満妃(8)
数日後、穀安たち筆頭厨師は礼部の者に呼び立てられた。
膝礼する穀安たちに向かって投げかけられたのは、月寿節に出す予定の十種玉輪餅について。
本当に例年通り用意できるのかという問いかけに対し、穀安たちは最初「可能です」と答えたのだが、礼部の官吏の詰問はなかなかにしつこい。
挙句、「正直に申さねば百叩き」とまで脅され穀安たちは泡を食った。伏したまま厨師たちと視線を交わし、皇帝付きの厨師がわずかに頷く。崖から飛び降りるような気持ちで、正直なところを述べた。
「実は、材入監からの報告によりますと、十種玉輪餅に使う材料が不足いておりまして……人数分作れないかもしれないと……」
「なるほど」
礼部の官吏が鷹揚に言い、「代替案は何かあるのか」と問う。
これに対し昇陽以外の他地域で食べられている玉輪餅を作る旨を伝えれば、「相わかった。検討するので試作品を作り、器とともに明日持ってくるように」とあっさりと言われた。
あまりにもすんなり話が通り、穀安たちは尚食局に戻る道すがら顔を見合わせる。
「随分早く話が進んだ」
「こんなうまい話があるのか」
不思議に思うが、ともあれ窮地は脱した。
穀安だけは胸中で「春柳様が上手く陛下に訴えてくださったに違いない」と思い、こっそりと感謝する。
しかし安堵するにはまだまだ早かった。
言われた通り玉輪餅を作り、明日礼部の官吏がたにお持ちしなければならない。
散開し、各自の厨房に行き、一日の業務をこなし、明日に向けて玉輪餅を準備する。しようとしたところで、またもや厨房の扉が開いてまたもや春柳がやって来た。穀安は平伏する。
「いかがでしたか?」
「本日材料が足りない旨を伝えました。明日、礼部の官吏がたに他地域の玉輪餅を振る舞う予定にございます」
「ああ、じゃあ、うまく行ったのね」
春柳の言葉に「はい」と頷いた。
「春柳様の心遣いに感謝いたします」
「やあね、感謝されるほどのことはしていないわ。それに、まだまだ本番はこれからよ。明日のいつ頃にお持ちする予定なのかしら」
「辰時にございます」
「わかったわ。じゃあ、わたくしもその時間に幽山式の玉輪餅を持っていくわね」
穀安はぎょっとした。
「お妃様にお持ちいただくわけにはいきませぬ」
「けど、わたくしの宮にはわたくししか厨師がいないのよ。持っていくわ」
わくわくした声がして、なんて変わり者の妃なのだと穀安は内心で思った。生粋の料理好きなのだろう。未知のものへの好奇心が旺盛すぎる。
「ですが、万一素性が発覚した場合、我ら免職されてしまいます」
憮然としたため息が聞こえる。
「わかったわ。なら、幽山の玉輪餅は老師に託すことにする」
「そうしていただけますと大変にありがたく」
恐縮する穀安。
「明日の早朝に持ってくるから」
「はい」
こうして穀安は、明日の朝に春柳から幽山式の玉輪餅を受け取る約束を交わした。
明けて翌日。
最近では日の出がめっきり遅くなり、薄暗い時間帯が続く中、穀安しかいない厨房に春柳が訪ねてきた。
「こちらを、礼部の官吏の方々に……」
「ありがたいことでございます」
「何をしているのじゃ」
穀安が春柳の手から小箱を受け取った瞬間、厨房の入り口で非常に冷ややかな声がした。よく知った声があまりにも至近距離からかけられたこと、明らかに怒りを含んでいることに恐怖し、驚き、思わず箱を取り落としそうになる。
春柳が振り向いた。
「……汐蘭様……」
暗がりから一歩、厨房内に足を踏み入れた満妃は、穀安が未だかつて見たことがないほどに怒っている。声が小刻みに震えている。
「どうやらそちは、全く反省しておらぬようじゃのう。この妾をどこまで愚弄すれば気がすむのじゃ」
「誤解です。そんなつもりではありません」
