皇女(1)
永安の夏は、春柳の予想以上に暑かった。
山岳に囲まれ祥国の北に位置している幽山では、夏であっても山間に吹く風には冷気が含まれ、日が落ちればひんやりとしたものだが、ここ中央部の永安、そして都昇陽では勝手が随分と違うらしい。
日中は容赦無く日差しが降り注ぎ、夜でも蒸し蒸しとした熱気が篭っている。
こうも暑いとばててしまうのも無理はなく、このところ宮に渡る陛下の顔色が一段と悪かった。
「あの、陛下。大丈夫でございますか?」
「問題ない。そなたのおかげでいつもの夏より快適に過ごせている」
そう言う陛下の頬はこけ、唇はかさつき、夏だというのに肌が白い。匙を持つ指先も節立っていて、平気そうには見えない。
毎年、今以上に顔色が悪いということなのか。それは一大事だ。
春柳の心配が顔に出たのか、陛下が苦笑を漏らした。
「夏には弱いのだ。永安北部の寒台まで避暑に行くことも考えたが、出かけるとなると支度だけでとんでもないことになるし、そなたも未だ後宮に慣れない中移動するのは大変だろう」
「わたくしのことなど構わず、寒台に行った方がよろしいのではないでしょうか」
「じき夏も終わる。調子が良いのは本当だ。そなたの出す料理が体に合う故、食の進みが良い」
「お役に立てているならば光栄ですが……お身体にはご留意くださいませ。他にも出来ることがあれば、何なりとお申し付けください」
可能なら、他の妃の宮に赴き、厨房で陛下のための料理をしたい。春柳は未だ妃兼厨師の立場を諦めてはいなかった。
寂妃愛凛の本を出版するにあたって後宮の規則を総ざらいしたが、妃の労働は禁止されていなかった。ならば厨師になっても良いではないか。
陛下が渡りに来る日以外、春柳にやるべきことはないのだし、暇に任せて後宮中をうろついて食材を探すのも楽しいのだが、そろそろもっと踏み込んだ行動を起こしたい。
剛妃、寂妃との出会いを果たし、陵雲料理と漠草料理とを会得した春柳は、次なる獲物を求めていた。
春柳の勢いとやる気を感じたのか、匙を置いた静帝陛下は金色の美しい瞳で春柳を見た。
「ならひとつ、頼みがあるのだが」
「はい、なんなりと」
「皇女の相手をしてやってはくれぬか」
「皇女様、でございますか」
予想外の願いに目を瞬かせたが、特に断る理由はない。
しかしひとつだけ確認したい点がある。
「ということはつまり……陛下がお妃様との間にもうけたお子様ということでございますね?」
「断じて違う」
静帝陛下の声は、思ったより強めだった。
「誤解なきように言うておくが、春柳。俺は他の妃との間に、子はおらぬ。一人もおらぬ。よって妃間の序列は存在せず、皇后を誰に指名するかについても十分検討の余地がある」
「そうでございましたか」
静帝陛下は御歳二十四歳。まだまだこれからお子を期待できる年齢だが、世継ぎが一人もいないというのはあまり良い状態ではないはず。
しかし胸を張って「子はまだいない」と言う陛下に一介の妃である春柳が何か意見できるはずもない。自分がまだ夜を共にしていない状況からしても、あれこれ言える立場ではないのだ。
「皇女は俺の腹違いの妹で、名を明麗という。歳は十歳なのだが幾分体が弱く、あまり外で体を動かしたりはしていない。まあそもそも皇女という立場上、市政の者のようにわんぱくに遊ぶというのは難しいが……ともあれ、暇を持て余している状況なのだ」
「ご友人などはいらっしゃるのですか?」
「いるのはいるが、打ち解けていないようで……妃たちにも様子を見るよう頼んでいるがうまくはいっていない様子。そなたさえよければ頼まれて欲しいのだが」
金の瞳にすがるような色が宿っている。
陛下は妹である皇女のことを、本当に気にかけているのだろう。
春柳は頷いた。
「かしこまりました。わたくし、ご皇女様のお心を掴めるよう、精一杯努力する次第でございます」
「頼まれてくれるか。助かる」
「はい」
陛下の悩みは春柳の悩み。
春柳は新たなる問題を解決するべく、皇女と会うことを約束した。
「明麗は後宮の奥に住んでいる。話を通しておく故、明日にでも早速行ってもらえるだろうか」
「かしこまりました」
助かる、と再び陛下は言うと立ち上がる。
「では、今日はこれで暇しよう」
「お送りいたします」
相も変わらず、陛下は夕餉を終えると下がってしまう。
夫婦だというのに妙に健全な関係を保ち続けている二人であったが、陛下が何も言わない以上、今のままで良いのかしら……という気がしなくもなかった。朝餉はご用意してあげたいのだけれど。春柳から誘うのははしたないとばあやに言われているし、陛下の御心が整うのを待つべきなのだろう、きっと。
春柳が心の中でそう思っているのと同時に、崇悠も「早く夜を共にしたいが、焦りは禁物」と己に一万回ほど言い聞かせているのだが、互いに互いの心は読めない。
にこにこしながらもやもやした気持ちを抱えつつ、二人は、夜を別にした。
翌日、春柳は陛下に言われた通り、皇女の住まう宮に向かった。
それにしても後宮は広い。一体どうしてこんなにも庭や宮や回廊があるのだと言いたくなるくらいに広い。
現在はほとんどの宮が空いているようだったが、ばあやの話では先先代皇帝の時代はどの宮も主人がいて埋まっていたらしい。さぞ賑やかなことだっただろう。
そして人が住んでいない宮の周囲は、手入れがあまりされておらず、草木が伸び放題になっている場所もある。春柳が目を向けると、咲いている草花に見覚えがある。
(あれは露草。あっちはあけび。どくだみもある。あら、葛だわ。……まぁ、杏の木!)
