幽山の姫(6)
「陛下に嫁いで、永安に行けるなんて……わたくしったらなんて幸運なのかしら」
春柳は縁談の話を聞いたその時から、浮かれ気分で日々を過ごしていた。
永安は祥国の中心部。そして皇宮のある昇陽は、国の中心。
すなわち古今東西様々な美味珍味が集まっているに違いない。
「気を引き締めてくださいまし、姫。後宮というのは女の愛憎渦巻く陰謀の園……生半可な覚悟で参るような場所ではありませぬ。特に姫は、外界と隔絶された幽山から嫁ぐのです。好機の目、敵意の目は想像を絶するものでしょう」
「そういえばばあやは若い頃、後宮で女官をしていたことがあったのでしたっけ」
「ええ」
幼少のみぎりより春柳の世話を焼いてくれているばあやは、重々しく頷き、そして身震いをした。
「後宮ほど恐ろしい場所はこの世にはありませぬ。一見煌びやかな世界にして、腹の中では探り合いが横行し、誰が陛下の寵愛を受けるかで競い合う……しかし一度陛下に目をかけられれば、嫉妬に狂った他の姫からの恐ろしい仕打ちが待っている。そんな場所にございます」
「ふぅん」
「もっと真面目にお聞きなさいませ!?」
「だってわたくしには、あまり関係がないもの」
春柳はさらりと言った。
「ばあやが働いていたのは、先先代皇帝陛下の時代のお話でしょう? その頃から妃たちも入れ替わっているし、後宮の環境も変わっているかもしれないわ。それにわたくしが陛下に嫁ぐのは、寵愛を得るためではなく、他国のお料理を覚えるためだもの。他の姫との駆け引きなんて、しないわ」
「甘いです! 姫がそれで良くとも、他の人間はそうはいきませぬ!」
しかしばあやの必死の説得は、春柳の耳に届かない。
(そういえば今日は満月だったわね。月宝草の萼が輝いている状態で摘んで食んだらどうなるのか、確かめようと思っていたんだっけ……明日のおやつ用に小豆を煮ている間に、摘みに行きましょう)
未だわめくばあやの声を右から左に聞き流しながら、春柳は今夜の計画を立てた。
ーーそして、あの邂逅に至る。
月明かりのみに照らされながら、春柳がせっせと月宝草を摘んでいたところ、頭上の木が揺れて何かが降ってきた。
「きゃ」
さすがの春柳も驚いて小さな悲鳴をあげた。
影は二つ。
一つは冴え冴えとした青い毛並みの、羊の様な獣。
そしてもう一つは……。
「驚かせてしまったようだね。夜の散歩をしていたら、木に引っかかってしまったようだ」
痩身の美丈夫が満月の光に照らされて姿を現した。
鶯色の衣にはらりとかかる長い黒髪。見る者をうっとりさせる黄金色の瞳。目鼻立ちは整い、形の良い唇から漏れ出る声は低く甘い。
世の女性の願望を凝縮して形にしたかのような美丈夫が突如現れ、春柳はさすがに驚き、目をパチパチさせながら「はぁ……」と間抜けな声を出した。
(一体どこのどなたでしょうか。……いえ。先ほどの青い羊はもしや……?)
