寂妃(4)
寂妃は寝台の上で上体を起こし肩掛けを羽織っていた。
まだやや青白い顔色をしているものの、気絶する前よりは幾分体調が良さそうだ。
「突然倒れるなどという失態を犯してしまい、申し訳ありません。私はこの宮の主人、祥国が北西部漠草出身の寂妃愛凛です」
「祥国は幽山の出身、春柳と申します。こちらこそ、突然宮に入り込み、愛凛様を驚かせてしまって申し訳ありませんでした。重ね重ね、無礼をお詫び申し上げます」
春柳が深々とお辞儀をしながら非礼を詫びると、なぜか愛凛は春柳から目を背けた。
「……六人目の妃が幽山から輿入れしてきたという話は耳にしておりましたが、こんなにも美しい方だとは思っておりませんでした」
ぽそりと紡がれた言葉には、若干の刺々しさが含まれていた。
「まだ後宮にきたばかりで勝手がわかっていないのも道理。私の宮に侵入したことについては目を瞑りましょう。但し二度目はありません」
こちらを見やる眼差しに敵意が含まれている。
(さてはわたくし、歓迎されていないわね?)
そうはわかってもここで引き下がる春柳ではない。愛凛にはぜひとも確認したい事柄があるのだ。
だから春柳は、鈍いふりをして、敵意に富んだ眼差しを軽くいなして話しかける。
「愛凛様。先ほどわたくし、とある書を発見いたしまして……宮中の恋愛物語のようなのですが、記載されているお料理が大変美味しそうで……」
しかし春柳が言い切る前に、愛凛の顔つきが突如変わった。
「あれを、読んだというの!?」
「ええ。風で飛ばされないように窓を閉めようとした際、目に止まってつい……」
「許可なく人の書いたものを読むなんて、なんて無礼な人! いくら妃でも許せないわ!!」
激昂した愛凛は棚に置いてあったものを引っ掴むと、春柳めがけて投げつけてきた。
「顔も見たくない! 出ていってちょうだい!!」
「寂妃様、あまり興奮するとお体に触ります」
「落ち着いてくださいませ」
女官たちが押し止めようとしても、愛凛の勢いは止まらず、むしろ激しくなる一方だった。
「出ていって!!」
どうやら愛凛の逆鱗に触れたようだった。
(確かに、書いたものを勝手に読まれたとあってはお怒りになるのも必至。けどわたくしは、それを承知で打ち明けた。ここで負けては、いけないわ!)
春柳は怯まなかった。
無礼など百も承知。
それでもどうしても、あの素晴らしい書物に書いてあった内容を愛凛から聞かなければならない。
喚き散らす愛凛に負けないよう、春柳も腹の底から声を出す。
「羊肉湯の淡々とした味わいの中に引き立つ、塩気のある羊肉の味は漠草の味を思い出す。後宮に於いて故郷を感じるものは少なく、血生臭い宮の中で心が安らぐ一時と成る。何よりも、愛する陛下と共に食事をする一時は何にも代え難い。まるで宝玉のように美しい時間を過ごせる事に、私の心は震えるほどの喜びに満ち溢れている。私だけではなく、きっと陛下も同じ考えであると信じている。何故ならば目の前に座る陛下のご尊顔は、常日頃の険しいお顔つきではなく、柔らかな笑みを浮かべているから……」
「!!」
春柳が誦じた一文を聞き、愛凛の動きが止まった。
「わたくし、愛凛様の文章に心打たれました。流れるような描写からは情景が容易に思い浮かび、登場人物たちの心境が切々と胸に迫る……素晴らしい才能です。是非とも、もっとお話を聞きたく存じます」
主に、漠草地方の料理に関しての事柄を。
