満妃(6)ー2
「しぃっ」
春柳は唇に人差し指を当て、周囲を伺う。
穀安は即座にその場で叩頭礼をした。
「かような場所に再び足をお運び頂かずともお呼び立て頂ければ馳せ参じますのに……!」
「そうかしこまらないでちょうだい。呼び立てたら汐蘭様のお耳に入るし、そうしたらまた大目玉だわ」
それはそうだろう。むしろ、あれだけ叱責されたのにまだ来る春柳の肝の太さの方がどうかしている。
「本日はいかがなさいましたか」
「ええ。実は騙していたお詫びと言っては何なのだけれど、幽山式の玉輪餅をお持ちしたのよ。顔を上げてちょうだい」
おそるおそる顔を上げると、確かに春柳は小箱を手にしていた。
蓋を外してずい、と差し出された器に載っていたのは、薄橙色の淡い色合いが美しい玉輪餅だった。一口大の小さいもので、表面がつるりとしていて、まるで満月のようだった。皮は薄く白く、中の餡が透けて見えるほどの儚い色合いで、穀安が見知った玉輪餅とまるで違う。
お忍びで妃がやって来ているという異常自体も一瞬忘れ、思わず小箱の中身を食い入るように見つめた。
「……こ……これが玉輪餅でございますか?」
「ええ、そうよ。皮は餅米で作っていて、中の餡は杏を漉して作っているの。蒸して作るのが一番の特徴かしら。良かったら食べてみて。そして感想を聞かせてちょうだい。ねっ」
「と言われましても……」
気後れする穀安に春柳が迫る。
「いいじゃないの。穀安老師は本当に尊敬できる料理の先生だから、わたくしの作ったものに対する意見が欲しいの。だから気兼ねしないで食べてちょうだい」
「老師などとは恐れ多い」
「わたくしにとっては先生だわ」
むしろ断ったら失礼に値する状況に追い込まれ、穀安は生きた心地がしなかった。
「では、失礼して、ひとつ頂きます」
「ええ、どうぞ」
穀安は恐る恐る春柳が作ったという幽山式の玉輪餅を手に取り、恐縮しながら口にした。
そして驚いた。
薄い外皮は見た目の儚さとは裏腹にもっちりとして弾力がある。
噛み切って餡に到達すると、白花豆の豆豆しい味と杏の甘酸っぱさ、そして程よく上品に効かせた砂糖の甘味とが口の中に広がった。
よく漉して作られた餡は舌に滑らかで、大変質が高い。
総じて控えめな甘さに仕上がっていたが、むしろ控えめだからこそ、二個三個と続けて食べたくなる。
穀安は唸り声を上げた。
「どうかしら?」
天女のごとき美しさを持つ妃は穀安の顔色を伺っていた。
ごくんと飲み干した穀安は、再び頭を下げた。
「初めてお目にかかる玉輪餅でございましたが、大変美味しゅうございます」
「良かった……!」
穀安の意見も聞きたいとする姿勢はとても嬉しいが、恐れ多いことにはかわりない。見つかったら確実に穀安が罰される。最悪免職になる可能性もある。そろそろ出て行って貰えないだろうかと思っていた穀安に、春柳は追撃を仕掛けて来た。
「月寿節で出される玉輪餅もとても楽しみだわ」
月寿節に出す玉輪餅。忘れていた重大問題を思い出し、穀安は思わず胃を押さえた。
「あら、顔色が悪いようだけれど、どうかしたの?」
「い、いえ……なんでも……」
「何でもないようには見えないけれど」
脂汗を流す穀安を訝しみ、春柳がかがみ込んできた。穀安は土を固めて作った床に膝をついたままずりずり後退する。
「ひぃっ。ご、後生ですからそれ以上お近づきにならないでくださいませ。あらぬ誤解を生んでしまいます」
「でも、老師のそんな様子を見ては心配で下がれないわ。何か悩みがあるようなら聞くけれど」
「お妃様にお話しするようなことでは……」
「では見習い厨師に話すと思ってくださいませ」
春柳は一歩も引かなかった。繊細な見た目とは裏腹に、肝が太い。それは見習いと称して厨房にいた時にも感じていた。あのまま厨師として厨房にいたら、早い段階で筆頭厨師にまで上り詰めるだろう素質を穀安は春柳から感じ取っていたのだ。
「さあさあ。老師の悩みは弟子の悩みでもあります。どうぞわたくしにお話しくださいませ。何かお役に立てることがあるやもしれませんし」
「…………」
「見知ったことは誰にも漏らさないと約束しますから」
どうあっても穀安の悩みを聞き出すまで折れそうにない。
穀安は何かうまい言い訳はないかと迷いに迷い、しかし何も妙案が思い付かなかった。
「本当に誰にも言わないとお約束して頂けますでしょうか」
「ええ、言わないわ」
「特に陛下のお耳には入れて頂きたくないのですが」
「大丈夫。絶対に言わないから」
