寂妃(3)
その日春柳は日課の後宮散歩をして過ごしていた。
剛妃瑞晶を説得し、陛下の御渡りの際に麻辣料理だけでなく鶏白湯もお出しするよう説得したのは記憶に新しい。
初めは渋っていた瑞晶だったが、鍋を二分し陰陽太極図を模した形にして二つの湯を同時にお出しする案を話したところ、最終的に納得をしてくれた。
(瑞晶様を縛っていたのは、幼少期から言い聞かせられていたしきたり。だから納得感のある案を出せば良かったのだわ)
陰陽太極図といえば祥国にとっては最も重視されている図のひとつ。
料理を図に見立てて出すというのは我ながら良い案だったと自画自賛する。
ついでに言えば、一つの鍋で二つの味が楽しめるのだから、お料理大好きお食事大好きな春柳にとっては夢のような鍋だ。ぜひ、次に瑞晶の元へ行った時には、陰陽鍋を出していただきたい。むしろ厨房に入って春柳が作りたい。
「さて今日は一体何をしましょうか」
後宮内は広く、まだまだ散策のしがいがある。
春柳が機嫌良く一人で後宮内を闊歩していると、頭上から鳥の鳴き声がした。
「あれは……雉の鳴き声!」
ばっと頭上を見上げると、案の定雉の姿が。
(雉の肉は高タンパク低カロリー低脂質。噛みごたえがあり、臭みもなく食べやすいお肉……陛下にお出しする夕餉にぴったりだわ……)
今夜は陛下の渡りの予定はないが、今捕まえて籠に閉じておけば、次の渡りの時に新鮮な雉肉を提供できるだろう。
しかし雉は、屋根の上に止まっていた。
春柳に弓矢の腕前があれば容易に射落とせるのだろうが、残念ながら不可能だ。
(なら、近づいて仕留めるまで!)
春柳はキョロキョロした。
ちょうど良い塩梅に装飾で凸凹している柱を見つけたので、そこに手足をかけて登ることにする。
おてんばなどという生やさしい表現では表せない暴挙であったが、幸い女官の姿は見えない。
当然だ。春柳は女官に賄賂を贈ったのだから。
「いつもわたくしのお世話をありがとうございます。よろしければこちらの酥蜜餅でも召し上がってお休みになって」
天女と称される微笑みをぶ厚い面の上に浮かべながらそう言えば、女官たちは喜んで従ってくれた。
今頃は、春柳が作った幽山仕込みの特製菓子を食べつつのんびり談義でもしていることだろう。
一人になるために春柳が準備したものである。用意は周到だ。
さかさかと柱を登り屋根の上に出た春柳は雉と対峙する。
突如躍り出た春柳を前に、雉は余裕たっぷりの態度を崩さない。
「捕まえられるものなら捕まえてみろ」とでも言いたげな様子は、餌をくれると勘違いして寄ってきた鯉とは比べ物にならない。
「そうやって余裕の態度でいると、痛い目に遭うわよ」
「ケーン」
雉は春柳を小馬鹿にするように鳴いた。春柳はむっとする。
「絶対、捕まえてやるんだから」
こうして春柳と雉の追いかけっこが始まった。
飛べばいつでも逃げられる雉であったが、敢えて飛ばず、春柳と絶妙な距離を取りながら屋根をさかさかと移動する。
春柳は足場の悪い屋根瓦の上を絶妙なバランスを取りながら移動する。
幽山で日々、食材探しのために険しい山を歩き回った経験が存分に生かされていた。
「待ちなさい!」
「ケーン!」
春柳と雉の追いかけっこは白熱し、屋根から屋根へと飛び移り、どんどんと距離を伸ばしていく。
もはやこれは、互いの誇りをかけた勝負だ。
絶対に負けられない戦いが、そこにはある。
しかし雉と春柳の間には、翼を持つものと持たないものという絶対的な差があり、越えられない壁が存在している。
雉が飛べる以上、いつでもこのレースを終結させ、大空に逃げるという手段が使えるのだ。
(飛ばれたら一貫の終わりだわ……!)
