐに、花妃の厨房に突撃してわけを話し、厨房を借りおおせたというわけだ。
突如他家の妃が乱入してきて「厨房を貸してください」などと言うものだから、厨師たちは大いに面食らって慌てふためいた。花妃付きの女官に事実確認をしたところ、本当だという。ので、無礼にならないように、三顧の礼でもって迎え入れた。
春柳、もとい食妃は、茶会ようの見栄えのする衣を脱ぎ捨てて、一介の厨師の服装に身をやつしていた。顔立ちが美しすぎるのでとてもただの厨師には見えないのだが、それでも長い髪をひとまとめにして頭巾の中に押し込んで、妃だと言うのに爪も伸ばさず色もつけずに丸く整え、腕まくりして料理に勤しむ姿は、控えめに言っても妃とは思えない。そりゃ、満妃付きの筆頭厨師、穀安も騙されるというものだ。
ちなみに花妃付きの厨房の筆頭厨師は、女性である。
天華から月橘の輿入れに合わせて共にやってきた彼女の名前は、嘉玉。まだ二十代半ばと若いながらも月橘の筆頭厨師に選ばれただけあって、腕は確かなのだが、それ以外にも選出理由があった。
ーー花妃のワガママに対応しうるだけの能力をもっているのだ。
花妃は、大変ワガママである。
他家の衆目を集めないようにいているが、自分の宮内で、他に耳鼻がないときには、そのワガママを大爆発させる。
やれあれがたべたいこれが食べたい、やっぱりこれはいらないからそれを持ってこい、これは形が気に食わない、中に入っているものが好きじゃない、など、言いたい放題なのだ。
振り回された女官も厨師も次々に辞めていき、輿入れして後宮にまでついてきているのは少数精鋭で、鉄の心で持って仕事をこなすプロ集団である。
だから嘉玉は今回の出来事についても「あぁ、また月橘様の気まぐれね」と思っている。
どうせすぐに飽きるのだろうから、好きにさせればいい。しばらくは月橘の我儘に振り回されなくてイイのだと思うと気が楽でさえある。
そう思っていた時期が、嘉玉にもありました。
「わたくし、花妃様と香妃様のお食事のご用意をさせていただくのですが、それにあたりお二人の嗜好や体質に合わない食材などをお伺いしたいのですが」
「花妃様の好みは甘いものです。食事においても糖醋という、言わば甘酢タレを好むのが天華の民なので。それから、宮廷で出るような大皿の料理はお好みではありません。点心のように、小ぶりの料理が小皿に盛られている方がーー」
「点心! それは、天華でよく食べられるという軽食のことですよね?」
「左様です」
嘉玉が肯定すると、食妃は頬を抑え、美貌の顔に夢見るような表情を浮かべた。
「天華は農作物が豊富に採れる地域。採れたての野菜を使った点心は、きっとさぞかし美味しいんでしょうね」
残念ながら春柳は、先の茶会で点心はふるまわれていない。
これは花妃による嫌がらせの一環で、「貴女如きに天華自慢の点心なんて振る舞わないわ」ということでもあるし、「わたしの好みを知らせるわけにはいかないわ」という意図もある。二重の嫌がらせなのだが、春柳は気づいていない。
そして、花妃の意図など知らない嘉玉はせっせと主人の好みを伝える。嘉玉は柔軟性があり、忍耐強く、真面目な性分だった。
「花妃様はやはり肉や魚よりも野菜を好みます。食事そのものより点心を重んじるので、昼餉や夕餉は軽めにお済ましになります。あまりたくさんお出しになっても、手をつけていただけない可能性の方が大きいかと。……香妃様に関しましては、私よりも香妃様付きの厨師や女官に訪ねた方が良いでしょう」
「ふむふむ……確かにそうね。ありがとう」
善は急げだ。早速香妃様の宮を訪ねよう。
花妃と香妃は二人でこっそりと会っていて、春柳をこきおろすのに余念がない。
そうは知らない春柳は、勝手に香妃の宮に行き、ついでに厨房を見てこようと考え、そして香妃の宮へと突撃した。
香妃の宮は花妃の宮に隣接していた。
趣は、花妃の宮とはまるで異なっている。こちらも水辺は多いが水廊を設けるほどではなく、常識的な範囲で池が広がり、そこには例によって美味しそうな鯉が泳いでいる。鯉ってどうしてこんなに美味しそうなのかしら、と思いながら回廊を渡ると、厨房を覗き込んだ。
香妃の厨房は一風変わっている。
厨房自体は春柳の宮で使っているのと同じ設備なのだが、使われている調理器具がまるで違った。
見たことのない形の鍋、包丁、それに嗅いだことのない香りがする。
一体、これは、何の香りなのかしら。
春柳は思わず厨房の前で立ち尽くし、すんすん鼻を動かした。
そんなことをやっていれば、当然不審人物と思われる。
くるっと春柳を振り返ったのは、剃り上げた頭、後頭部に残る毛を三つ編みにし、赤いリボンで結び、ナマズ髭を生やしている四十代ほどの男、いや宦官。
細い目は糸のようだが、春柳を胡乱な目で見ている。
「……そんなところに立ち尽くして何をしている。見かけない顔だな、名は?」
「はい、わたくし、春柳と申します」
「春柳……? それは食妃様の御名では?」
「はい。その食妃にございます」
「は!?!?」
ナマズ髭の厨師は仰天し、春柳の顔をじっと見つめた。
「言っていい冗談と悪い冗談というものがある! 香妃様に聞かれたら首を切られるぞ!」
「いえ、事実ですので……!」
「そんなわけがあるか! お妃様が厨房に入るなど、あるはずがなかろう!」
厨師は宦官特有の高い声でそう言い、指を突きつけてくる。
困った。全然信じてくれなさそうだ。