杏の種は杏仁と呼ばれ、肺と腸を潤す働きがある。のみならず、甜食にもなるのだ。春柳は杏の種から作る甜食が大好物だった。
(あとで採取しないと)
春柳がうきうきとそんなことを考えながら歩いていると、奥まった一角に殊更可愛らしい造りの宮が見えて来た。
しっかりと草木が刈り込まれ、池には美味しそうな鯉がのびのびと泳いでいて、手入れがされているのがわかる。
宮の前まで行くと、「皇女様をお呼びいたします」と言われ、待たされた。
庭を眺めながら待っていたが、いくら経っても誰も来ない。
一刻が過ぎ、さすがにおかしいわね、と思い始めた頃、女官の一人が慌てて春柳の前へやって来て膝をついた。
「申し訳ございません、皇女様は本日、体調が優れず、誰ともお会いにならないと……」
「まあ」
春柳は小首を傾げた。
もしも本当に体調が悪いのであれば、朝一番に春柳に告げられるはず。
わざわざ宮まで足を運ぶ必要などなかったし、途中で体調不良の旨を告げて引き返すことだってできた。
なのに、今。
体があまり強くない方らしいので急に具合が悪くなったということも十分に考えられるが、少々引っ掛かりを覚えた春柳は、女官の真意を探ってみることにした。
「それは大変でございますね。せっかくここまで来たのですから、一言見舞いの言葉を申し上げたいのですが」
「大変申し訳ありませんが、皇女様は既におやすみになっておられます」
「では起きるまでお待ちいたしますわ」
女官が震えた。
「いえ。いつお目覚めになるかわからないですし、目覚めたとして果たして起き上がれるかどうか……」
「皇女様のお体の具合はそんなに悪いものなのですか?」
どう考えてもおかしい。
そこまで病弱なら、わざわざ静帝陛下は春柳に遊び相手になってほしいなどと頼まないはずだ。
春柳はにこにこしたまま問いかけた。
「もしやと思いますが、皇女様は、わたくしに会うのが嫌で仮病を使っていらっしゃる……とか?」
「そのようなことは、断じて!」
春柳は弾かれたように立ち上がり、部屋を出て、来た時とは逆のもっと宮の奥深くに向かう道を辿った。
「お妃様、どうか、その先には立ち入らないでくださいませ」
「では、この先に皇女様がいらっしゃるのね」
笑みを崩さず春柳はずんずんと先を進む。女官は慌てて春柳に追い縋るが、強く引きとどめるのは躊躇っているようだった。
やがて一つの部屋の前で人の気配がし、春柳は足を止める。
言い合っている声が聞こえた。
「皇女様、せめて一目なりともお会いになり、お声をかけるべきかと」
「いやじゃ。わらわは、そんな者に会いとうない」
「ですが、陛下のご厚意を無碍にするわけにはいきませぬ」
「いやといったらいやじゃ!」
ははぁ、これは予想が当たっていたわね、と春柳は一人内心で納得した。
女官が止めに入る間もないほど迅速に扉に手をかけると、一切の躊躇いなく開け放つ。
引き戸が開いた先では、十歳ほどの少女と、世話付きの年老いた女官とがいた。
少女は永安における伝統的な紋様が刺繍された、目が覚めるような黄色い地の衣装を身につけている。頭には、透かし彫りが施され、大ぶりの真珠が嵌められた簪を挿している。
押し問答を繰り広げていた二人は、突如来訪した春柳に驚き、動きを止める。石像のように春柳を見つめた。
呆然とする皇女に対し春柳は膝をつき、永安式の礼を披露した。
「お初お目にかかります。わたくし、この度陛下に輿入れいたしました妃が一人。幽山から参りました春柳と申します」