春柳は打って出ることにした。
懐から常時忍ばせている短刀を取り出すと、鞘から抜き放つ。
「はっ!」
「ケェェェェン!」
投擲した短刀は、雉の右の翼に直撃した。
狙いは首元だったのでやや外れた形になるが、当たったのであればそれでいい。
今が好機と春柳は雉と距離を詰め、一気に飛びついた。
「はっ!」
春柳の両手が雉の細い首にかかる。雉は「グギャエエエ」と苦しげな声をあげ、体を捻って春柳の手から逃れようとじたばたする。
「暴れないで……あぁっ!」
羽根を撒き散らしながら羽ばたく雉にひきずられ、春柳は屋根をずるっと踏み外した。
落ちても尚、雉を手放そうとしないのは、ひとえに執念のなせる技だ。
落下する春柳と雉。
どさっと音がして地面に叩きつけられたが、下が柔らかい草だったおかげで怪我をせずに済んだ。
少しひやっとしたけれど、とにかく雉を捕まえられたのだから万々歳だ。
そう思っていたら、目の前の宮の窓で人の気配がした。
誰かしらと目を上げると、涼やかな美しさを持つ人物が視界に飛び込んでくる。
シュッとした目元、低めの鼻、薄い唇の冷涼な印象を与える顔立ちで、凛とした佇まいがよく似合っている。
身に纏っている衣からして、高位の女性。おそらく妃だろう。
「あ……お邪魔してしまいまして、申し訳ありません。雉を追いかけていたら迷い込んでしまったようで……」
とりあえず愛想笑いを浮かべながら春柳がそう言えば、不審者を見る目つきで見られてしまった。
雉が、バサバサしているのがいけない。
けどここで手放したら、今夜の夕餉の食材がなくなってしまう。
不屈の意志で持って春柳は雉を握り締め続ける。
「貴女は一体誰ですか? なぜ雉を追いかけていたのです?」
鋭い声で詰問されても臆してはならないのだ。こういう時は堂々とするべし。
春柳は雉を手にしたまますっくと立ち上がり、永安式の礼を披露した。
相手がどちらの妃かはわからないが、最上級の礼を取るべきと考えた。
やかましく鳴く雉に負けないように腹に力を入れて声を出す。
「申し遅れました。わたくし、この度後宮に輿入れいたしました、祥国は幽山の出身、春柳と申します。以後お見知り置きくださいませ」
「…………!」
目の前の妃ははっと息を飲み、そしてなぜか血の気がみるみると引いていき、唇の色が真っ青になると、ふらりと仰向けに倒れてしまった。
さすがの春柳のこの展開には驚きだ。
「大丈夫でございますか? 誰か、誰かある!」
春柳は宮の向こうで突然倒れた妃に驚き、大声を出して人を呼んだ。
*
女官が慌ただしくやってきて、倒れた妃の面倒を見始める。
どうやらここは祥国が北西部漠草出身の寂妃愛凛の宮であるらしい。
春柳は成り行きで宮の中へ通されると、寝台へ運ばれていった愛凛を見送り、先ほどまで愛凛がいた部屋で待機していた。
なお雉は愛凛付きの女官が用意してくれた竹籠の中に閉じ込めてある。格子の隙間から恨みがましそうな顔つきで春柳を見ているのだが、知ったことではない。
この世は食うか食われるか。余裕を見せて春柳を小馬鹿にし、捕まった雉が悪いのだ。
「ふふっ。煮て食べるか焼いて食べるか、はたまた漬け込むか。楽しみね」
「ケ、ケーン……」
「そんなに怯えなくても、絶対に美味しくしてあげるわよ」
雉を片目に、これからどう調理してやろうか考えにふける春柳だったが、やることがないのも事実だ。このままお暇しようかしら、それとも宮に不法侵入したお詫びも兼ねて、目覚めるまで待っていたほうがいいかしら……と思案する。
「……あら、文?」
室内で考えに耽っていると、ふと衝立が置かれた奥の部屋に書が溢れかえっていることに気がついた。
「窓を閉めないと風で飛んでいってしまうわ」
悪気なく部屋に入り、窓を閉める。
チラリと見えた書に書かれていた文字が気になり、思わず春柳はかがみ込んだ。
「羊肉……」
確かにそこには、羊肉と書かれていた。
羊肉。気になる。
羊肉は漠草の特産品であり、春柳は食べたことがない。
幽山の環境だと羊は育たないのだ。
本で何度も読んだ羊肉という存在。それがこの書に書かれているというのなら。
(一体何が書かれているのか読みたい。少しだけなら……羊肉に関する部分だけ……)
春柳は震える手で書の一枚を手に取り、文字を追いかけた。
「羊棒骨鍋は陛下が最も好む料理。骨つきの羊肉は骨から肉がほろりとほぐれるほど柔らかく、醤油を基にした味は濃く煮付けてある。後味にピリリとくる辛さがたまらない。一口、口にすると、陛下も私も箸が止まらなくなる味わいだ。羊棒骨鍋をほぐして詰めた包子も絶品で、二人並んで食べるひとときは心が安らぐ……!」
ひとたび読み始めたら、止まらなくなってしまった。
めくるめく漠草の料理の数々が、その繊細な筆致も相まって、圧倒的な現実感を伴った描写で春柳に襲いかかってくる。
美味しそう。
よだれが止まらなくなる。
春柳の愛読書「祥国漫遊喫茶典」に負けずとも劣らない筆力。
話としては宮廷活劇もののようなので出てくる料理の数は少ないのだが、要所要所で出てくるだけで十分なほど大変美味しそうな描写になっていた。
「まさか寂妃様がお書きになった物語なのかしら」
だとしたら大変な才能だ。大変な才能に出会ってしまった。
春柳の頭の中は羊肉料理でいっぱいになっていた。
醤油の味付けでピリ辛な羊棒骨鍋、つるんとした喉越しが心地よい羊肉水餃子、細切りの葱や豆腐が入った体に優しい羊肉湯……。
実際に食べてみたい。できれば作り方から教わりたい。
「これはもう、寂妃様に直接お会いして、お伺いしなければ!」
ちょうど「寂妃様がお目覚めになりました」と女官から声がかかったので、春柳はうきうきしながら寝所までついていくことにした。