春柳が真剣な眼差しで見つめれば、愛凛はやや落ち着きを取り戻したのか、春柳に投げつけようと香炉を掴んでいた手を寝台にはたりと置いた。春柳は畳み掛けた。
「勝手に読んだ事、深くお詫び申し上げます。ですけれどわたくしは、愛凛様と仲良くなりたいと思っているんです。物語のこと、愛凛さまの故郷の漠草のこと、もっと色々と教えていただけないでしょうか?」
愛凛は、いよいよ迷っているようだった。
切長の瞳を左右に彷徨わせ、どうしようかと思案している様子が見てとれる。
ふいに目をあげ女官を見たかと思えば、震える唇から「お茶の準備をして」という言葉がこぼれ出た。
「少しならば、話してあげないこともないわ」
「ありがとうございます!」
寛大な返答に春柳は心からほっとした。
「部屋を変えましょう」
愛凛は羅紗の羽織をしっかりと肩にかけたまま、寝台から立ち上がった。
愛凛の気絶中春柳が待機していた部屋に戻ると、女官が二人分の茶を持って来る。
「先ほどもいただいたのですが、初めて飲むお茶でした。何の乳が入っているのですか?」
「羊よ。漠草は羊とともに生きる民族だから」
「羊だったのですね。わたくし、羊の乳を飲んだのは初めてです。大変濃厚でまろやかで、良いお味ですね。出会えて良かったですわ」
羊の乳を褒めちぎる春柳に気を良くしたのか、愛凛の警戒心がやや解けたようだった。茶杯を手にして春柳を伺い見ながらも、愛凛も問いかけてくる。
「幽山はどんな家畜を飼っているの?」
「山羊です。足腰が丈夫で、荷運びにも使えるので」
「山羊ならば、漠草にもいるわ。確かにあれは便利な動物ね」
「はい」
春柳は湯気が昇る茶杯を手に取り改めて観察した。
茶器自体も幽山で馴染みのない銀製のもので、吉祥八紋様の細かな装飾が施されている。
なみなみと注がれた茶は、何色と称すれば良いだろう。
白と茶色が絶妙に混じり合い、互いを認め合い高めていくような色味を春柳はじっと見つめた。
(金色……ではないわね。枯木色、象牙色、赤金色……いいえ、どれも違うわ。既存の色では言い表せない……乳茶色としか言えないわ)
春柳は乳茶色という色に新たに出会った。
初めての出会いというのは、心躍らせ胸震わせる。
液体からは乳とお茶どちらの香りも絶妙に混じり合って漂っている。
「祥国漫遊喫茶典」によると、乳茶の飲み方に作法はないらしい。
香りを楽しみ、味を堪能すればそれでよいのだとか。
歴史が古く、しきたりを重んじる永安や喫茶文化が根強い天華とは全く異なる。
しかし、自由こそ春柳の愛するもの。
手にしていた茶器にわずかに鼻を近づけて香りを確かめる。それから、一口。
まず爽やかなお茶の味が来て、それからふくよかな羊乳の味わいが一気に口に広
がる。春柳が普段飲んでいる山羊の乳よりも濃く、それでいて臭みがない。
見える。
延々と果てしなく続く草原地帯にひしめく羊たちの群れが春柳の瞼の裏にくっきりと見えた。
悠久の草原で羊飼いが羊を追い、やがて地平線の向こうへと陽が落ちる。
一仕事終えた漠草の民たちは草むらに座り、乳茶を飲むのだ。
その姿は逆光により、春柳からはまるで影が動いているかのように見えるーー。
(はっ……味が、変わった……!?)
春柳の意識を戻したのは、後味にくるわずかなしょっぱさ。
塩気の効いたお茶は初めてだった。
幽山のお茶は薬膳豊富で、苦い茶も甘い茶も存在するが、世の中にはしょっぱいお茶というのもあるのか。
(世界は……広いわ……!)
