幽山の姫(3)
「ふぅ……」
間一髪、危機から脱した崇悠は、厠から出て悠然と歩み始めた。
出すものを出したらすっきりした。
胃腸は虚弱だがメンタルは強靭だ。
初めて来た里で見ず知らずの娘に厠の所在を問いかけるという失態を犯しても、心にはなんら傷を負っていない。そんなことで傷つく繊細な心では、皇帝などという大それた役割をこなすことはできない。
「蒼生は……まあいいか。ここは一体どこであろう」
いつの間にか蒼生とはぐれたようだったが、そもそも彼は霊獣。念じればすぐに崇悠の元に来るし、姿が見えなくとも別段問題はない。
キョロキョロと周囲を見渡す。
娘が連れてきたのは、屋敷だった。
造りとしてはかなり独特で、永安のものとも違えば他のどの地域のものとも異なる。
娘の衣服同様装飾に乏しい作りであるが、かといって侘しくもない。
最低限の飾りの中には、計算され尽くされた、洗練された美しさがあった。
昇陽の飾り立てられた宮とは正反対の作りである。
(これが仙人が住まう地……いや蒼生が言うにはただの人間らしいが)
しかし先ほどの娘、幽山に住まう里娘かと思えば、連れてこられたのは存外立派な屋敷だった。
(身なりからして屋敷で働く下女の類か? 美しさだけならば妃たちにも劣っていなかったが。いやむしろ、妃たちより美しい)
「お体は大丈夫ですか?」
考え事をしながらどこへ行くともなく廊下をフラフラ歩いていたら、件の娘が声をかけてきた。
「ああ。迷惑をかけたな」
「いえ。よろしければお召し替えをいかがでしょうか」
「それはありがたい申し出だ」
何せこれから自分は、幽山の姫に会い、此度の縁談を破談にする旨を申さなければならない。
こんな木の葉まみれでぼろぼろの衣の状態では体裁が悪すぎる。
娘は整った美しい顔立ちに、あどけない笑みを浮かべた。
「着替えは角を曲がった部屋に用意してございます。どうぞ」
通された部屋には既に支度のための下女が待ち構えていて、あっという間に着替えをさせられた。
袖を通した衣裳を見て、幽山の衣裳というのは少々変わっているのだな、と思う。
先の娘も、着替えを手伝った下女にしてもそうなのだが、上等な絹を使っている割に飾り気というものに乏しい。
袖はひきそぼって細く、裾も短くすっきりとしている。
普段、長々とひきずるような衣裳ばかりを身につけているため、こうした服は動きやすいだけでなく軽いのだな、と腕を少しばかり持ち上げて見て思った。
(皇宮でもこのような服を取り入れるか……)
朝儀や各種の式典の折はともかくとして、普段から重苦しい服を着る必要はあるまい。厠にも行きにくいし。
そんなことを崇悠が考えていると、戸の外側から声がかかった。
「着替えはお済みでございましょうか?」
「ああ」
「では、失礼いたします」
先ほどから何かと世話になっている娘が、戸をすすすと開けて顔を現した。
「粗末なものではございますが、飲茶をご用意いたしました」
見れば、盆に何かしらの料理と、茶が載っている。
崇悠は顔には出さず内心でしまったな、と独りごちる。
せっかく汐蘭との食事を消化もとい放出できたというのに、ここでまた何かしらを胃に入れてしまっては元の木阿弥だ。
崇悠の正体は明かしていないものの、身なりからしてかなりの身分の者であることは既に予想されているだろう。
でなければ歓待など受けるはずがないし、むしろとっくに賊扱いで刑部のような機関に連行されていておかしくない。
そして身分の高い人間をもてなすために出される料理というのは、しっかりとした食事にせよ茶菓子にせよ、コテコテした食べ物であると相場が決まっている。
崇悠の脳裏に浮かぶ、めくるめく料理の数々。
(羊と猪の油脂で練り固めた酥蜜餅、たっぷりの餡を練り込んで揚げた胡麻団子、胡桃と蜜の煮詰め菓子、米粉を揚げて砂糖をまぶした揚げあられ……)
永安で好まれる菓子たちはおしなべて油と砂糖を使いすぎだ。
そもそも甘味が好きではない崇悠には、茶のみで結構なのに、やれあれを食べろこれを食べろもっと太れ太れ太れと周囲の者たち、主に妃たちがやかましい。
