花妃と香妃(1)
「ーーありえないわ!!」
後宮に存在している宮の一部屋にて、甲高い怒りの声が炸裂した。
声の主は花妃月橘。赤みがかった髪を二つに結い、簪の代わりに生花をふんだんに散らしている。薄桃色をした花柄の襦裙が良く似合う愛らしい顔立ちの妃だが、今はその表情は歪んでいた。
「悔しい! ぽっと出の妃のくせに! ちょっと顔がいいからって陛下に目をかけられて! 調子に乗るのもいい加減にしてちょうだい!!」
一言一言言うたびに、榻に乗せられた软垫をぼすぼすと叩きつける。そうでもしないと腹の虫がおさまりそうにもなかった。
肩ではぁはぁと荒い呼吸を繰り返していると、部屋の奥にいる人物が呆れた声を投げかけてくる。
「もうそろそろ止めてもらえるかしら? あたくしの部屋が埃っぽくなってしまうわ」
振り向くと、優美な顔が見える。
香妃璃美。何を隠そう、この部屋の主人である。
璃美は艶美な妃だ。年齢は月橘とさほど変わらないはずなのに、段違いな色香を有しており、同性である月橘でも時折妙に気恥ずかしい気分にさせられる。
祥国南東部、貿易で名を馳せる珠海出身の璃美は一風変わった格好をしていた。
祥国で貴族の女性がよく着る襦裙ではなく、旗袍と呼ばれる体の線がくっきりと出る衣を纏っている。のみならず、腰から下、両脇に切れ込みが入っていて、太ももから下があらわになっているのだ。
ゆったりした服装で体の線を隠すのが常識だと教えられていた月橘からすると、璃美の服装はかなり衝撃的なものだった。
璃美が椅子の上で足を組むと、すらりと長く真っ白な足が太ももからつま先までくっきりと見える。足を覆う靴さえも見たことのない形で、ピカピカに輝く踵の高いそれは、璃美の妖艶さを演出するのに一役買っていた。
毎回のことながら、目のやり場に困る。
月橘が視線をうろうろさせていると、璃美が笑う息遣いが聞こえた。
「とにかく座りなさい」
「……ええ」
月橘が座ると、璃美は卓案に載った香炉の蓋を開け、香を焚き始めた。月橘は表情に出さなかったが、内心で眉をひそめる。
璃美はしょっちゅう香を焚くのだが、凝縮されて強すぎる香りは月橘の好みではない。今も、燻る煙とともに蘭の香りが部屋中に漂い始めたが、自然の蘭とはおおよそ違うその匂いに月橘としては違和感を感じざるを得なかった。
だいたいーーと月橘は密かに思う。
璃美の好みは、派手すぎて悪趣味に近い。
璃美の部屋に運び込まれた調度品は、祥国由来のものが半数。もう半数は海の彼方から運ばれてきた貿易品が占めている。
天井からは水晶でできた明かり(璃美曰く「しゃんでりあ」というものらしい)が飾られ、隅の飾り棚には白地に金箔が貼られた宝石箱や見たことのない形の壺、薔薇模様が描かれた皿と器の一対などが飾られている。
それらの品が由緒正しき後宮の中に入っているものだから、建築の様式とまるで合っていないのだ。ちぐはぐすぎる。
「璃美様、あちらの飾り棚に飾られているお皿と器は何ですか?」
「あれはティーカップとソーサーといって、お茶を飲むためのものよ」
「茶杯のこと?」
「そう捉えてもらって構わないわね。よろしければ淹れさせる?」
「いえ、大丈夫です」
月橘は首を横に振った。
「そう? 残念ね。茶菓子も用意させるのに」
こんなに香りがきつい中、何かを食べたり飲んだりする気にはならない。
茶館文化が根づく天華出身の月橘は、お茶にはうるさい。
お茶を飲むからには相応の雰囲気というものが重要である。
飾り枠の入った丸窓の外には蓮の華が浮かぶ池が広がり、そこから爽やかな風が吹き抜ける。耳をすませば胡弓の音がかすかに聞こえ、風は自然の花の香りを運んでくる。