小さな器の中のお茶に、広い世界を見出す。
これこそ、食の醍醐味。
春柳の生きる意味。
生きてるって、すばらしい。
「あの……大丈夫?」
春柳が乳茶を五感で堪能しながら身悶えていると、不審に思った愛凛が声をかけてきた。はっとした。
「申し訳ございません。あまりに美味しいお茶で意識が漠草の草原へと飛んでおりました」
「貴女、漠草に来たことがあるの?」
「いいえ、全ては書物で得た知識でございます」
より詳しく説明すれば妄想とも言う。愛凛はすこしがっかりしたようだった。
「そう……」
「機会があればぜひ伺いたいですわ。羊乳によってまろやかな味わいになったお茶もさることながら、羊肉料理が有名なんですよね? わたくし、恥ずかしながら幽山から出たことがないため羊肉料理は口にしたことがなく……愛凛様のお書きになった物語中にも数々の羊肉料理が登場しておりましたし、しかもどれも大変美味しそうでしたので、ついつい食べたくなってしまいましたわ。羊棒骨鍋の包子も、羊肉水餃子も、葱爆羊肉も美味しそうでしたし」
思い出すだけで涎が口の中に溢れる、めくるめく羊肉料理の数々。
すると愛凛はそわそわと視線を彷徨わせ始めた。
「本当に読んだのね」
「はい。勝手に読んでしまいまして、本当に申し訳ありません」
「もういいわよ。……それで、どう思ったの? 面白かった?」
「それはもう、面白いなんてものではありませんでした。愛凛様には才能がございます。百年に一度の逸材にございます」
「私の機嫌を取るために言っているのではなく?」
「とんでもございません。心の底からの感想にございます」
「…………!」
愛凛は今度は赤面しながらぷるぷると震え出した。
怒りではなく、照れているのだとすぐにわかる。
愛凛の心がほぐれてきているのを感じた春柳はすかさず両掌を合わせて懇願した。
「ですが、わたくしが読んだのはおそらくほんの一部……予想では最終部に相当する箇所かと存じます。初めから読みたい、と申し出るのは厚かましいお願いにございましょうか……?」
愛凛は明らかに動揺したようで、卓の上に高速で「之」の字を書き始めた。
「そうね……もしも貴女が、どうしてもというのなら……」
「どうしても! お願いいたします!」
掌を擦り合わせたまま盛大に頭を下げると、とうとう愛凛は折れた。
「今持って来るから、少し待っててちょうだい」
席を立つ愛凛の顔を、春柳は喜びに満ちた顔で見つめた。
愛凛の書いた文書は、ざっと三百頁を超えそうな大作だった。
春柳は紙の束を前にしてわくわくを隠せない。
「わぁ、こんなにたくさん……!」
「結構分厚いから、持って帰って読むといいわ」
「お借りしてしまってよろしいのですか?」
「いいわよ。私以外に目を通す人なんていないわけだし」
「では、遠慮なく。愛凛様がお心の広い方でよかったです」
春柳は愛凛の書いた書物を大切に胸に抱え込み、にこりと微笑んだ。
「作品を読みつつ、漠草料理を食べた気になって過ごしますね」
作り方がわからず、材料もない状態では、いくら愛凛とて料理を作ることはできない。
だからこそ、書物を読んで味を空想し食べた気になるのだ。
幽山にいた時の春柳はよくそうして過ごしていた。
「貴女は……漠草の料理に興味がある?」
「はい。とっても」
愛凛の「之」の字を書く速度がますます上がる。
「なら……もし、貴女さえよければ、だけれど……そのう……一緒に……夕餉はいかがかしら」
最後の方の声は消え入りそうに小さかったが、春柳は聞き逃さなかった。
「夕餉を、ご一緒してもよろしいのですか?」
「貴女さえ嫌でなければの話だけれど」
愛凛は自分で提案していながら、かなり自信がなさそうな様子だった。
春柳は身を乗り出し、愛凛の手をがしりと握る。
「是非、お願いいたします」
本日陛下の御渡りがなくて幸運だったわ、と春柳は心の中で小躍りをした。