春柳の愛読書「祥国漫遊喫茶典」には、各国の豆知識なんかも書かれている。
それによると、皇帝のおわす永安には獬豸という名の霊獣がいて、国の正義と公正を司っているのだとか。
(獬豸は青い毛を持つ大きな羊の様な姿、額には一本の角があると書いてあったわね。ぴったり合致するわ。おまけにこの方の瞳の色は、皇色といわれる黄金色。すると、この方は……)
春柳の思考はそこではたと止まる。
不審な美丈夫は、ぎゅう、と腹部の衣服を握りしめ、冷や汗を垂らしつつ、精一杯の体面を取り繕い続けながら一言発した。
「すまないが、娘。厠を借りられないだろうか?」
春柳は美丈夫の唐突な願いに再び目をぱちくりさせたが、おもむろに立ち上がる。
「案内しますわ」
男を屋敷の厠に案内した春柳は、月宝草をぎっしりと入れていた籠を厨房に置き、ついでに一つ摘んで味見をした。
神秘的に輝いている萼の部分を臆せずに口にすると、なんだかひんやりとしたここちのよい食感がした。これはもしかすると、体を内側から冷やす役目があるかもしれない。研究の余地がありそうだ。
それから煮込んでいた小豆の状態を確認し、いい感じであることに満足する。
そうしてから、思考を先ほどの男へと巡らせる。
(……血色は良好なれど、やや皮膚が乾燥気味。頬はこけていたわね。衣から覗く首筋は……血管が浮くほどではないにせよ、やっぱり肉がなかったわ。目はやや充血気味。霊獣に騎乗できる身分、身に纏う衣の上等さ、そして自然と立ち居振る舞いが堂々としている様から、正体はおそらく静帝陛下その人。……けれど、解せないわ。永安の殿方というのはふくよかさが富の証のはず。どうして陛下はああもお痩せになっているのかしら)
ここで春柳は首を傾げた。
永安の料理というのは、おしなべて豪華。と「祥国漫遊喫茶典」に書いてあった。
市井であっても食べるものに溢れているのであれば、皇宮なら贅沢三昧な日々だろう。何を食べてももっとふくぶくしい体つきになるはずだ。
(ならなぜ、あの様な体つきに……?)
そこで春柳は、はたとひとつの考えに思い至る。
父が言っていた「今代皇帝は食事に乗り気ではないお方らしい」という発言。
脂汗を滲ませながら厠を所望した態度から考えるに、もしや。
「もしかして、静帝陛下は胃腸が弱くていらっしゃる……?」
天啓だった。
永安の文化と、陛下の体格と、あの厠発言が全て一つに繋がった。
「そう……そう考えると、全て合点がいくわ……!」
春柳は、己の冴え冴えとした推理に胸を震わせた。
厨房のへりに手をついて、考えをまとめる。
「きっと陛下は、永安で出される食事が体質に合わず、苦しんでいらっしゃるのね。食事に乗り気でないのではなく、食事が合わないのだわ。どんなに豪勢な料理でも、体質にそぐわなければどうしようもないもの。ふふ……今日のわたくしは、とても冴えているわね」
そんなふうに自画自賛しながら、推理を確固たるものにすべく、もう一度ご尊顔を拝見しなければと厨房を後にして厠までの道を歩く。
不審な美丈夫、もとい静帝陛下は何かを思案している様で、周囲を注意深く観察しながら悠然と歩いていた。
そこには、不法侵入した挙句堂々と人ん家の厠を借りたという申し訳なさとか、何かを企んでいる後ろ暗さとかはまるでない。
まるで自邸かのような振る舞いは見ていていっそ清々しいほどだ。
(この厚かましさ、やはり只者ではないわね)
春柳はある程度まで近づくと、にこりと微笑みを浮かべた。
「お体は大丈夫ですか?」
「ああ。迷惑をかけたな」
「いえ。よろしければお召し替えをいかがでしょうか」
「それはありがたい申し出だ」
「着替えは角を曲がった部屋に用意してございます。どうぞ」
不躾にならない程度に全身を検分し、たおやかな笑みを浮かべたまま着替えを用意させた部屋にお通しすると、即座に厨房に駆け込んだ。
着替えは、陛下を慮ったというのもあるが、料理の時間を確保するためでもある。
だだだだっと厨房に駆け込んだ春柳は、静帝陛下にお出しするための料理を瞬時に決定した。
「今ここにある食材で、パパッと作れてなおかつ胃袋に優しいものといえば……豆粥に決まりね」
