花妃と香妃(3)
呼ばれて訪ねた花妃の宮は典雅で趣のある宮だった。
宮と宮との間には池が張り巡らされていて、どちらかというと池の中に宮が作られているかのようだった。宮と宮とをつなぐ回廊から池の様子がよく見える。
あちらこちらに泳ぐ鯉は見事に肥えていて大変美味しそうだったし、時折存在する小島には栗や梨の木が植わっていてたわわに実を成らせている。
吹く風は水の匂いを含んでいて、のどかで優雅な場所だった。
同じ後宮内とはいえ、場所によって全く姿を変えてしまう。とてもすごいことねと春柳は思い、同時にどんな池にも美味しそうな鯉が泳いでいるのはとても素敵なことねとも考えていた。是非一匹捕らえて味見したいところだが、流石によその妃の宮の池の鯉を捕まえるのは難しいだろう。
「なんだか最近、鯉の数が減っているような……」と女官が呟いているのを耳にして以来、春柳は自宮の池の鯉ですら捕獲を自重している。さすがに全匹いなくなっては不審に思われても仕方がないし、変に勘繰られても困る。
それはともかくとして、花妃付きの女官に従い水廊を渡ると、一つの宮にたどり着く。
八角形の朱塗りの建物は曲線を描く宝形屋根が大きく張り出していて、水面に影を落としていた。開け放たれた正面扉には向こうが透けて見えるほど薄い紗の暖簾がかかっていて、風に揺らめいている。
そこをくぐり抜けた春柳は、部屋に案内された。
大きな丸い飾り窓がいくつも壁に設けられていた。
窓にも格が存在している。あまり金のない家だと、窓には飾りが施され、隙間を埋めるように薄紙を貼って明かりを取る。たとえ永安の貴族であってもそうした屋敷はあるものなのだが、さすが皇宮ともなると全ての窓に玻璃が入っている。
そして今春柳が通された部屋の窓はかなり贅沢な作りとなっていた。
丸窓は上半分に飾り枠が嵌められ、下半分には何もない。玻璃がふんだんに使われていて、おかげで室内だというのに外のように明るい。
その窓辺に丸い卓が一つと几が三脚置かれている。
二つは既に埋まっていた。
桃色よりも少し爽やかな桃紅色の襦裙を纏い、赤みがかった髪を二つのお団子に結い上げ、そこに生花を簪代わりに挿している鮮やかな妃、花妃月橘。
対面に座るのは、玫瑰紫色の体の線が出るぴったりとした衣を纏い、黒髪をすっきりと結い上げ、紫水晶や金剛石をふんだんに使った簪を挿した艶やかな妃、香妃璃美。
どちらの妃も方向性は違えどもさすが自信に満ち溢れ、威厳があって堂々としている。
だが、春柳は、気がついてしまった。
(……花妃様はとても可愛らしい方だけれど、少し苛立っているのかしら。一見友好的なのだけれど、よく見ると瞳孔が開いているし、口角の上げ方がちょっと不自然だわ。香妃様は美しいけど、お化粧の下には……吹き出物があるわね。隠そうとして大分白粉をはたいているみたい。けど、これほど厚塗りしたのではお肌に良くないわ)
春柳は、静帝陛下にさえ褒められた類い稀な洞察力でもって即座に二人の現状を見破った。
こうして二人の不調を見つけ出してしまうと、もういてもたってもいられない。
(あぁ、お二人のご不調の原因を取り除いて差し上げたい。……お料理を、させてもらえないかしら。栄養管理をしたいわ。わたくしの手にかかれば、ひと月もあればお二人のお顔をつやつやのぴかぴか、本来お持ちのお美しさを十二分に発揮できるのに)
そんなことを春柳が考えているなど、露ほども思っていないだろう。
二人の妃は春柳にむけてついと視線を向ける。
花妃は、愛らしい顔に満面の笑みを浮かべて言う。
「まあ、お待ちしておりましたわ、食妃様」
香妃は、妖艶な顔の下半分を扇子で隠しつつ。
「食妃様のお越しを今か今かと待ち望んでおりましたの」
そして食妃こと春柳は、とびきりの笑みを浮かべた。
「本日はお招きいただきまして、ありがとうございます。わたくし、花妃様と香妃様にお会いできることを、とても楽しみにしておりました」
ーーここに三人の妃によるお茶会の火蓋が切って落とされた。
春柳は花妃が「おかけになって」と示した、花妃と香妃の間の几に腰を下ろす。すかさず女官が茶の準備を始めた。
「本日は私の故郷、天華式のお茶でおもてなしをさせていただくわ。満妃様のような宮廷式でなくて申し訳ないのだけれど、天華のお茶は祥国一だと自負しているの。どうか、じっくりと味わって頂ければ嬉しいわ」
花妃の言葉に呼応するかのように、女官が大きな卓に着々と茶と茶菓子とを並べていく。
茶は、透明な玻璃の茶壺に入れられていた。丸みを帯びた茶壺の中には茶葉が入っているのだが、それが随分と変わった形をしている。
