満妃(11)
欠けていた月が徐々に膨らみ、いよいよ満月になる。
その日、祥国のあちらこちらでは朝から玉輪餅が作られていた。
子供が、母親が、あるいは店の主人が、思い思いに玉輪餅を作る。
共通しているのは家族で食べるために作っているということだろう。
夜に家族で揃って玉輪餅を食べ、月を愛でる。そんなおだやかな日のために、今日という一日をつつがなく過ごし、夜を待つ。
祥国の中心である昇陽でも例外ではなく、店だけではなく露天に布をかけて屋台を設え玉輪餅を売り出す商売人が出てくるほどだった。
市井で売られているのは小麦を練って作った皮に胡麻餡を練り込んだもので、宮中で食べられる十種玉輪餅とは異なる。が、これはこれで美味しいし、何よりも舌に馴染むので、昇陽に住む人々は胡麻玉輪餅こそが都の味と言って憚らなかった。古くから昇陽に住む「老昇陽」と呼ばれる人々にこそ強くこの傾向がある。
そして宮中の厨房では、厨師たちが忙しなく働き、次々と玉輪餅を作り上げていた。
山のように盛られた玉輪餅が次々に玉桂亭近くの四阿へと運ばれる。
玉桂亭は皇宮内で一際高い場所に設けられた露台だった。
露台といっても雨露を防ぐための屋根はある。四方に壁は存在せず、外の様子が一望できた。
昇陽に存在する皇宮は途方もなく広い。
皇宮の正殿から玉桂亭に着くまでには細い小道を通る必要があり、しかも道はなかなかの急勾配である。
元々存在していた丘を利用して作られた露台で、故に昇陽内のどこよりも高い場所として、天と地とを一望できるようになっていた。
玉桂亭では女官と宦官、官吏によって着々と礼節の準備が進められていた。
そんな折、一人の厨師が玉桂亭脇の四阿に足を踏み入れる。
頭に布を巻いた厨師は、大量の玉輪餅が載った重そうな器を平気な顔で運んでいる。
「幽山式の玉輪餅をお持ちしました」
「ああ、どうも。幽山のものは……あの長卓の上に置いておいてくれ」
「はい」
大勢が立ち働く四阿には、既に各厨房より集った玉輪餅が所狭しと置かれていた。
歳若い厨師はわぁ、と感嘆の息を漏らす。
「圧巻の光景ですね」
「何せ今年の月寿節は例年とは一味違うからな。各厨師たちも、自分ところの玉輪餅の良さを伝えるためにいつも以上に気合を入れて作っている」
例年、月寿節は宮廷菓子である十種玉輪餅のみが供されていた。
しかし今年は十種玉輪餅に使う材料が酷暑のせいで必要量収穫できず、このままでは月寿節に影響が出ると危惧されていた。
これを解決したのは、一人の厨師の発案である。
十種玉輪餅だけでなく、他の地域の玉輪餅も出せるか。
月寿節まで既にひと月を切っている最中にもたらされた案は、普段であれば一蹴されるような荒唐無稽な代物だ。
宮中行事は伝統がものを言う。
ぽっと出の案が採用されることはなく、そもそも陛下が「例年通り」と言ったのであれば、何がなんでも例年通りに用意を整えなければならない。それが臣下の務めである。
しかし一介の厨師といえど、案を出したのは満妃に使える筆頭厨師の穀安。
荒唐無稽だと内心で嘲っていた他の厨師たちだが、「とにかくできるかできないかだけ教えてくれ」と懇願され、各々厨房にある材料を確認した。
幸い月寿節が近いということで、どこの厨房も玉輪餅の材料の蓄えはある。
十種玉輪餅ほど複雑で多様な材料を必要とするものはなかったので、「可能だ」という答えがどこの厨房からも返ってきた。
「可能だが、実際にやるはずがない」
そう胸中で呟きながら。
ところが。
翌日、礼部の官吏に呼び出された厨師たちは驚いた。月寿節の準備は本当に滞りがないかと詰問され、十種玉輪餅の材料が不足している旨を白状し、代替案を出したらあっさりと通ってしまった。
こうなればもう、やるしかない。
尚食局の威信にかけて、何がなんでも成功させなければ。
食材の仕入れ担当の材入監も、厨師たちの集う尚膳監も、器の選定をする餐具監も、その他下働きの下男下女に至るまで全員が一致団結してことに当たった。
尚食局は皇宮で働く人の中でも少々変わっていて、特に静帝陛下の妃付きの者は輿入れの際に妃が連れてきた随従者が多い。よって各地域への思い入れも強く、宮中行事の月寿節で故郷の玉輪餅がふるまわれるとなれば自然と力もはいるというものだ。
やはり、生まれ故郷の味というのは格別なもの。これを機に良さを知ってもらいたいと、作る手には気合が込められる。
よって四阿に持ち込まれた玉輪餅は、どれもこれもが非常に出来の良い一級品ばかりだった。
幽山の玉輪餅を持ち込んだ厨師はこれらの玉輪餅をしげしげと眺め、感嘆の息を漏らす。
「こんなにたくさんの種類の玉輪餅を見るのは、初めてです」
「みんなそうだろうよ。俺だって、玉輪餅と言やぁ宮中で出される十種玉輪餅か昇陽で食べる胡麻玉輪餅くらいしか知らなかった。祥国にはいろんな玉輪餅があるんだなぁ、って驚いたさ」