春柳は明日のおやつ用にと仕込んでいた小豆を、迷いなく茹で汁と豆とに分けた。
使うのは豆ではなく茹で汁の方である。
小豆の色がうつってほんのりと桜色に染まった茹で汁からは、豆のほのかな香りが立ち上っていた。
素早く米をとぐと、小豆の煮汁の中に投入し、コトコトと煮込む。
小豆の香りに混じって、米の炊ける香りがしたら、微かに舌が感じるくらいの微量の砂糖を投入。
一つかき混ぜ、蒸らせば豆粥の完成だ。
「あとは、お茶の用意もしましょう」
春柳は茶にも精通している。
幽山に生えているありとあらゆる植物の根から花に至るまで口にしたので、どの植物がどんな効能を持っているのか全て頭の中に叩き込まれていた。
「陛下の症状にピッタリなものというと……菊の花に棗、龍眼、クコの実、陳皮、山査子、雪菊、氷砂糖……」
材料を手にとって、茶杯の中へといれてゆく。
あとはこれに、陛下が豆粥を食べ終えたタイミングでお湯を注げば完成だ。
「さて。お持ちいたしましょう」
うきうきとした気持ちで厨房を出て、陛下を通した部屋の前までやってきた。
「着替えはお済みでございましょうか?」
「ああ」
中からくぐもった声が聞こえたので、「では、失礼いたします」と声をかけ戸を開ける。
幽山式の衣服に身を包んだ推定静帝陛下と思しき人物が部屋の中央に悠々と佇んでいる。
「粗末なものではございますが、飲茶をご用意いたしました」
静帝陛下(暫定)は、微妙な顔をした。
やはり食事の類は好きではないのか、と春柳はますます確信を深める。
(けれどわたくしの料理は、きっと陛下の舌に合うはず……!)
なにしろ春柳の、体質を見抜いて個々人に見合う料理を作る腕はずば抜けている。
「いや、そうした類のもてなしは結構。茶だけで十分……ん?」
断りの言葉を聞かなかったことにしてずんずん室内に立ち入る。
漂う香りにすんと形の良い鼻を動かした静帝陛下(暫定)は、言葉を切った。
盆に載った豆粥を紫色の瞳でじっと見つめ、戸惑っている様子だ。
「……米……か?」
「はい。幽山に昔から伝わる、豆粥という料理にございます」
「ほう。粥とな」
静帝陛下(暫定)の声音が変わる。態度が和らいだ。
「いただくとしよう」
「ええ、ぜひとも」
勝利を確信した春柳は、素早く喫茶の準備を整えた。
匙を手にさらりさらりと粥を口へと運ぶ静帝陛下(暫定)。
わずかながら目を見張り、口に含んだ粥を味わい、ほっとした様子で方の力を抜く様子。
「お口に合いましたか?」
「ああ。とても美味い」
掛け値なしの本音の賞賛だと、春柳は見抜いた。
いくばくかの問答をしているうちに、静帝陛下(暫定)が春柳に興味を抱いていることに気がついた。
(おそらく秘密裏に妃の査定にいらっしゃったのね。ここで陛下のご意向に添えればわたくしの勝ち、さもなければ陛下のお眼鏡に敵わず、縁談話がたち消えてしまうに違いないわ)
なればこそ、答えを間違えるわけにはいかない。
「何故この俺にこうした粥や茶を出したのか? もしかしたら俺は、夜半であっても肉を好み酒を所望するような男かもしれぬのだぞ」
口の端を持ち上げて、黄金色の瞳をすぅと細め、試す様な口ぶりの陛下。
「それはございません」
春柳は腹に力を込め、ここ一番の大舞台に挑むべく、渾身の外面の良さを作り上げつつ言う。
「初めてお会いした時の、脂汗を滲ませて厠までの行き方を尋ねたご様子。身に纏っていた見事なまでのご衣装。痩身のお体は絞っているのではなく、肉が付かない体質の方のそれ……何よりもご一緒に降臨なさった、鮮やかな青い霊獣。わたくしは貴方様をこう断じました。『世に太平をもたらす春夜の如き静かで穏やかなる政治、細い玉体は繊細な螺鈿細工のようで、内に秘めるは猛虎さえも圧倒する比類なき強き精神力』……今代皇帝、静帝陛下。そして……近い将来、わたくしが嫁ぐことになるお方であると」
陛下の手から力なく茶杯が転げ落ちた。
かつん、と茶杯が床を打ち、目と唇とをわずかに開いて驚きをあらわにするのを見つめながら、春柳は「勝ったわ」と心のうちでほくそ笑んだのだった。