寂妃(15)
「控えろ。祥国がひとつ、漠草の姫にして静帝陛下の妃が一人。寂妃愛凛様の御成りだぞ」
「…………!」
あまりの大物の登場に、広場中の民たちが地に平伏する。
蒼生は周囲に視線を運びつつ、なおも言葉を重ねた。
「何を隠そう、ここにおわす寂妃様こそが都を賑わす『後宮楼夢』の作者、漠民本人だ。寂妃様は昇陽で困窮する漠草の民を見かね、本作を書き上げた。得た収入で漠草民に永安の言語を教育する機関を設置する予定でな。このことは静帝陛下もご存じで、事実、書物が売れた収益は後宮へと集まってきている。お前が嘘をついているのは明白だ。漠草出身であるお前は何故、恩を仇で返すような真似をしたのだ? 場合によっては死罪を免れない」
「そ……それは……その……」
いよいよもって言い訳に窮した茗鈴は、額を地面に擦り付けたままどもった。
先ほどまで茗鈴を崇めていた周囲の人々は一転し、名を騙った偽物だと非難しはじめた。
兵部の軍がいなければおそらく大混乱に陥っていただろう。
茗鈴を捕らえて刑に処せという声が声高に周囲に木霊する中、凛とした声が響く。
「皆の者。そう責め立てますな。きっと彼女にも何か理由があるに違いない。……そうであろう?」
あろうことか、被害者であるはずの寂妃が悠々と茗鈴に近づくと、罪人に優しく声をかける。
「少々調べさせたところでは、そなた……漠草出身の身寄りのない子を集めて養っておるとか。漠草から出てきたは良いものの職にありつけず食べるのに困った親たちが手放した子や、親を亡くして路頭に迷った子を囲い、代わりに育てているとな。相違ないか?」
茗鈴は全身から冷や汗を吹き出していたし、ガタガタと震え続けていたが、それでも平伏したまましっかりと声を出す。
「……はい、相違ございません……!」
漠草出身の茗鈴は、元来貧しい立場にいた。
十年前、商人だった親に連れられ昇陽に来たはいいものの、親の仕事がうまく行かず、かといって漠草まで戻る金もなく、路頭に迷う生活。
だが幸いにもまだ幼かった茗鈴には、語学の才能があった。
道行く昇陽の人々の会話を聞き、広場で説話師が披露する話に耳を傾けているうちに自然と永安の言語を理解できるようになった
暗記した昔語を拙いながらも誦じていると、抑揚の付け方や間の開け方までもがわかるようになる。
こうして身につけた説話にて、茗鈴は日銭を稼ぎ出した。
子供の説話など聞く価値もないと初めは素通りされていたけれど、続けているうちに口ぶりは上達し、次第に人が集まるようになってくる。
一年経つ頃には時々金がもらえるようになり、三年続けたらその日の食い扶持に困らないようになった。五年経つ頃にはそこそこの腕となり、八年経ったら貯金が貯まった。飲み食いしても金が余るようになった頃、そろそろ文字を覚えようと勉強もした。
そんな折、漠草から久しぶりに皇宮に姫の輿入れがあり、おめでたい雰囲気のせいなのか昇陽に突如漠草の民の姿が多く見られるようになった。
しかし、遊牧民族である漠草と都の昇陽とでは文化も言語も全く違う。
職に就けない漠草の民がそこかしこに溢れ、親を失った子が路頭に迷うまでにさほど時間はかからなかった。
幼子が故郷から遠く離れた場所で、親もおらずたった一人でいるというのがどれほど孤独で辛いことなのか、茗鈴には痛いほどわかる。
だから茗鈴は、暮らしに少しの余裕が出てきたのもあり、そうした子供を自分の家に住まわせることにした。
住む家を与え、食べさせ、言葉を教えればきっとこの子たちも一人前に働けるようになるはず。
しかし困窮した子供は茗鈴が思っているより多く、噂を聞きつけた親たちが子供を茗鈴に押し付けに来る始末。
さすがの茗鈴もこれには困ってしまったが、さりとて放置もできない。
結局引き受けたのだが、説話師の稼ぎだけでは到底足りなくなってしまった。
そこにきて、『後宮楼夢』という物語が都で一躍流行し出した。
作者の漠民の素性は一切不明で、これほど売れているというのにどこの誰が書いたものなのかわからないらしい。
もしかしたらこれは、好機かもしれない。
漠民を名乗り、本に署名をし、説話をしたら、今までよりも金が貰えるに違いない。
一度そうした考えを思い付いたら、もはや居ても立ってもいられなくなった。
盗みを働くわけでも、誰かに危害を加えるわけでもない。子供たちを養うために、ただ少し名前を借りるだけ……。
こうして茗鈴は「漠民」を名乗るに至った。
「まさか漠民が寂妃様の御筆名であるとも知らず、大層失礼なことを致しました。命を持って償います……!」
今や茗鈴の声は涙に濡れていた。
寂妃はそんな茗鈴に、存外優しい声で語りかける。
「顔をおあげなさい」
震えながら言う通りにした茗鈴の目に映ったのは、侮蔑や不快感に歪んだ寂妃の顔ではない。
美しいご尊顔には、痛みを知り、同情に満ちた慈愛の表情が浮かんでいた。
「漠民の素性がわからぬのを良いことに名を騙ったのは許される行為ではないが、同郷の子を助けたいという優しい心根は推して測るべきもの。まして漠草の民が昇陽に上ったのは、私の輿入れが切っ掛けだという。ならばお前だけを責めるのは間違いというもの」
寂妃はここですっくと背筋を伸ばして立ち上がると、刑部の蒼生の方を向いた。
「のう、蒼生殿。この者の名騙りは許されぬ罪だが、得た収入を困窮した漠草の子供たちに使ったのであれば、志は妾と同じ。なれば、さほどの重き罪に問うのは見当違いかと存ずるが?」
「被害者である寂妃様が仰るのであれば、我ら刑部の者は御心のままに致します」
「……と言う訳じゃ」
呆けた顔で見上げている茗鈴に、寂妃はたおやかな微笑みを見せる。
蒼生の声がばしりと飛んだ。
「今後はもう二度と漠民を名乗らず、説話師としての仕事に励め。これにて此度の一件は沙汰とする」
「は……」
「どうした? 不服か?」
「め、滅相もございません!」
がばりと頭を下げた茗鈴が声を張り上げた。
「私のような卑しい者に、なんという寛大な措置を……! ありがとうございます!」
「漠草の民は等しく妾の子。優しき心根から生じた少しの罪なら許すのは当然と言えよう」
広場に、喝采が木霊した。
踵を返して悠然と華蓋に戻った寂妃と蒼生。列は再び動き出す。ゆっくりと、皇宮へ向けて。
鶏鳴広場での今回の一幕は『後宮楼夢』とともに長く語り継がれる伝説となり、人々の心に深く刻まれた。
慈悲深い寂妃のおかげで漠草にますます脚光が当たるようになり、昇陽をはじめ永安中に漠草の民が受け入れられる切っ掛けとなったのだった。