一般的な茶というのは細かな茶葉をお湯の中で踊らせてじっくりと蒸らし、茶の香りと味とを引き出す。
もしくは幽山でよく飲まれている養生茶のように花や実などを使う場合もあるだろう。
しかし今用意されているのは、そのいずれでもない。
丸く大きな緑の塊が茶壺の中に入れられる。まるで団茶を削らずそのまま入れてしまったかのような、何かを間違っているとしか思えないような光景だ。
しかし、湯を注ぎ、しばらく待つと、光景が一変した。
固く閉じた草の塊は、蕾が開くかのように湯に浸かってゆるやかに解かれた。
「まぁ……!」
玻璃の茶壺の中で瑞々しい茶の花が咲く。その色は、紅、黄、白と様々で、花畑のように賑やかだった。
その様は実に典雅で、この世のものとは思えない。まるで極楽浄土を茶壺の中に再現したかのような美しさだった。
春柳は食い入るように茶を眺めていると、花妃が説明をしてくれた。
「工芸茶と言って、茶葉を細工して花を組み合わせて作られたお茶よ。お湯の中で花開く様子が見事でしょう?」
「はい。とても素敵でございます」
花妃は女官に目線で命じ、茶を各々の蓋碗に注がせる。花妃、香妃、春柳ーーつまり主催者、客人、新人の順だ。わかりやすく序列を表わしている。
「どうぞ。天華自慢の工芸茶ーー花神神話よ」
春柳は茶を手に取りじっと揺蕩う茶の表面を眺める。色がほとんどない透き通ったお茶から漂う、なんとも芳しい花の香り。いやらしさはまるでない、野に咲く花の香りが茶に溶け込んだかのような、自然なそれに、春柳は思わず頬を綻ばせた。
そして唇を付け、そっと一口。
口の中から食道を通り、胃の腑にかけて、まるで春柳の体内に花が咲き誇ったかのようだった。
瑞々しい茶は繊細な味で、こんなにも様々な花の香りがするというのに、くどさはまるでない。
鼻に抜ける香りは複数。茉莉花はわかるが、あとはわからない。きっと春柳の知らぬ花が使われているのだろう。
花々は主張しすぎず、喧嘩せず、寄り添いあって手に手を取り合い調和している。
そして後味に微かな甘味。
余韻。
春柳の意識は後宮を抜け出し、遥か遠いーー行ったこともないーー祥国南西部、天華へと飛んでいた。
天華は肥沃な大地を活用した一大農業地区だという。
そこではきっと牛が鋤を引いて田を耕し、農民が育てた作物を丁寧に刈り取り、収穫物を馬が運ぶのだろう。
そして農作業の合間に四阿に集って皆で茶を飲むのだ。
豊かな水辺を四阿の窓から覗き見て、咲き乱れる花々の香りを嗅ぎ、遠くに緑の田畑を眺めながらーー。
「ーー花神神話の基は白茶。花は、金盞花に茉莉花、それに千日紅が使われているわ」
はっ。
花妃の茶話により春柳の意識がかろうじて戻ってきた。
蓋碗を丁寧に卓に置いた春柳の目が光る。
「……白茶とは、どのようなお茶なのです? 金盞花、千日紅についても教えていただけませんか?」
食い気味の春柳に、花妃の目が瞬いた。そして意地悪気に口角が上がる。
「なぁに? 貴女、静帝陛下から『食妃』なんて大層な妃名をいただきながら、そんなことも知らないの?」
「はい。未だ浅学の身故、特に、祥国南部地方の品に関しては勉強不足でございます。何卒花妃様からご教授頂けますと幸いにございます」
己の勉強不足を素直に認め、流れるように卓に手をつき頭をつく春柳。
本音だ。
春柳は、幽山という狭い土地しか知らずに育った、世間知らずだ。井の中の蛙大海を知らず。幽山の料理、己の料理の腕に自信を持ってこそいるが、それが全てであるなどと傲慢な理論を振りかざすつもりは毛頭ない。
そもそも後宮に来た理由の一つが「古今東西の美味珍味を知りたい」という好奇心によるものなのだから、ここで無駄に花妃に対して居丈高に出たり、まして「工芸茶、知っていますけど何か?」などと知ったかぶりする気もなかった。
あまりも潔く頭を下げ、教えを乞うたせいだろうか。
花妃はちょっと面食らったようだったが、「そこまで言うなら、教えてあげるわ」と顎を持ち上げ上から目線で言い放つ。
「白茶は、茶葉本来の味と香りが活きる、自然のお茶。繊細だけどお茶の味を最も感じることのできる、まさにお茶の中のお茶よ。それに花で香りと華やかさとを付随したものが工芸茶。金盞花は春に咲く黄色い花で、千日紅は小さな花をつける紅の花。どちらも天華ではあちらこちらに咲いているわ。美しいでしょう?」
「はい、とっても!」
そこで春柳はぐるんと首をめぐらせて、香妃の方を向いた。
「香妃様からも、同じ花の香りがいたします。衣や御髪に香を焚きしめておりますか?」
意外だったのだろう、香妃はやや目を見開いた。
「ええ。その通りよ」
