幽山の姫(5)
幽山を統べる一族に生まれた黎 春柳は、幼少のみぎりより天性の美貌で人を虜にし、生まれつきの類い稀なる好奇心で人を辟易とさせてきた。
上等な衣を着て外へ飛び出し、躊躇うことなく地面に膝をつき、絹のように滑らかな長い髪を土まみれにし、手を泥で汚すことを厭わない。どころか、嬉々として草をむしり出す。
「この草、見て! 初めて見る植物だわ。どの辞書にも図鑑にも載っていない……一体どんな味で、どんな効能があるのかしら? あぁ、調べてみたい!」
「姫様、おやめください!」
「もがもが……んっ。青臭さの中にかすかにまじる清涼な味……それに、後味には桃に似た甘さがある。乾燥させてみたら、この爽やかさが増すかもしれないわ」
「姫様! 草むらに這いつくばらないでくださいとばあやが何度申し上げたと思っているのですか!」
周囲がどんなに諌めても、春柳の奇行は止まらない。
草、葉、木の根、木の皮、花、木の実、実の皮などは良い方で、得体のしれない茸、イモリ、カエル、果ては蜘蛛までもを口にしようとしたところで、方々から泣きながら「おやめ下さい」と嘆願され、さすがに思い止まった。
春柳の好奇心は海より深く幽山のそそり立つ山よりも高い。
素材そのものを味わうのを止めた春柳が次に目を留めたのは、料理だった。
料理はいい。素材の良さを引き立て、かつ昇華させてくれる。
幽山の民は料理を好む。
春柳は日がな一日厨房に篭り、料理に没頭するようになった。
料理とは、すなわち体を作る根本。人間の根源を構築する重要な役どころ。
ただ上手に作れば良いと言うわけではなく、一人一人の体質、その日の体調に見合った料理を作るべきである。
十四歳の誕生日を迎える頃には、既に幽山で右に出るものなしというほどまで料理の腕を高めた。
素材に精通し料理の腕を至高の領域まで極めた春柳の愛読書は、「神農本草経」と「祥国漫遊喫茶典」。
前者は幽山のみならず祥国全域の植物、動物、鉱物の薬効について書かれた本で、後者は祥国の方々を旅した著者が行く先々で食べた料理についてしたためた漫遊記だ。どちらも全四巻、総頁数五千にも及ぶ超大作である。
険しい峰々に囲まれている幽山は、容易に外界と接することはできない。
だから春柳はこの二冊を何度も何度も読み返し、そうして空想にふけるのだ。
「あぁ……わたくしも幽山を出て、もっともっと色々な食材や料理に触れてみたい……!」と。
しかし春柳は幽山を統べる一族の姫。安易と外の世界に出られる身分ではない。
春柳は叶わぬ夢に手を伸ばし、その手をそうっと下ろす日々を過ごしていた。
……そんな折だった。皇帝との縁談の話が耳に飛び込んできたのは。
「わたくしが、静帝様の妃に……!?」
「あぁ。朝廷から内々に話がやってきた」
父はなぜか、苦渋に満ちた顔で春柳に縁談話を打ち明けた。
「国交が隔絶して久しい幽山に、何故今更縁談話など……と思ったのだが、どうやら今代皇帝は食事に乗り気ではないお方らしい。痩せ細った体をどうにかするべく、幽山秘伝の料理にて体質改善を計りたい……というのが、朝廷のご意向らしくてだな。静帝陛下は御年二十四歳。年齢的にも今回の役目を考えても、お前しかおらぬのだが……」
父はジトリとした目つきで春柳を見やる。
「見目と料理の腕はともかく、目にしたものをなんでも口にし、料理のためなら手段を選ばないお前に大人しく後宮勤めができるのやら……」
「まぁぁ……! 何をおっしゃいますの、父上。わたくしを見くびらないでくださいませ。これでも外面を取り繕うすべなら、身につけていますのよ」
「嘘をつけ」
ケッ、と言葉を吐き出す父に、春柳は居住まいを正した。
顔には天女と称される微笑みを乗っけ、たおやかな仕草で右手をそっと頬に当てる。そして聞くものをうっとりさせると評判の声で父に朗々と告げた。
「静帝陛下におかれましては、ご機嫌麗しく。陛下のお役に立てる機会を、わたくし、はしたなくも、今か今かと待ち望んでおりました。此度の後宮入り、大変嬉しく思っておりまする。この命が潰える時まで陛下にお仕えする所存にございます」
「なるほど。ばあやの血の滲む教育のおかげで、確かに外面は完璧だ。誰もお前が、料理狂いの変人だとは思うまい」
春柳は父の毒舌をにこにこしながら聞き流した。
これは、外に飛び出すまたとない機会。
閉ざされた幽山という土地から飛び出し、己の目で、舌で、新たなる食材と料理を味わい、そしてこの腕で新しい献立を作り出すまたとない好機!
春柳は縁談に全く乗り気でなさそうな父ににじりより、手をとって、前のめりになって説得をはじめた。
「わたくし、参ります! ぜひともそのお話、お受け下さいませ!!」
「朝廷直々の依頼だ。どうせ断ることなんて出来はしないんだが……」
「わたくし、お受けいたします!」
こうして春柳は、己の好奇心を満たすため、今代皇帝との縁談を一も二もなく引き受けたのだった。