厨師の宦官は気の良い笑みを浮かべながらそう答え、持ち込まれた幽山式玉輪餅を眺める。
「これはまた変わった玉輪餅だな。皮が半透明で中の餡が透けて見えてら」
「月に見立てて作っているのです。杏餡がたっぷりと入っていて、それはそれは美味しいんですよ」
「そりゃ、いい。これを食べる皇族の方々が羨ましい」
軽口を叩く厨師に一礼し、その厨師は下がっていく。
それを見送った宦官の厨師は、首を傾げた。
「……幽山のお妃様の宮には厨師がいないという話だったが、はて……」
厨師はこんもり山盛りに盛られた器を不審な目で見た。
もしや、毒殺を企んだどこぞの手のものかもしれない。処分した方がよいだろうか。
厨師がどうしたものかと玉輪餅を睨んでいると、「どうした?」と声をかけられた。
「穀安老師」
「何だか難しい顔をしていたが」
「実は、幽山式玉輪餅が届いたのですが、幽山のお妃様には専属の厨師がいないと聞いていたので何者なのかが気になり……」
穀安はあぁ、と頷いた。
「どんな厨師だったかね?」
「やたらに綺麗な顔をしていました。特に、柳の若葉のような緑色の目が特徴的で……肌も真っ白で染みひとつなかったし、なんだか高貴な顔立ちというか」
「なら、問題ない。その者の素性はわしが請け負う」
「顔見知りですか?」
「そのようなものじゃ」
穀安は自信あり気に頷いた。汐蘭付きの筆頭厨師である穀安がそう言うのであればなんの問題もないだろう。厨師は「わかりました」とだけ答えた。
玉桂亭近くの四阿から後宮へと戻る道すがら物陰に隠れた春柳は、頭に巻いた布を取り払い、身に纏っていた厨師の服を手早くまとめていつもの妃としての衣を身につけた。
各宮の厨師が続々と月寿節の準備をしている中、春柳はこれに混ざるために必死だった。
今年は伝統の宮廷菓子である十種玉輪餅に加え、各地域の玉輪餅も供される。ならば春柳も幽山式の玉輪餅を持っていかないわけにはいかない。
春柳の宮では春柳が厨師をやっているので、当然のように自分で作り、厨師のふりをしてこっそりと後宮を抜け出し、四阿へ行ったという次第だった。
何食わぬ顔で後宮に戻った春柳は、壁に背を預けてそっと胸に手を当てる。
ときめきを押さえられず、顔がニヤけるのが止められない。
「あんなにたくさんの玉輪餅が並ぶなんて、夢のような光景だったわ……!」
目を閉じればくっきりと瞼に浮かんでくる、色とりどりの器に盛られた玉輪餅たち。
こんがりと狐色に焼けた皮に形を押したもの、白い皮に朱で模様を書いたもの、魚介の形を模したものなど見た目からして様々なものがあった。
事前に見ておいてよかった、と春柳は思う。
でなければきっと、月寿節が始まって玉輪餅が運び込まれた瞬間、春柳の顔面は瓦解していただろう。ばあやと汐蘭の二段仕込みで礼儀作法を叩き込まれたとはいえ、この怒涛の玉輪餅責めに耐えられる気はまるでしなかった。天女の化けの皮が剥がれるところが易々と想像できる。
見た目には耐えられる。
あとは、味わったときに耐えられるかどうかだ。
これはもう、実際に試してみなければわからない。かなり難しいが、不可能と断じれば汐蘭から冷めた目でみられた挙句、月寿節が終わった後に厳しく叱責されるだろうから耐えるしかない。
(我慢よ、春柳。表情筋をなるべく動かさないようにするのよ)
春柳は今から己に言い聞かせる。
そうこうしていると、隠れていた宮の扉が開かれ、女官の一人の声がした。
「見つけました、春柳様。何故このような所に隠れているのです……!」
振り向くと、女官の額には青筋が浮いていた。
「もう月寿節に向けて準備をしないと間に合いません。遅刻したとなれば大目玉ですよ」
春柳付きの女官たちは若い。春柳がせっせと甜食をばらまいているので、概ね春柳に対して好意的で、春柳が変な行動を取っても「そういうお妃様なのだわ」と考えて目を瞑ってくれる。
が、さすがに月寿節を目前にして行方をくらましたとなれば許してはもらえないようだった。
春柳はしおらしい表情を浮かべ、上目遣いに訴える。
「ごめんなさい。初めて宮中儀式に参加するものだから、緊張してしまって……ついつい怖気付いてしまったの。わたくし、駄目な妃ね」
天女の美貌と小動物のような愛くるしい態度を前に、女官たちは思わず赤面した。態度を軟化させてしまいそうな自分を叱咤し、毅然とした面持ちで言う。
「お気持ちはわかりますが、隠れてもどうにもなりません」
女官の一人が言えば、隣の女官も頷いた。
「そうですよ。春柳様ほど美しいお妃様はいらっしゃいません。堂々としていればいいのです」
「さあさあ、衣装を改め、御髪を結い、お化粧を施して差し上げます」
「春柳様のお美しさを最大限引き出して差し上げますからね」
女官たちに促され、春柳は部屋を出た。
どうにかごまかせたわね、と内心で舌を出しながら。




