満妃(2)
「はぁ……」
昇陽にある後宮の一角で、憂いを帯びたため息が落とされる。
声の主はふっくらとした白い手を卓の上に伸ばし、置いてあった玉輪餅を取った。
背筋を伸ばして小さく玉輪餅を食む所作は美しい。
額に花鈿を描き、柘榴色の鮮やかな襦裙を身に纏っている二十歳ほどの姫は、永安が誇る豪族出身にして皇帝陛下いちの妃、満妃汐蘭。
汐蘭は切なげな顔をして、ひたすらに玉輪餅を食べていた。
皿の中が空になると女官を呼び寄せ、また新たな甜食を持って来させる。
それが三度ほど続き、とうとう汐蘭は立ち上がった。
部屋を出て、回廊へ。ぞろ付き従う女官たちには目もくれず、汐蘭は憂いを帯びた顔で回廊を歩く。どこへ向かうのかは考えていない。
ただ、部屋でじっとしていられなくなった。
回廊の片隅で立ち止まり空を見上げる。空は高く、澄んだ色合いだった。
「……もうすぐ、月寿節ね」
雲が少なく、霧が薄く、うだるような暑さも抜ける時分に、永安では月を愛でる月寿節が開催される。
皇族と妃とが一堂に会する催しに、汐蘭は憂鬱さを感じざるを得ない。
「…………」
視線を落として欄干に添えた己の手を見つめる。まっしろでふっくらとした手は汐蘭の自慢であり誇りだ。ふくぶくしい体も、顔も、出自も、後宮での立場も、自分を取り巻く全てに文句はない。
(……なのに、心はこんなにも晴れない……)
過ごしやすい季節がやってくるというのに、汐蘭の気分はちっとも高揚しなかった。
まるでぴったりと蓋をされたかのように暗闇に放り込まれていた気分だ。ばかりか、どんどんと見えない穴の底に沈み込んでいくかのように、さらに落ちてゆく。
整えられた美しい庭も、今は汐蘭の心を安らげる役割を果たしてはくれない。
ふと、塞ぎ込む汐蘭の耳に、どこからか楽しげな声が聞こえてきた。
弾むような若い女の声、そして妙に高いが女性のそれとは違う太さを持つ声。
(この声は、厨師の穀安?)
汐蘭の宮にいる筆頭厨師の穀安とは面識が深い。
何せ昇陽に住むものは食べることが大好きで、汐蘭もご多分に漏れない。
自慢の体型を保つためにはたくさん食べることが肝要で、しかも美味しく食べたいと思うものだから、汐蘭は筆頭厨師とはよく顔を合わせていた。
とはいえ、もっぱら汐蘭が部屋へと呼びつけるので、実際に厨房に足を運んだことはない。汐蘭と会う時の穀安は当然だが畏まっている。
あのように楽しそうな穀安の声を聞くのは初めてだった。
(一体、何をしているのか。厨房ではそんなにも楽しいことが起こっているのかしら)
日の高さからして、夕餉を作るにはまだ早い。
今は甜食を作っているのだと思うが、それにしても。
その声が妙に楽しそうで、塞ぎ込んでいる汐蘭からするととても羨ましい。
興味を引かれた汐蘭は、普段なら絶対に近寄らない厨房の方角へと向かって足を進める。女官たちは粛々と進む汐蘭の後ろに付き従った。
厨房は宮の中でもやや離れたところに存在している。火事を恐れてあえて離れに作ってあるのだ。
厨房に近づくにつれ、風に乗って聞こえてきた楽しげな声が大きくなってゆく。
開け放たれた窓からは小豆を煮込む香ばしい香りが漂っていた。
汐蘭に与えられている後宮の一角。入る前に回廊で立ち止まり、窓からチラリと中の様子を見た。
厨房では数多の厨師が立ち働いていたが、手を動かして実際に調理しているのはただの二人。筆頭厨師の穀安と、隣にはただの厨師にしては異様に整った顔をしている美人。
