寂妃(2)
祥国は北西部漠草出身の寂妃愛凛は、いつでも哀しげな顔をしているとひそかに噂されていた。
遊牧民族特有の日焼けした肌、ヒョロリと長い手足。一重瞼の細い瞳はいつも切なげで、薄い唇は常に下を向いていて笑顔が少ない。
枯れ草色の襦裙は装飾が乏しく、愛凛のやせぎすな体をさらに哀れに引き立たせる。
「寂妃」という愛称は、己の地味さや哀愁漂う容姿への揶揄が暗に含まれている、と愛凛自身も見抜いていて、密かに心を痛めていた。
「それでも、私にできることなど何もないわ……」
今日も今日とてあてがわれている己の宮で、自身を取り巻く境遇に悲嘆のため息を吐きながら過ごすだけ。
他の妃たちとの距離も縮まらず、女官はあくまで仕事として愛凛に接してくる。
親しく話せる友人の一人さえもいない寂しい毎日だ。
静帝陛下は愛凛にとても良くしてくれるので、それだけを心の支えとして後宮生活を送っていた。
「あぁ……けれど、陛下には他に五人も妃がいるのよね」
静帝陛下には、祥国各地より集められた妃が愛凛を含めて六人もいる。
「永安の満妃汐蘭様は陛下と幼馴染で妃としての品格が群を抜いているし、陵雲の剛妃瑞晶様は凛々しい佇まいがとても素敵だわ。天華の花妃月橘様は愛くるしくていらっしゃるし、珠海の香妃璃美様は流行り物に聡く色香がある……それに比べて私は、なんの取り柄もない、ただ身分が高いだけの女」
机の上に指でひたすら「之」の字を書きながら愛凛は自分を卑下した。
漠草にいた頃から人付き合いが上手くなかった。
満妃様はさすが昇陽でも指折りの大貴族の姫というだけあって貫禄があり愛凛などが気軽に話しかけて良いような方ではないし、剛妃様は親しみを込めて話しかけてくれたが長槍を持って「兎狩りでもどうだ?」と聞かれて住む世界が違うと思った。
花妃様と香妃様は常に二人でいるほど仲が良いので寂妃が割って入ることなど到底できない。
朝廷が決めた婚姻に不満を言えるわけがなく、輿入れが決まったときから不安でたまらなかったけれど、見事予感が的中したわけだ。
「私って、駄目駄目ね……」
ふぅ、と多分に憂いを含んだため息を吐き出した。
外は夏の日差しがたっぷり降り注ぐカラッと晴れた良い天候だというのに、宮内は薄暗い。
まるで愛凛の気持ちが漏れ出して充満し、宮中がどよどよじめじめしてしまったかのようだ。
ふと、先日愛凛付きの女官たちがひそかに話していた内容を思い出してしまった。
ーー愛凛様、いっつもつまらなさそうなお顔をしていらっしゃるわよね。
ーー宮にこもりっきりで、他家のお妃様たちと友好を深めもしないで。
ーー愛凛ではなく、哀凛という名前がふさわしいのではなくて?
ーーあーあ、あたしも満妃様や花妃様付きの女官が良かったわ。
ーーわたしは香妃様がいいわ。流行り物に強くなれそうだし。
ーーわたしは断然、剛妃様ね!
