皇女(2)
「い……いきなり人の私室に入ってくるなど、不敬ぞ! 一体何を考えておる!」
突然侵入してきた春柳に対し一度は動きを止めた皇女であったが、数秒の硬直ののちに体の自由を取り戻し、人差し指をつきつけて春柳を糾弾した。
「ですが、明麗様はわたくしとの約束を反故になさいましたので」
「だから、体の調子が悪いと言うておる! しかも、勝手に人の名前を呼ぶでない! 不敬ぞ!」
春柳は明麗の非難を右から左に聞き流し、にこにこした。
「お元気そうに見受けられます」
うっと明麗が言葉を詰まらせる。
皇女といえど、所詮は十歳の子供なので、ボロが出るのは早い。
「そんなに叫ぶ元気があるなら、わたくしと遊べますね?」
「……そなたと遊ぶ気はない」
明麗はぷいとそっぽを向いた。頬が膨れている。
「なぜでございましょうか」
「そのような気分ではないからだ」
「まあ。では、気分が変わればわたくしと遊んでくださいますか?」
「変われば、な。まあ、そんなことなどあり得ないが」
相変わらず明麗はふくれっ面のままだが、春柳は構わなかった。
「かしこまりました! では、わたくし、明麗様のご気分が変わるよう、全力を尽くす所存にございます」
そして春柳は、言うが早いが身を翻してその場を立ち去る。
庭に出た春柳は、目についた草花で、食せるものをぶちぶちと引き抜いた。廊下で見ている女官の顔が青ざめていようとおかまいなしである。
目ぼしい草花を引っこ抜いた春柳は、それらを束ね、再び明麗の待つ部屋の中へと舞い戻った。明麗の目が点になっているのも構わずに、草花をそっと差し出す。
「こちらの草花、どのように思いますか?」
「どうと言われても……ただの草にしか見えぬが」
「それが、違うのです。これは葛と申しまして、なんと花から根に至るまで余すとこなく食せる万能植物です。葛の根は料理に広く使われるばかりか、体を芯から温める効果があるため、冬に最適な食材です。ねっ、いかかでございましょう?」
「いかがと聞かれても……」
「面白いとは思いませんか? 明麗様もぜひ、外に出てわたくしと一緒に庭を散策いたしましょう。面白いものがたくさん採れますよ」
明麗はとても嫌そうな顔をした。
「わらわに、雑草むしりをせよと言うのか? なんたる無礼。このような侮辱は初めてだ」
「そのようなつもりでは……明麗様に、外の面白さをお伝えしようとしているだけなのです」
明麗は両手をじたばたさせ、全身で春柳を拒否した。
「いやじゃいやじゃ! 皇女たるわらわに何かを命じるなど許さぬ! 下がりおれ!」
椅子から身を投げ、床で暴れる明麗を女官たちがなだめる。
これは初手を誤ったわ、と春柳は直感したが、だからと言って諦めるしおらしさは持ち合わせていない。
「ひとまず本日は下がらせていただきます。明日、またお訪ねいたしますね」
「いやじゃ! 来るな! お主の顔など見とうない!」
暴れる明麗の言葉に構わず、春柳はたおやかな一礼をしてから下がった。
帰る道すがら、春柳は顎に指を当てて考える。
「うぅーん……やってしまったわ。明麗様はどうやら、草花に興味がないみたいね」
宮の中にいた明麗の顔は白く、手足は細かった。あまり外に出ていないのだろう。病弱という話だったので、もしかしたら長時間の外遊びは禁じられているのかもしれない。
だとしても、あれではあまりに可哀想だ。
遊びたい盛りの子に、ずっしりと重い衣装を着せ、頭には簪をふんだんに挿し、そして行動を制限する。
癇癪を起こす明麗の顔は歪んでいて、目には人を信頼していない色が浮かんでいた。元の顔立ちがせっかく可愛らしいのに、あれでは台無しだ。
春柳には一眼でわかった。明麗は抑制され続け、大人に行動を束縛されているせいであんなふうになっているのだと。
春柳は拳を握りしめた。手にしていた葛がみしみしと音を立てている。
脳裏によぎる、幼い頃の記憶。
生まれた時から可愛らしいと言われ続けていた春柳も、かつては幽山で同じような生活を送っていた。
「……わたくしたちは、お人形ではないのよ」
それはかつて、「お淑やかであれ」と散々言われ続けて来た春柳が抱いた反抗心だった。
「姫たるもの、お淑やかに。静かに控え、決して出しゃばらず、たおやかに」
違う、と心の声がしたのは何歳の頃だったか。
春柳を締め上げる呪縛の言葉を断ち切ったのは、己の内側から湧き出る無限の好奇心だ。誰の言うことも聞かなかった春柳は、上等な衣を土で汚し、水で濡らし、幽山を駆け回って食材を得た。料理を作った。いつしか春柳の破天荒を止める者はいなくなり、皆が皆諦めた。
そこで春柳は、やりたいことをやらせてもらっている代わりに、見かけだけでも姫としての体裁を取り繕おうと決めた。
そして現在の春柳が出来上がった。
「明麗様にも、ぜひ、自分の意志で自由に生きてほしいものだわ。まだあんなにも小さいのだし!」
そのためには彼女の心を開かせる必要がある。
春柳は味方であると、わかってもらう必要がある。
どうすればよいのか。とにかく通い詰めて誠意を見せるほかない。
「やってみせるわ。必ず!」
葛の根っこを握りしめ、勇ましく一人宣言する春柳を見ていたのは、打ち捨てられた宮に実る杏のみだった。
*
「ようやく帰ったか……げほっ、げほっ」
激昂した明麗が咳き込んだのを見てとった女官たちは慌てふためいた。
「今お薬をお持ちいたしますので、少々お待ちくださいませ」
「いらぬ」
「そういうわけにはまいりません」
そそくさとさっていく女官。明麗の背中をさすっていた他の女官の手を、明麗は煩わしく思って振り解いた。
「みだりに触るでない」
明麗は女官が好きではなかった。下手に出ながらもあれこれと色々な事を言い、明麗の行動を縛るから。
同様に兄の妃たちも好きではない。兄に言われたからくる彼女らは、明麗にやたら擦り寄ってくるのだが、機嫌取りなのが見え見えだ。数日冷たく接すればすぐに来なくなる。
「皇女様、お薬にございます」
「いらぬ!」
強く言った途端、また咳が出た。咽せる明麗に向かって薬の入った器が差し出された。
「杏仁は咳によう効きます。お飲みくださいませ」
「うぐっ……」
無理やり口に押し当てられたそれは、とてつもなく苦く、飲んだ途端に喉の奥に嫌な感触が張り付く。
「ウェッ」
「吐き出してはなりません」
薬は大嫌いだ。
こんなにも苦いものを毎日我慢して飲んでいるというのに、ちっとも体がよくなっている気がしない。無駄だとさえ思われるのに、医官も女官も飲め飲めとやかましい。
みんなみんな、大嫌いだ。
明麗の行動を束縛する女官も、外面だけ取り繕う妃も、苦い薬を勧めてくる医官も、体の弱い自分も、こんなふうに自分を産んだ癖に面倒も見ずさっさと他界してしまった父母も。
涙目になって咽せる明麗は、ずっしり重い衣の裾を握りしめながら、ひたすらに世を呪っていた。