「いや、そうした類のもてなしは結構。茶だけで十分……ん?」
しかし近づいてきた盆から漂う香りに、キッパリ断ろうと思っていた崇悠の気持ちはぐらついた。
盆に載っているのは、崇悠が想像した菓子とは全く異なるものだった。
底の深い藍鉄色の陶磁器の中で揺蕩う、桜色の液体。甘い香りの中から鼻をくすぐるのは……。
「……米……か?」
「はい。幽山に昔から伝わる、豆粥という料理にございます」
「ほう。粥とな」
粥。何を隠そう崇悠は、粥が好きだ。
くつくつと煮込んだ米は鶏の出汁をたっぷりと含んでいて柔らかく、疲れた胃袋にじぃんと染み渡る。
だが粥を所望すると、たちまち崇悠の体格改善計画に邁進する妃たちに「これは病人の食べ物にございます」と咎められてしまい、なかなかありつくことができないでいた。
粥が食べたいがために仮病を装ったこともあったが、あっというまに医官たちが崇悠を取り囲み、巫女や祈祷師を呼び寄せてまじないをはじめてしまい大事に発展するものだから、この手は使えないでいた。
(しかしこの粥、俺の知っているものと違うな。なにやら甘い匂いがする)
俄然気になった崇悠は、手のひらをひらりと翻した。
「いただくとしよう」
「ええ、ぜひとも」
にこにこと微笑みをたやさぬまま、目の前の娘が手際よく卓に飲茶の準備をした。崇悠は椅子に腰を下ろした。
できたてなのだろう。
まだ湯気の昇るその粥の器を手に取ると、ほんのりとした温かさが磁器を通じて崇悠の手のひらに伝わってくる。
匙を手にして一口。
あちち、と口の中が火傷しそうな熱に一瞬狼狽したが、すぐに熱は消え失せた。
代わりに押し寄せる、未知の味わい。
水分を存分に吸った米は柔らかく、舌で潰せば口の中ではかなく消えてゆく。
香り同様ほんのりとした甘さによって味付けされている粥は、甘すぎるということはなく、むしろ物足りなささえ覚えるほど控えめな味付けだった。
妃によってはおそらく「味がしない」とさえ称しそうなほど繊細な味だ。
しかし元来濃すぎる味付けを好まない崇悠からすれば、これくらいのものが丁度良い。
「お口に合いましたか?」
「ああ。とても美味い」
掛け値なしの本音の賞賛である。
料理に対し、「とても美味い」と心から言えたのはいつぶりか。もしかしたら生まれて初めてかもしれない。
皇宮ではとかく脂っこいものばかりを食べさせられていたので、美味いと感じたことがなかったのだ。
「それはようございました。腕によりをかけた甲斐がありましたわ」
「そなたが作ったのか?」
「はい」
なるほどこの娘は下女ではなく厨師だったのか。
ならばと崇悠は疑問を口にする。
「この桜色の汁は一体なんだ? 俺がこれまで食べてきた粥は、鶏の出汁で煮込んだものだったが」
「小豆にございます。土鍋で小豆を崩れるほどに煮込んでから豆を取り除き、米を投入して炊き上げる。さらに少量の砂糖を投じて米が柔らかくなるまで待てば、豆粥のできあがり、というわけでございますわ」
「それで少し甘味のある出来となっているのか……」
さらりさらりと食べ進められる粥は、食道を通り、胃の中に優しく舞い降りていく。
さながら、崇悠の疲れ切った胃袋を優しく包み込み守ってくれる天女のようである。
天女。
そうだ。
目の前にいる娘は、きっと天女に違いあるまい。
崇悠の疲弊した胃袋を労わるため、神が幽山に住む天女と邂逅させてくれたのだ。
豆粥にいたく感動した崇悠は、厨師の娘を天女と断定するまでに至った。
それほどまでに崇悠は宮中での食事に辟易としていたのだ。
あっという間に豆粥を食べ終え、出された茶を飲む。茶もまた、いつも飲んでいるものとは異なるようだった。
蒸した茶を団子状に練った餅茶ではなく、茶杯の中に花や実、氷砂糖などが浮いていて、見るも華やかなだけでなく、胃に負担がかからない、大変優しい味である。
「初めて見る茶だな」
「八宝茶と申しまして、幽山に古来より伝わるお茶にございます。入れる食材はさまざまですが、今回は菊の花に棗、龍眼、クコの実、陳皮などにいたしました。滋養強壮、免疫向上、消化促進などの効果がございます」
