寂妃(12)
「……ということだそうよ」
「ようございましたね、愛凛様!」
愛凛の宮に遊びに来ていた春柳は、羊乳茶片手に話を聞いてにこにこと手を打った。
「けど、正体を明かさないのは残念でございますねぇ」
「良いのです。物語が多くの人に読まれているというだけで幸せ。作者の正体なんて知らない方がいいのだわ。実は陛下に言われずとも、本名で発行する気はなかったのよ」
愛凛は胸に手を当て、戸惑ったように視線を彷徨わせている。
「まさかここまでの事態になるだなんて、思ってもいなかったわ。正直今でも信じられなくて」
「全ては愛凛様の書いた物語が面白かったからにございます」
「そうかしら……」
「そうに決まっております。自信を持ってください」
愛凛は曖昧に微笑み、頷いた。
「毎日、すごい額の金銭が宮に届くの。もちろん自分で使うわけではなく、昇陽にいる漠草の民の生活向上のために使ってもらうわけなんだけど、あんまりすごいものだから私驚いてしまって」
「愛凛様の才能に対する対価なのですから、胸を張って受け取ればいいのです。自分のためでなく、民のために使うお心意気、大変高潔でございますわ」
「私、今までこんなに注目されたことなくて……どうしてこんなことになったのかしら」
この問いに、春柳は眩しい笑顔で答えた。
「決まっております。民衆の心を動かすのは、いつだって理屈ではなく感情なのですわ」
「感情……」
「ええ。面白いと思ったからこそ、わたくしも、皇宮の女官たちも、市政の民も愛凛様の物語を求めたのですわ。素晴らしい物語を生み出した愛凛様の弛まぬ努力こそ、何よりの才能にございます」
「……他にも何か書いてみようかしら」
「良いと思います!」
出会った当初に比べ、愛凛の表情は力強くなり、全身から自信が感じられた。
よかった、と思う。
愛凛が陛下に出す料理も薄味のものになり、小説は昇陽中で話題になり、漠草の民の生活は向上した。良いことずくめである。
「漠草からの羊や反物、細工小物の輸入も増え、祖国の懐も潤っているそうなの」
「大成功でございますね」
「ええ。全ては貴女のおかげ」
愛凛は一重の瞳を細めて微笑む。
「私一人では、とてもではないけれど陛下に大それたお願いは出来なかったわ。自分に自信がないから……こんなに面白いって言われるとは夢にも思わなかった。貴女が背中を押してくれたから今の結果があるの。本当に感謝しているわ」
「そんな。わたくしは愛凛様の才能に感激しただけにございます。愛凛様のお力でございますよ」
本音だった。
春柳は愛凛の書く物語に惹かれたから力を貸しただけにすぎない。
春柳には物語を書く才能はなく、美味しそうな料理描写をする才能もない。
純粋に愛凛の才能に惚れ込み、生み出された作品を愛したからこそ、是非広くいろんな人に読んでもらいたいと思ったのだ。
愛凛は瞳をうるませた。
「あなたって、見た目だけでなく心までも天女のように美しいのね」
「そのように言っていただけると、心が救われます。故郷のばあやからは『もっと大人しくしなされ』といつも怒られていました」
「まあ。でも確かに、初めてお会いした時、屋根から降ってきましたっけ」
「美味しそうな雉を追いかけていたら、つい。あの時は驚かせてしまってすみません」
顔を見合わせ、ふふっと笑い合う。
「貴女に出会えて本当に良かったわ。良かったら、これからも仲良くしてくれるかしら」
「それはもう、わたくしからもお願いしたいです」
「ありがとう」
茶を飲みながら成功を祝い語らうひと時は非常に穏やかで充足感に満ちていた。
しかし平穏は、あえなく破られる。
「失礼いたします。陛下がお会いしたいと……宮の前へと参られております。刑部の蒼生様をお連れして」
「陛下が、刑部の方と?」
昼日中に後宮に渡ってくるなど只事ではない。しかも刑部の者と一緒となれば、よほど緊急の要件があるのだろう。
「では、わたくしはお暇いたしますわね」
すぐさま去ろうとした春柳だったが、女官が押し止める。
「いえ、春柳様にもいて頂きたいとか」
不思議に思ったが、陛下がそう言うのならば従う他ない。
二人で礼の姿勢を取り、陛下を迎え入れる。
「談話中、突然押しかけてすまなかった。二人は会うのが初めてだろう、隣にいるこれは刑部の蒼生だ」
「おう。よろしくな」
春柳が袖の上からチラリと顔を上げると、気さくに手をあげる蒼生の姿が見えた。
蒼が具現化したかのような青年だった。
歳の頃は陛下よりやや上に見える。
髪の色は雨上がりの空のようにさえ渡った天青色で、同色のまつ毛に縁取られた瞳は力強い群青色。
身に纏っている衣は鮮やかな青緑色で、とてもよく似合っている。
それにしても解せないのは、刑部の人間だということ。刑部は中央官庁の中でも司法を司る部署のはず。なぜ刑部の人間を連れてわざわざ愛凛の宮を訪れたのだろうか。
退去する機会を失った春柳が内心で訝しんでいると、静帝陛下が口を開いた。
「春柳もいるとは丁度良い」
「いかがなさったのでしょうか?」
愛凛の問いかけに、静帝陛下は神妙に頷き、重々しく口を開いた。
「『後宮楼夢』の作者……つまり漠民の筆名を騙る者が昇陽で出たそうだ」
にわかにもたらされた情報に、愛凛と春柳は袖の下で思わず口を開けて顔を見合わせた。