「やっぱりそうだったのですね。お茶だけでなく、お香にも使われる金盞花や千日紅……わたくしもぜひ、生花をお目にかかり、そして試してみたいですわ」
「あら。なら、少し分けてあげても良いわよ」
「本当でございますか?」
花妃の言葉に春柳は食いついた。が、花妃は「ただし」と言葉を付け加える。
「無料でというわけにはいかないわ。それなりに見返りがないと。ね、璃美様?」
「ええ、そうよ。……春柳様は輿入れして間もないのに、随分と陛下に気に入られているご様子ね? 月寿節での陛下のお言葉には随分と驚いたわ。あたくしたち、陛下や皇女様をも唸らせた貴女の料理の腕に興味があるのよ。医食同源、でしたっけ? 幽山秘伝の料理とやらをあたくしたちにも見せてくださらないかしら」
「そうそう。それで、わたしたちが満足できるようなものだったら、いくらでも天華の特産品を差し上げるわ」
「あたくしからも、珠海で話題の貿易品を差し上げる」
「本当ですか……!?」
春柳は若葉色の瞳を輝かせる。
まさか、なんて嬉しい提案なのだろう、と思った。料理を作って欲しいとお願いされるなど、春柳にとってこの上もなく幸せなお願いだ。
しかも二人に出会った時から、二人の体調の悪さに春柳は気づいていたのだ。
ぜひとも春柳の得意とする食事療法で、お二人の体を整えてあげたい。
そう考えていたところへの提案。
この二人に悪意あるなど露にも思っていない春柳は、一も二もなく頷いた。
「是非とも、お二人のためにお料理を作らせてくださいませ」
花妃と香妃が示し合わせたかのように微笑む。まるで一切の邪気がなく、心の底から春柳の言葉を喜んでいるかのように。
「よかったわ。そう言ってもらえて、嬉しい」
「楽しみにしているわね」
「はい!」
*
春柳との茶会の後、月橘と璃美は二人で密かに集まり、堪えきれぬ笑いを漏らしていた。
「あぁ、可笑しい。あの田舎女、まんまと騙されて……!」
「まあ、そんなに笑っては可哀想よ。天女だ仙人だと言われても、結局は山育ちの世間知らず。同じ山暮らしの瑞晶様と頭の出来は同じなのだわ。人の言葉の裏を読むなんてできないのよ」
くすくすくす。
典雅な四阿に嘲笑が響き渡る。
無論、二人は本当に幽山の料理に興味があってあんなことを言ったわけではない。
春柳自慢の料理とやらを利用して春柳を追い落とすためだけに言ったに過ぎない。
「ーーあの女が作った料理にちょっとした毒物を仕込み、毒味の女官に食べさせる。それで女官が倒れたところで言うのよ。『きゃあ、貴女一体何をしたの!?』って」
もちろん死に至るような猛毒を盛るつもりはない。
ちょっとした吐き気を催すような些細な毒物に過ぎないが、それだって毒は毒だ。
女官が倒れれば大騒ぎになるし、春柳が作った料理に毒が仕込まれていたとなれば犯人は明白。
「『毒を盛るなんて、おそろしい……同じ妃として風上にも置けないわ。あたくしたちがそんなに邪魔だったの、そんなに陛下の寵愛を独り占めしたいの?』とでも言ってやれば、あとは簡単。女官と兵に銀を握らせれば、罪は簡単に捏造される。陛下に事情を訴え出れば、あの女の罪は確定するわ。なんて愉快なのでしょう」
二人の妃は春柳がどん底に落ちる様を想像して大笑いした。
「あの女が悪いのよ。輿入れしてきたばかりなのに陛下に気に入られて」
「そうよ。あたくしたちは後宮の均衡を崩す目障りな存在に、ちょっとお灸を据えるだけ。騙される方が悪いのだわ」
所詮この世は弱肉強食。
ましてここは権謀術数渦巻く皇宮の奥深くにある女の園。
皆が皆、剛妃や寂妃のように単純ではなく、満妃のように崇高でもない。
むしろ長い後宮の歴史を鑑みれば、花妃や香妃のような考え方の妃の方が多いほど。
時の皇帝の寵愛を得るため、皇后の座を掴み取るため。皆、あの手この手を使ってのし上がり、同時に他家の妃を追い落とそうとする。
満妃の言うような「陛下を支えるために妃同士手を取り合って協力する」などの崇高な意志を持つ者なんて少ない。手を取り合ったなら、自慢の美しく整えた爪の先で皮を突き破り傷つけてやろうと考えるものの方が多い。そうして「やだ、手のひらに血がついてしまったわ」などといって、被害者ぶったりするのだから恐ろしい。
ーーだから、春柳が後宮の洗礼を浴びるのも当然で、今まで悪意に晒されなかったことのほうがよほど奇跡的なのだ。
「楽しみね、あの天女の顔が崩れるのを見るのが」
「ええ。美しい顔が絶望に歪むところをじっくりと堪能いたしましょう」
美しい花には棘があると言う。
花妃と香妃の棘に絡め取られてしまうのか。はたまたーー。