そこまで聞いて崇悠ははたと顔を上げた。
「……そなた、医官であったか?」
「いいえ。ただし幽山の地は医食同源が根本にございます。食は薬、食は医。料理と医療は通ずるところが多分に存在いたします」
「なるほど……」
崇悠は感心した。
同時に、もっと話を聞きたいという気持ちになった。
珍しく女子に興味を持った。もしかしたら初めてかもしれない。
五人の妃たちー幼少のみぎりより共に育った満妃汐蘭にさえ抱いたことのないー好奇心が崇悠の中で頭をもたげ、彼女と話をしていたい、いやあわよくば昇陽の皇宮へと連れて帰れないだろうかという感情がむくむくと大きくなっていく。
医食同源を旨とする幽山の妃を迎え入れれば、あるいは。
崇悠を取り巻く、おおよそ崇悠の体質に合っていない食事攻めから解放されるかもしれない。
厨師の娘さえもが個人に見合った食事を出すというのであれば、迎え入れる予定の妃が同じ考えを持っていたとしてもおかしくないだろう。
(いや、いっそのこと、妃がこの娘であれば……)
愚かしい考えが脳裏をよぎる。
いくらなんでも、ただの厨師を妃に据えるなどすれば、それこそ幽山の姫に申し開きができない。
しかし崇悠はすでにこの娘に入れ込みつつあった。
宝玉のような瞳にきめ細やかな肌。永安では馬鹿にされる痩身でありながらも、決してみすぼらしくはない、素朴な衣装では隠し切れない身の内から溢れ出る美しさ。
鈴の音を転がすようでありながら、媚びるような甘さは一切ない、凛とした一本芯の通った意志の強さを感じさせる、耳に心地よい声。
そしてもちろん、崇悠の体質を一眼で見抜いて作り出された料理の腕。
(いや、いかん。何を考えているのだ俺は。よしんば幽山からの妃を迎える話に賛成するとして、この娘であることはありえぬのだぞ。深入りはやめなければ。……だがまあ、知的好奇心を満たす為に、もう少しだけ質問をしても罰は当たるまい)
もはや何をしにきたのか、当初の目的はほぼほぼ失念していた。
肘掛けに肘を乗せ、そこに頬を乗せると、見た者全てを魅了してやまないと噂される黄金色の瞳をスゥと細めて娘を見やる。
少々、意地悪なことを聞いてみよう。
「何故この俺にこうした粥や茶を出したのか? もしかしたら俺は、夜半であっても肉を好み酒を所望するような男かもしれぬのだぞ」
「それはございません」
娘はいっそ潔いほどきっぱりと首を横に振る。
「初めてお会いした時の、脂汗を滲ませて厠までの行き方を尋ねたご様子。身に纏っていた見事なまでのご衣装。痩身のお体は絞っているのではなく、肉が付かない体質の方のそれ……何よりもご一緒に降臨なさった、鮮やかな青い霊獣。わたくしは貴方様をこう断じました。『世に太平をもたらす春夜の如き静かで穏やかなる政治、細い玉体は繊細な螺鈿細工のようで、内に秘めるは猛虎さえも圧倒する比類なき強き精神力』……今代皇帝、静帝陛下。そして……近い将来、わたくしが嫁ぐことになるお方であると」
「…………!」
右手に持っていたままの茶杯が指の間をすり抜けて、静かに床に叩きつけられた。
飛び散る茶に構いもせず、崇悠は目の前の娘を信じられない思いで見つめた。
今しがた聞いた言葉が信じられない。
己の耳が、都合のいいように現実を捻じ曲げたのではないか。
しかし崇悠の思考とは関係なく、事実を確たるものとしなくては、と本能が命じるままに言葉を紡いだ。
「……では、そなたの正体は……そなたの名は……」
衝撃で掠れた崇悠の声とは裏腹に、目の前の娘ははい、とはっきり声を出す。
「申し遅れまして、大変申し訳ありません。わたくしは幽山を統べる一族が姫。黎 春柳と申します。静帝陛下に嫁ぐ日を待ち遠しく思っております」
神よ。
今ほど貴方に感謝した時はない。
まさか、目の前の娘が幽山の姫であったなど。
立ち上がった崇悠は、卓を回って春柳に近づくと、平伏する彼女の手をそっと取った。
「そなたに一眼会いたくて、こうして人目を偲んで会いにきた。こんな俺を許してくれるだろうか」
もはや崇悠の頭には、縁談を破棄するなどという考えは微塵も残っていなかった。