古い趣ある老紅木で作られた家具に囲まれ、ゆったりと茶の香りを堪能し、幾煎にも煎じて心を許せる人と朝から晩まで語らう。
そんな茶飲みをしたいのだ。
香の香りがきつい、ごちゃごちゃした室内で飲みたいわけではない。
「月橘様はあたくしとちっともお茶をしてくださらないわ。せっかくいつも厨師に腕によりをかけて作らせているというのに、んもう」
そう思うのなら、このきつすぎる香をどうにかしなさいよ、と思う。思うだけで口にはしないし、まして顔にだって出さないけれども。
「……ま、それはともかくとして、幽山の姫の件ね。月寿節ではまんまとしてやられたわ」
「そう。そうよ!」
月橘は思い出し、そしてまた怒りに震えた。
月寿節ーー皇族と妃とが一同に会する祭祀において、月橘はとんだ赤っ恥をかかされた。
それというのも全て、あの幽山から輿入れしてきた妃、春柳のせいだ。
あの日月橘は、皇族の前で春柳をこき下ろしてやろうと考えていた。内容なんてなんでもいい。言いがかりだって構わないので、とにかく評判を落としてやろう、と意気込んでいた。
月橘にとって春柳はかなり目障りな存在だ。春柳に特に何かされたわけではないのだが、新たな妃、というだけで敵視するに十分な理由になる。
皇后争いは汐蘭の優勢で、ほぼ決着はついたと言っていい状態であるのは確かだが、だからといって月橘が諦める理由になるわけではない。
要するに金眼の皇子を産めばいい。そうしたら家格など無関係に皇后になれる。
そして皇子を孕むためには陛下に渡りに来てもらわなければならない。
妃が一人増えれば、月橘のところへ渡りに来る回数がそれだけ減ってしまう。
おまけにあの女が輿入れしてきてから、陛下は夜を共に過ごしてくれなくなってしまった。
可愛らしくねだったり、涙を浮かべて情に訴えたり、すねたりしてみても、全く効果がない。
月橘は焦っていた。危機感があった。
新入りの妃など蹴落としてしまいたいと、本気でそう思っている。
どのような妃なのかは、噂を集めて想像するしかなく、月橘は女官に命じて春柳の後宮内での動向を探らせた。
後宮内は妃であればある程度の散策は自由だが、女官の出入りは厳しい。暗殺や毒物の混入などを防ぐための措置である。
広大な後宮は一見無防備に見えるが、その実、そこここに見張りの女衛士や宦官が立っているのだ。
特に、各妃にあてがわれている宮の区域を超えての行き来は基本的に不可能だ。もしもやるとなれば、人知れず夜中にこっそりと壁を越えて行くとか、泳いで池を横断するとか、あるいは建物の屋根を伝っていくとか、そういう手段をとるしかないが、流石に現実的ではなさすぎる。間諜でも雇わなければ不可能だろう。
多すぎる制限の中、なんとか月橘が集めた情報によると、以下の通り。
幽山出身の姫である春柳は、流石仙人の里と言われるだけあり、美しく儚げで天女のような美貌を持っているということ。
変わっている点としては厨師を雇わず自らが料理をしているらしく、春柳付きの女官にもよく甜食を振る舞ってくれるとして、女官たちからの評判の良い主人であること。
剛妃瑞晶、寂妃愛凛、皇女明麗との交流を持ち、最近ではよく満妃汐蘭の宮に行っているということ。
そのような話を聞いた月橘はぎりりと歯噛みをした。
まだ輿入れしてから間もないというのに、既に皇女を含め四人もの人物に会っているというのはどういうことなのか。しかも、満妃といえば後宮の中でも最重要人物。気に入られたのか、或いは以前に月橘がさせられたように「妃修行」とやらをつけられているのか。
外見の美しさも脅威だが、自ら料理をしているというのも謎が多い。
まるで人物像の想像がつかない。それがまた焦りを呼ぶ。
悶々としながら過ごし、月寿節で実際の春柳を見た時、息が止まるかと思った。