春柳は小首を傾げてちょっと考えてから、言葉を紡いだ。
「……食妃の厨房には、厨師が一人もいないということはご存じですか?」
「食妃『様』だ! あぁ、そういえばそんな話を月寿節で耳にしたな」
「食妃は料理が好きで、手ずから食べるものを拵える。だから、厨房には厨師をおかず、自分で包丁を手に取り料理をする、と。月寿節の玉輪餅も、食妃が作ったものだとご存じですか?」
「……! …………! まさか!!」
「そのまさかなのですよ」
にこり。微笑めば、ナマズ髭の厨師はぷるぷると膝を震わせ、その場でははぁと平伏した。
「……たいっっっへんな失礼をいたしました! 何卒命まではお取りにならぬようご温情をおかけくださいませ……!!」
「そんなこと、するわけないわ。それより聞きたいことがあるのだけれど」
「はい、拙にお答えできることでしたらなんなりと」
なんというか、申し訳ないくらいに震えている。別に驚かすつもりはなかったので、春柳としては申し訳のない限りだ。
「香妃様の好物、苦手なもの、って何かしら」
「はぁ……好物でございますか」
「ええ。実は、お料理をお出ししてくれないかと頼まれて。喜んでお引き受けしたのだけれど、食のお好みは把握した方が良いでしょう? だから、香妃様の食に最も詳しい厨師様にお伺いできれば、と思って」
「それは、光栄なことにございますが」
「どうか顔を上げて、立って頂戴。そしてわたくしに色々と教えてくださらない? この厨房で使われている調理器具や、作っている料理に関しても!」
何だか独特な厨房の雰囲気に、春柳は大いに料理的好奇心が掻き立てられていた。返事を得る前に、ちゃかちゃかと火にかけられている鍋に近寄った。
「こちらの鍋は一体何かしら、変わった形をしているけれど」
「それはフライパンといって、鍋ではなく主に焼き物や炒め物を作る際に使うものにございます。今現在作っているのは、サーモンのムニエルでございます」
「……ふらいぱん? さーもんのむにえる? どういうことですの? あ、お料理が焦げてしまうので平伏はやめてどうぞ普通にしていてください」
聞いたことのない言葉の羅列に春柳は興味津々で、ふらいぱんに近づいた。
ふらいぱんを振るっていた厨師は妃の登場に手を止めて床に平伏していたのだが、春柳が促したので戸惑いながらも顔を上げ、ふらいぱんなるもので調理を再開する。
ふらいぱんは、春柳の知っているどの鍋とも違う。厚みも丸みもなく、なんだか平たくて、長い取手がついていて厨師はそこをつかみ、ふらいぱんを小刻みに揺らしている。動きが独特だ。
「なるほど、そうして身がくっつかないようにしているのですね。ところで、右手にもっているひらべったい木ベラのようなものはなんですか?」
「これはフライ返しと申しまして、フライパンと魚の間に差し込み、魚をひっくり返すためのものにございます」
実演してみせたその「ふらいがえし」なる道具は、とてつもなく便利な道具だった。
さーもんの身が崩れず、簡単にくるりとひっくり返り、こんがり焼けた身が姿を見せる。
鉄鍋だとこうはいかない。ここまで美しく身をひっくり返すことなど不可能にちかい。
春柳は目を輝かせた。
「すごいですね。わたくしもふらいぱんとふらいがえしが欲しいです」
「かなり貴重な品ですので、食妃様の願いでも難しいかと……皇宮内でもこの一点しかございませんので」
なんでも、海を渡った先の国からの貿易品らしい。
「海外にはこのような調理道具があるのですね。素晴らしい。わたくし、海外にも行きたくなってまいりま
した」
まだまだ祥国内の料理ですら網羅しきれていないのに、海外にまで興味の幅が広がってしまった。生きているうちにどこまで食べられるだろうか。わくわくする。
「あの……食妃様。香妃様の食のお好みをお耳に入れにきたのでは……」
「あっ。そうだったわ」
摩訶不思議な調理道具と料理に出会い、うっかり本題からそれてしまっていた。
まだまだ興味は尽きないのだが、やるべきことをやらなければ。長々と居座れば厨師の方にも迷惑になるだろう。
春柳は居住まいを正し、ナマズ髭の厨師に向き合った。
「ごめんなさいね。では、香妃様のお好みについて、聞かせていただけるかしら」
「はい。……まず、前提として香妃様は、食材の好き嫌いはございません」
「それは素晴らしいわ」
ぱちぱちぱち。春柳は指先を合わせて上品な拍手をする。
「ですが、珍しいお料理しか口にしません。珠海では日々、海外からそれはそれは珍しいものが入ってまいりまする。珍しい果物、珍しい海産物、珍しい香辛料、珍しい料理の作り方……それらに心躍らせていた香妃様は、皇宮に嫁いだ今となって同様にございます。香妃様は異国情緒あふれる見目新しいものに飢えておりまする。並の料理では満足しないでしょう」
「なるほど、なるほど」
春柳はにこにこしながらナマズ髭厨師の話を聞いた。
食事よりも甘いものが好きな花妃、食材云々よりも珍しいものが好きな香妃。
どちらもなかなか癖がある。
とてもやりがいのある相手と言えるだろう。
「貴重なお話、ありがとう。では、わたくしは失礼いたしますわね」
「はい……!!」
本当はこの珍しい品々の宝庫である厨房にもっといて勉強したかったのだけれど、居座っては迷惑になるだろう。
後ろ髪引かれる思いで退散した春柳は、二人の妃のためにどんな料理を作ろうか、自分の宮へと帰りながら考えるのだった。