「私みたいな良いところのない妃には誰も仕えたくないと思って当然ね……」
気分がどんどんと落ち込んでゆく。
「……これじゃあいけないわ。気分転換をしないと」
愛凛は棚から嫁入り道具として持ってきた書道用具一式と紙の束を取り出した。
硯に水差しから水を垂らし、墨を磨っていく。すると、心がだんだんと落ち着いていき、余計な思考が飛んでいった。
しばしそうして作業に没頭し、十分な量の墨が溜まったら、筆を手に取った。
(続きは……そう。陛下の御渡りからだったわね)
愛凛のささやかな楽しみは、書を認めることである。
女官に見張られ、しきたりに縛られ、自由に動けない後宮の中でできる唯一の楽しみ。
空想に羽を広げ、思うがままに物語を書く。
(不満の捌け口として書いている物語はとても人に見せられたものではないけれど、私一人が楽しむ分にはなんの問題もないはずだわ)
内容としては、皇宮内での愛憎渦巻く陰謀劇となる。
美貌の皇帝を巡り妃たちが策謀をめぐらせる中、とりわけ控えめな妃が事件に巻き込まれる。
冤罪をかけられた妃だったが、しかし皇帝は妃を信じ、真犯人の発見に尽力を費やす。
牢に入れられた妃を皇帝が迎えに行き、言うのだ。
「そなたの潔白を信じていた。そなた以上に愛する妃はいない」と。
そして二人は熱い抱擁を交わし、思いを確かめ合う。
新年の式典の折に皇帝は朝廷に向かってこう宣言をする。
「今、この時に宣言をする。皇后を決めた」
地味で目立たないと言われ続けていた妃が皇帝に名を呼ばれ、信じられない思いで顔を上げると、手を差し伸べる皇帝の姿が。壇上に上がった妃は、晴れて皇帝の正妻である皇后として迎え入れられるーーとそんな筋書きだ。
「はぁぁあ……日陰者と蔑まれていた妃が実は陛下にとってずっと大切な存在で、最後に二人は結ばれるのだわ。素敵!」
思いっきり自己投影した小説である。
身をくねらせて悶えながら筆を走らせる愛凛。
きりの良いところまで書き上げると、己の書いた物語を読み返し、ほぅとため息をついた。
「あぁ……静帝陛下も私を、他の妃の方々よりも愛して下さっていればいいのに……」
現実と空想をごっちゃにしてはいけないと思いつつ、甘い妄想は止まらない。
再び憂いを含んだため息を愛凛が吐き出したその時、空から「グギャエエエ」と苦しそうな鳥の鳴き声がし、愛凛の宮の開け放たれた窓から雉を握りしめた何者かが降ってきた。
「!?」
突然非現実的な光景を目の当たりにして愛凛は硬直した。
ひとまず立ち上がり、窓辺に駆け寄る。雉とともに降ってきたのは見たことのない娘だった。
身に纏っている衣は永安風でも漠草風でもない。
装飾に乏しく、しかし素材自体は上質そうだ。
長く垂らした黒髪を打ち振って上げた顔を見て、愛凛は思わず息を飲んだ。
ぱっちりとした二重瞼。長いまつ毛に縁取られた潤んだ大きな瞳は、まるで春に萌え出る柳の葉のように力強い翠色。
肌は透き通るほど白いのに病弱な感じがしないのは、薔薇色に色づいた頬のせいだろうか。
鼻の形もよく、小さな唇には桃色の紅が差されていて、瑞々しさを感じずにはいられない。
空から降ってきた様子といい、あたかも天界から舞い降りてきた天女のような、完成された美を有する娘だった。
「あ……お邪魔してしまいまして、申し訳ありません。雉を追いかけていたら迷い込んでしまったようで……」
鈴の音を転がすような耳に心地よい声でおずおずと言うその様子は、無意識に庇護欲をそそるものであった。
なぜか雉を両手で握りしめていなかったら、人見知りの愛凛とて「まあ、そうでしたか。別に良いのですよ」とにこにこしながら不法侵入を許していただろう。
儚げな天女の見た目で暴れる雉をがっしりと押さえつける、というそのギャップに、愛凛の常識が働いた。
背筋を伸ばし、妃としての威厳を精一杯保ちつつ問いかける。
「貴女は一体誰ですか? なぜ雉を追いかけていたのです?」
すると天女のごとき娘はすっくと立ち上がり、永安式の見事な礼を披露する。
雉がバサバサと羽を撒き散らしていなかったら、たいそう絵になる礼だ。満妃様顔負けかもしれない。
ひそかに愛凛が感心していると、娘が袖の下で口を開く。
「申し遅れました。わたくし、この度後宮に輿入れいたしました、祥国は幽山の出身、春柳と申します。以後お見知り置きくださいませ」
「…………!」
愛凛ははっと息を飲んだ。
この天女の如き美しい娘が、六人目の妃だというのか。
静帝陛下を巡る争いがますます熾烈になるではないか。
というより、春柳の美しさを前にしては愛凛に勝ち目などまるでない。
(あぁ、天は、かくも私に試練を与えるのね……!)
悲劇に酔いしれる愛凛に、ふらりと目眩が襲った。
「大丈夫でございますか? 誰か、誰かある!」
美しい声音が焦ったように人を呼ぶのと、首を絞められた雉が悲壮な声を絞り出すのを耳にした直後、愛凛の意識はふつりと途絶えた。