「ならばこの状況は何じゃ。妾付きの厨師とこそこそ会い、賄賂を渡す始末。大人しくなったかと思えばこんな無様な真似をして……! 穀安、お前は罷免じゃ! 二度と妾に顔を見せるな。皇宮、いや昇陽から放り出してくれようぞ!」
「お待ちくださいませ!」
怒り狂う虎よりも恐ろしい満妃を果敢にも止めたのは春柳だ。
「誤解です。わたくしがこうして穀安にお会いしていたのには深いわけがあるのです」
「どのような理由があろうと、許されることではないわ!」
「月寿節に関わることでございます!」
春柳が声を張り上げると、怒りに任せて振り回していた満妃の腕がぴたりと止まる。春柳が口早に説明をした。
「月寿節で振る舞われる十種玉輪餅の材料が足りず、尚食局の方々が尽力して他の手立てを模索している最中なのです。代わりの案として、十種玉輪餅だけでなく他地域の玉輪餅も出せないかと検討している次第でして。わたくし付きの筆頭厨師はおりませぬゆえ、こうして幽山式の玉輪餅を持参し、穀安に渡したのでございます」
満妃は目に見えて戸惑っていた。
上げた腕を下ろし、肩で荒い息をしながらもどうにか落ち着きを取り戻そうとしている。
「それは……礼部の方々も承知していることなのか」
「はい。昨日、お会いしてご説明申し上げました。本日は各地域の玉輪餅を実際に持参し、味の方をご確認していただく次第でございます」
「……そう」
見る見るうちに満妃の勢いが削がれ、膨らんでいた満妃の体が萎んだ。
「なれば、妾が口を挟むことはあるまい。あらぬ誤解を招く故、こそこそと二人で会うのは慎むが良い。穀安に用があるならば妾に申し伝えよ」
くるりと背を向ける。
「……月寿節で失態を犯し、礼部の方々に泥を塗ることは妾が許さぬ。必ずや月寿節を成功に導くこと。……これを肝に銘じよ」
「はは!」
どうにか許しを得た穀安はその場を失礼し、春柳から手渡された小箱を持って足早に礼部の官吏が待つ部屋へと急いだ。
*
春柳は憮然とした面持ちの汐蘭に向かって礼の姿勢を取る。
「汐蘭様の寛大な御心に感謝いたします」
「随分と仕草も声音も様になったようじゃないの」
「全ては汐蘭様のおかげにございます」
「その通り。しかしそちの努力の賜物でもある」
汐蘭は椅子に腰掛け、泰然とした態度を取る。
「あの……汐蘭様は礼部にお知り合いでもいらっしゃるのでしょうか」
「なぜそう思う」
「先ほど、礼部の方々に泥を塗ることは許さない、と仰ったので」
汐蘭はすぐには答えず、女官が持って来た茶を飲み、点心を食べて息を吐いた。胡麻をまぶした団子を揚げたもののようで、早朝から食べるには重そうだったが、何も問題ないように口に運んでいる。
「……礼部には崇悠様の実の兄、偉鵬様がいらっしゃる」
初耳だった。そもそも崇悠に兄がいるという事実すら今初めて聞いた。
「そうだったのですか」
「月寿節が失敗したとなれば、礼部尚書の偉鵬様にも迷惑が被り、ひいては皇族の威光に翳りがさす。そのような事態は避けねばならぬ」
確かにそれならば納得がいく。いくのだが、春柳はやや違和感を感じていた。
本当にそれだけの理由なのだろうか。
しかしそれを問いかけるのは憚られる。汐蘭は今、明らかに、この話題を打ち切りたがっているようだったから。
「そういえばそちは、宮廷料理に興味があるのだったな。このまま朝餉を食べてゆくがよい。作法を教えよう」
え、と春柳は内心で戸惑った。これまで汐蘭から、食事を共にしようと誘われたことは一度もない。
宮廷料理をぜひとも食べたいと思っていた春柳にとって、この誘いは願ってもいないものだ。たとえ修行がセットになっているとしても、受けたい。
期待に目を輝かせ、精一杯自制を聞かせながらも問いかける。
「よろしいのですか?」
「宮中行事では妃が諸侯らと食事をする機会もある。不作法を晒すわけにはゆくまい。作法の何たるかを妾が叩き込んでしんぜよう」