調理の邪魔にならないようまとめた髪は光の加減で紫がかった烏黒色。肌の色は汐蘭には劣らないものの、見事に白い乳色。
何よりも印象的なのは、萌ぐ若葉のように瑞々しい翠の瞳だろう。好奇心いっぱいに見開かれた瞳は、俎板の上にそそがれていた。
かなりの痩せぎすだが、貴族でもないいち厨師ともなればこのくらいの体型でも普通だろう。
穀安は宦官特有のやや高い男性とも女性ともつかない声を上げる。
「ーーつまり、皇宮で出されるのは十種玉輪餅! 皮が厚めで、餡は胡桃、扁桃、白胡麻、黒胡麻、蜜柑の種、甜瓜の種、南瓜の種、松の実、向日葵の種、阿利布を餡の中に練りこんだ逸品!」
「なるほど、わたくしが知っている玉輪餅と違いますけれど、種々の木の実や種がよく混じっていて、とても香ばしく良い香りがいたします」
「その通り! 永安内にはさまざまな玉輪餅が存在するが、十種玉輪餅こそが由緒正しき玉輪餅中の玉輪餅! 満妃様にお出しするのにふさわしく、また月寿節でも皇族、お妃様方にご提供しお口に入れていただくにふさわしい甜食!」
何やら妙に熱い会話が交わされている。穀安の言葉に熱が入っているのがわかり、汐蘭は覗き見をやめて堂々と入り口から厨房へと入った。
「楽しそうなことね」
「は……ま、満妃様!」
はっとした穀安は調理の手を止め、即座に平伏す。厨房にいる全員がそうだ。
だがしかし、一人だけ礼に則っていない人物がいた。
穀安の隣にいた美人は、汐蘭に対して叩頭礼ではなく立礼で応じていた。所作は優美だが、そもそもの態度がなっていない。たかが厨師ごときが立礼で済ませて良い相手ではないのだ。
汐蘭は女に冷え冷えとした視線を送る。
「その方。妾が誰か知っていてのその態度か」
「はい。もちろん。この宮の主人であらせられる、満妃汐蘭様でございますよね」
「わかっていての態度とあらば、ますます許しはせぬが」
こともあろうに女は、ちらりと顔を上げて笑みをこぼした。
「とはいえ、わたくしも位の上では同じですので」
「……は?」
汐蘭は眉を顰めた。女は笑みを浮かべたまま、改めて首を垂れ、言う。
「申し遅れました。わたくしは祥国は幽山からまいりました、静帝陛下の妃の一人。春柳と申します」
「なっ……!」
突然妃と名乗った厨師の女に、汐蘭だけでなくその場にいた全員が絶句した。
「お妃様!?」「お妃様であらせられたのか」「道理で世離れした美しさ」などの声がする。
汐蘭はうわずった声を上げた。
「きっ、妃!? 何故妃が妾の厨房におるのだ!」
「はい。実はわたくし、宮廷料理に大変興味がございまして。習うならば汐蘭様の宮が最も良いだろうと、こうして身分をやつして穀安様に弟子入りを」
「やめてくだされ、その方が満妃さまより罰せられてしまいます」
穀安が平伏したままうめいた。
汐蘭はブルブル震える拳を握りしめる。怒りが込み上げてくる。
「……き、妃ともあろう者が、身分を偽り厨師の真似事をするなど……あり得ぬ! 許さぬぞ!!」
汐蘭の体から繰り出される声量の大きさに、春柳以外の全員が叩頭したまま身を震わせた。
春柳だけが平然とした顔をしており、それがまた汐蘭の逆鱗に触れる。手にしていた扇子を振り上げ、腹の底から怒声を出した。
「静帝陛下の妃たる者、常に規則を重んじ、品行方正を旨として行動せよ! どこにどんな目があるのかわからぬのだぞ!! 妃の行いはすなわち、陛下の行い! 陛下の名を貶めるような真似をするのは、やめよ!!!!」