頭上から聞こえる春柳の声は力強い。わずか六日とはいえ、確かに春柳は穀安の弟子だった。それもとびきり出来の良い優秀な。
穀安は弟子の言い分を信じることにした。生唾を飲み込み、意を決して今朝方の話を口にする。
「じ、実は……月寿節でお出しする予定の十種玉輪餅の材料が足りないやもしれず……」
穀安は今朝方の話をざっくりと春柳に伝えた。
ちらりと見上げると、賢い姫は穀安の拙い話から内容を理解し、頷いてくれる。
「なるほど、そんなことがあったのね。祭祀でお出しするものの材料が足りないとなれば、確かに生きた心地がしないでしょう」
「はい……まだ作れないと決まったわけではないのですが。どうにかならないかと手を尽くしている次第にございます」
「ふぅん……」
厨房の中はすでに闇が濃い。春柳はその闇を見るとはなしに見て、何かを考えている様子だった。
「月寿節では必ず十種玉輪餅を出すしきたりなの?」
「はい。そのように決まっております」
「絶対に? 建国以来一度もそのしきたりが破られたことはない?」
穀安は言葉を詰まらせた。
「いえ、一度もということはないかもしれません。時代によって考え方は変わりますし……ですが、少なくとも先代陛下と今代陛下の御代では、十種玉輪餅がお出しされています」
「つまり、先先代より以前には、他の玉輪餅が出されていた可能性がある?」
「ええ」
「ところで話は変わるけれど、幽山式の玉輪餅があるのだから、他の五地域にも独自の玉輪餅があると思いません?」
「ええ……その可能性は十分にあるかと」
「もしも可能なら、老師の方で他地域の玉輪餅についてと、それが大量に作れるのかを各宮の厨師に確認してもらえないかしら」
穀安は春柳の顔を思わず仰ぎ見た。いつの間にか腰を落としていたらしい春柳の顔が思っていたより近くにある。萌黄色の瞳は正気に漲っていた。
「それは、どういう意味で……」
「言葉通りよ。十種玉輪餅が材料不足で出せないなら、他の玉輪餅を作ればいいのよ」
穀安は泡を食った。発想があまりにも突飛すぎる。
「いえ、しかしそれはさすがに、伝統を破ると言いますか、陛下をはじめとした方々がお許しにならないかと」
「そのあたりはわたくしが説得してみせるから大丈夫よ」
春柳は大きく頷く。
「とにかく老師は、他地域の玉輪餅が作れるかどうかを確認してちょうだい」
翌日、穀安は春柳に言われた通り、他の筆頭厨師たちに月寿節で他地域の玉輪餅をお出しすることが可能かどうかを確かめて回った。
満妃のように昇陽出身の妃の場合ならばともかく、他地域から輿入れして来た妃の場合、筆頭厨師は輿入れ時に引き連れて来た厨師のうちの一人が任ぜられる。後宮で働くので厨師は大体女だが、中には自去してやって来る強者もいる。
集まった厨師たちに話を聞いた結果、「できる」という回答を全員からもらうことができた。
季節柄甜食に玉輪餅を作ることが多く、故に各厨房には玉輪餅を作るための材料が多く保管されているらしい。しかも作る数が百や二百ではなく五十かそこらであればいかようにもできる。
ということをまたもや厨房に忍び込んできた春柳にこっそりと伝えたところ、春柳は頷いた。
「あとは陛下を説得するだけね」
「ですが、そのう……本当に可能なのでしょうか」
穀安には未だ春柳を信じきれずにいた。
月寿節で出す玉輪餅の種類を変えるなど、まるで雲をつかむような話だ。
しかも春柳は各関係部署をすっ飛ばして、いきなり皇帝に直訴しようとしている。あまりにも無謀すぎる作戦に穀安は不安を感じずにはいられない。
「大丈夫だと思うわ。わたくしこう見えて、外面はいいから」
「春柳様は身も心も美しく、大変優れておいでです」
「まあ、ありがとう」
穀安の心からの賛辞に春柳はたおやかな微笑みを返す。穀安のような身分卑しい者にさえこうして気さくに話しかけてくれるのだ。春柳はまさに、天界から舞い降りた天女のごとき妃である。
「とにかく、陛下の説得はまかせてちょうだい。うまくいったら老師に真っ先に報告するから」
妃にこうまで言われて、穀安が断ることなどできようか。
いずれにせよ月寿節まではあまり時間がない。
穀安は頭を深々と下げる。
「全ては春柳様の良きようにしてくだされば」
「ええ。悪いようにはしないわ」
鈴を転がすような心地よい声が耳に届く。
「師の窮地を救うのは弟子の役目。わたくしがどうにかしてみせます」
儚い美貌を持つ妃は、外見の繊細さとは裏腹に力強くそう断言をした。




