花妃と香妃(2)
月寿節が終わった後も、春柳は定期的に汐蘭の宮に呼び出されていた。
「妃修行は一日にして成らず。地道で長い鍛錬こそが己を真の妃へと導くのよ」
という汐蘭のありがたいお言葉に従って、春柳はせっせと修行に励む。
頭と両腕に乗せた盆の上には、こんもり山盛りの甜食が載っている。修行を始めたばかりの頃と比べると、その量は倍になっており、筋力がついてきたことを意味していた。
背筋の伸び具合も中々堂に入っている、と自負している。
目の前の汐蘭は相変わらず凄まじい量の甜食を乗せて平然としている。この境地に至るまでに、裏でどれほど血の滲むような努力を重ねたのだろうか。
(……けど、汐蘭様を動かしているのは、陛下への愛情ではなく貴族としての責務なのよね……)
汐蘭は元許嫁である陛下の兄、偉鵬を今だに想っているのだ。その気持ちを押し殺し、家のため、皇室のために皇后になるべく努力を続けている。
好きなものを好きと言えずに過ごすことはどんなにか辛いだろう。それでも汐蘭は、そんな感情を全く表に出さない。見事なまでに仮面を被っている。
そして、と春柳は思う。
(陛下は、汐蘭様とお兄様とを救うべく、ずっと画策していたのだわ……)
陛下に汐蘭のことを聞いたあの夜のことが脳裏によぎる。
どうにかする手立てはあると、すらすらと陛下は言葉を紡いだ。おそらくずっと考えていた方法なのだろう。
だが、まさか自分が皇后の候補に選ばれるなどとは思ってもいなかった。
あの日の陛下の表情。自分を見る目に宿った静かな熱。伸ばされた手。紡がれた言葉。
全てを思い出した春柳は思わず動揺してしまい、姿勢が崩れて盆が落ちた。
「しまったわっ!」
甜食が、床に向けて落下していく。春柳はそれをなぜか実際よりもはるかにゆっくりとした速度で見つめていた。音が消えている。
まだ、間に合う……!
取り落とした盆の一つを即座に掴むと、甜食の動きを察知して落下地点を割り出し、盆を置く。
速度が通常に戻り、音が耳へと蘇る。
果たして甜食は、一つも床に落ちることなく、盆の上へと収まった。
「……良かった……!」
右手を大きく伸ばして盆を差し出し、床に這いつくばって安堵の息をつく春柳。
「そなたは、一体なにをしているの」
冷ややかな汐蘭の声に、春柳はごまかしの笑みを浮かべた。
*
汐蘭との修行を終えた春柳は、自分の宮へと戻る。
陛下に言われたことについては一旦考えないようにした。自分はあくまでも家の都合で後宮にやってきた。陛下も政略結婚の相手として自分を迎え入れてくれた。
それでいいじゃないか。
春柳には汐蘭のように密かに思う相手もいないので、安心して政略結婚に乗っかっていられる。なんのしがらみもない。
むしろ、しがらみがないほうが、己の料理的好奇心を満たせるので良いとさえ思う。
陛下の視線にこもっていた熱だとか、真剣な態度に関しては……今は考えないようにしよう。考えると妙に胸が落ち着かなくなる。
(平常心、平常心)
春柳がどうにか心の落ち着きを取り戻し、回廊を渡って自分の宮へと戻ると、女官の一人が頭を下げて春柳の帰りを待ち構えていた。
「おかえりなさいませ。食妃様宛に文が届いております」
食妃と呼ばれて春柳はむず痒い気持ちになった。
月寿節にて陛下から賜った妃名は、まさに春柳が求めていたものだった。自らを端的に表す妃名に春柳はにこにこだ。とてもうれしい。
上機嫌なまま女官に「ありがとう」と告げると、文を手渡した女官はそっと去っていく。文には薄桃色の花びらが閉じ込められていた。紙自体もうっすらと色づいている。かなり上質なものだというのは、紙を見ただけで即座にわかった。
春柳はその場で文を開き、内容を読んだ。
「花妃様からだわ……まあ、お茶会に招待、ですって!」
黒墨で文に書かれた筆跡は丸みを帯びてどことなく愛らしい。
月寿節での非礼を詫び、また妃同士距離を縮めたいとして、茶会へ招待したいという。参加者は春柳と花妃、香妃の三人。
花妃、香妃といえば、まだ春柳がまともに話したことのない残りの妃二人。
思えば二人からは、輿入れしてきてからすぐ、また今現在に至るまでも定期的に贈り物をいただいている。
そして先日の月寿節では、とても美味しい天華式と珠海式の玉輪餅を味わえた。
天華のものは肥沃な大地から豊富に採れる農作物をふんだんに詰め込んであり、珠海のものは果てしなく広がる海に住まう生き物たちをこれでもかと使った、どちらにしても大変に美味な玉輪餅だった。
あの二つに比べたら、確かに春柳の持ってきた幽山式の玉輪餅は見劣りしてしまうだろう。
春柳は幽山の料理に誇りを持っているが、だからといって「自国の料理が一番でそれ以外は論外」などという暴論を吐くつもりはない。むしろ逆である。
祥国は広く、様々な地域があり、気候や風土、文化によって違う料理が生まれるのは当然だ。
それらを味わい、楽しむことも、春柳の料理的好奇心を刺激し、満たすことになる。
嫌味の一つや二つ言われるということは、それだけ自国の領土料理に二人が誇りを持っているということなのだ。確かにどちらの玉輪餅も大層美味しかったので、二人の反応にも頷ける。
というわけで春柳としてもぜひ二人に接触したいと思っていたのだ。
胸に文を抱いて、来るべき茶会に思いを馳せる。
「手土産を持っていかないと。何がいいかしら。ああ、今からとっても楽しみだわ!」
茶会に悪意があるなどと思いもせず、春柳はただひたすら純粋に二人の妃に会い、話ができるのを楽しみにしていた。




