寂妃(8)
静帝陛下を見送った春柳は、愛凛の書いた物語を読み耽った。
後宮で起こる愛憎劇とそれに絡めた事件帖になっているようで、主人公の妃と皇帝を中心にしてさまざまな出来事が巻き起こる。
幽山にいた時の春柳はもっぱら薬草・薬効辞典や諸国を巡る飲食漫遊記を好んで読んでいたが、他の本を読まないわけではなかった。
どんな本であれ、わずかでも食材に関するうんちくや料理に関する事柄が書かれていないかと目を皿にしてどっぷりと読み込んだ。
詩、神話、古事、伝記、怪談、推理、恋愛、漫遊談。
おそらく幽山中の本を読み込んだと自負している。
春柳の料理好きはもはや筋金入りである。
そんな料理目当てで数多の本を読み漁った春柳からしても、本作は非常に出来の良いものだった。
繊細な心理描写による皇帝と妃の恋愛模様、宮中で巻き起こる事件に関する精緻な伏線の張り巡らしと見事な回収具合、宮中で位が低い妃が事件解決を切っ掛けに成り上がっていく爽快な展開、そしてもちろん、読んだだけで胃が刺激される美味しそうすぎる料理描写。
全三百頁に及ぶ大作を寝ずに一晩かけて読破した春流は、満足感でいっぱいだった。
朝日が降り注ぐ中、まるで宝物を愛おしむかのように書物を胸に抱く。
「とても素敵な物語だったわ……わたくしの料理創作意欲を刺激する、とても素敵な……この物語を、愛凛様とわたくしの間だけで止めておくなんてもったいなさすぎる」
素晴らしい才能に出会った時、人は理屈抜きで動かされるという。
今の春柳がまさにそうだった。
本作の素晴らしさを声を大にして万民に伝えたい。
こんなに面白い物語があるんだよって、教えたい。
そして感想を伝えたい。他の人の感想も聞きたい。
できれば、作中に出てくる料理を広く色々な人が食べ、漠草料理の良さを知ってほしい。
知らしめたい。羊肉料理の良さを。
教えたい。羊肉料理に隠されている無限の潜在能力を。
否。肉だけにあらず。
羊乳も美味しんだよって、伝えたい。
というか作りたい。春柳が作りたい。漠草料理を余すことなく作ってみたい。
本作を推して推して推しまくりたい。
「何かわたくしにできることはないかしら……はっ!」
その時春柳の体を駆け抜けた興奮は、生涯忘れられないものとなった。
昨日の静帝陛下の言葉が脳裏を駆け巡り、徹夜明けで若干ハイになっている脳みそがぎゅるんぎゅるんと音を立てて回転する。
「できること……あったわ!」
そして春柳は本日、愛凛の元に突撃することを決意した。
なおどんなに急いでいても食事をおろそかにしないのが春柳。
サクッと着替えた春柳は、朝餉を作ってきっちりと完食してから、急いで調べ物をし、愛凛の元へと向かったのだった。
本日、愛凛は非常にそわそわしていた。
朝一番に陛下の御渡りが告げられたので、嬉しさに舞い上がり、精一杯おめかししないとと気合を入れて衣装や簪を選び、化粧もいつも以上に華やかに仕上げるよう女官に命じた。
後宮入りした愛凛の楽しみは、執筆と陛下の御渡りだけ。
親類も友もおらず、心許せる人間がいない愛凛にとって陛下との一時だけが唯一の慰みだった。
そうこうしているうちになぜか春柳の来訪が告げられた。
「この忙しい時に、どうしたのかしら。まさかもうあの物語を読み終わったとか?」
三百頁もあるのだ。一日で読めるわけがない。もし読めたとしたら、内容をざっと追いかけただけの斜め読みだろう。
けど、美しい見た目とは裏腹に気さくな性格をしている春柳は、今のところ愛凛にとって後宮で最も親しい人物と言える。昨日は夕餉も一緒にした。
陛下の御渡りがあるとはいえ、冷静に考えれば来るのは夜。
今はまだ昼にもなっていない時間なので、春柳と少し会うくらい何の問題もない。
「通してちょうだいな」
というわけで愛凛は内心の喜びを押し隠して女官に冷静にそう告げた。
入ってきた春柳は、やたらに興奮していた。
やや大股で入ってきた春柳の胸元には昨日愛凛が渡した書物がしっかりと握られていて、頬は薔薇を通り越して柘榴色に紅潮し、萌ゆる柳の若葉のような緑の瞳は爛々と輝いている。端的に言ってちょっと怖い。
「愛凛様! わたくし、本作を拝読して深く感銘を受けました!」
から始まり、雪崩の如き勢いで出てくる作品を褒め称える言葉の数々は、書いた本人である愛凛さえも忘れているような細かい事柄にまで言及し、嬉しくもちょっと恥ずかしくなるほどだった。
延々半刻も感想を述べる春柳。
作者としてこうも褒められれば悪い気はしない。
というか嬉しい。
後宮に来てからというもの、他の妃と距離を縮めることなく、女官からは陰口を叩かれる始末。陛下は優しいが一線を引かれているのは否めない。孤独だった愛凛はひどく承認欲求に飢えていた。
そこにきて春柳からの数々の褒め言葉は、乾いた愛凛の心の隅々に染み渡り癒してくれた。
鼻の穴が膨らみそうになるのをこらえつつ、愛凛は顔面に力を込めてあまり表情が緩まないように全神経を注ぎ、指先で「之」の字を書いて理性を保ちながら春柳の洪水のような褒め言葉を聞いていた。
しかし最後の春柳の言葉は、ちょっと聞き捨てならないものだった。
「……ですので、この素晴らしい物語をぜひとも広く一般に知らしめるべく、わたくし、出版すべきだと思うのです!」
「……は?」
思わず鼻の穴の膨らみを気にするのを忘れた愛凛は、中途半端ににやけた顔のままそう問いかけた。
眼前の春柳は頬を上気させながら力強く繰り返す。
「本作を出版いたしましょう!」
ちょっと何を言ってるのか全く理解ができなかった。