艶のある紫がかった黒髪。乳白色の透き通るように美しい肌。ぱっちりとした瞳は春の柳のような若葉色。自然に色づいた唇は形が良く、まさに天女と呼ぶにふさわしい、天が下したとしか思えないほどの美しさ。
決して華美ではない衣は紫がかった淡い桃色で、蓮の花の色に似ている。頭に挿している簪は銀で、金剛石や翡翠がちりばめられていた。歩くたびにひらひらと揺れる薄紗の帔帛が彼女の神秘性を高めている。
極彩色が基本の後宮の中で、薄い色で統一されている春柳はまさに天界から舞い降りてきた使いの如き異彩を放ち、いやが応にも注目を集める。
引きずり落とさなければ、という気分がより一層高まった。それはもはや義務のようで、月橘を突き動かす。
山と盛られた玉輪餅の中から幽山式のものを選び、口に運ぶ。
月橘からすると、幽山式の玉輪餅はかなりお粗末だった。
見た目はつるんとしていて何の模様もなく、中に入っていた餡は杏を漉したもののみ。
月橘の生まれ故郷である天華でも、祥国の中心である永安でも、月寿節で出される玉輪餅というのは見た目にも凝っていて、具材は多ければ多いほど縁起が良いというのが常識。
それが、模様もなく具材が一種類だけというのはあり得ないものだった。
天華の庶民が食べる玉輪餅だってもっと色々な具が入っているというのに。
思わず嘲笑した月橘。璃美もそれに乗っかってくれた。
世間知らずの己に恥を知り、うつむき、泣いてしまえばいいのだわと思った。
しかし事態は月橘の思った通りにはいかなかった。
春柳は全く臆せずに珠海の玉輪餅を手に取ると、大変美味しそうに味わって食しーーあまつさえ、頭を下げて見せた。「参りました」と一言添えて。
天華式玉輪餅についても同様の姿勢を見せた。
あっさりと己の負けを認めたのだ。気持ちいいほどの潔さっぷりに、月橘はどう反応すればいいかわからなかった。
その後の陛下の行動はーー思い出したくもない。
春柳を褒める言葉に含まれた甘さ、表情の柔らかさ。月橘には一度だって向けられたことのないものだった。
月橘に対する陛下はいつだって優しく丁寧で、そしてーーどことなく他人行儀だ。夜を共に過ごし、肌を重ねたところで、常に一定の距離を保たれていたのはわかりきっていた。
親しき人物たちが集まる中で発表された妃名。食妃、と言った時の陛下の顔と声は、忘れたくても忘れられないものだろう。
「ーーどうして、どうしてあの女ばかり……!」
自然、月橘の顔は嫉妬で歪んでいた。伸びた爪が手のひらに食い込み、自慢の肌を傷つけるのもおかまいなしだった。
どうして私は選ばれないの。こんなに可愛い顔立ちで、身なりにだっていつも気を遣って、陛下の渡りの時にはこの上なく着飾って夕餉だってたくさん色んなものを用意して歓迎して迎えているのに。
どうして陛下は私にはあの女みたいな顔を向けてくれないの。
こんなの、不公平だわ。
春柳に対する憎しみでどうにかなりそうだった月橘の肌を、つぅ、としなやかで美しい指が捉える。顎に指をかけられたかと思えば、視線を上向きにされた。そこにいたのは、妖艶に微笑む璃美だった。
「まあまあ、落ち着いて。可愛い顔が台無しよ」
「璃美様……」
「月橘様は、あの女に復讐したいのね」
復讐。
そうだ。
陛下の寵愛を受けているあの女に、復讐したいのだ。
「ええ」
瞳に苛烈な色を宿し、素直に肯定する月橘に璃美はますます笑みを深める。
「月橘様は自分に正直な方ね。あたくし、そういうところが好きよ。……なら、こういうのはどうかしら」
璃美の顔が近づいてきて、そっと耳に唇を寄せられた。
誰にも聞かれないよう、扇子を広げて耳打ちされた内容に、月橘も思わず唇を弧に描く。
「確かに……それならあの女を陥れられるわ」




