剛妃(2)
たっぷりの唐辛子を使って赤く染まった羹の中で、種々の具材が躍っている。
ぐつぐつと煮えたぎる鍋から漂う香りを吸い込むだけで、胃袋が空腹で唸り出す。
夏の盛り、室内は熱気にゆらゆらと揺れていた。
そんな鍋を囲むのは二人の妃だ。
一人は丸衿の袍衫に身を包み、頭には幞頭を被っている男装の麗人。
もう一人は簡素な衣を身に纏いながらも隠しようのない美しさが溢れ出ている、天女の如き美姫。
家鴨を追いかけて後宮を彷徨った春柳はいつの間にか剛妃瑞晶の宮に迷い込んでいたらしい。
兎を仕留める瑞晶の軌道にまろび出た春柳であったが、幽山仕込みの身かわし術で何なく槍を避け、瑞晶が仕留めた兎に目を輝かせたところ気に入られ、春柳が陵雲の料理に興味を示したところ
「ならば共に昼餉にしようではないか」と言われ、春柳は一も二もなく乗っかった。
そして今に至る。
「陵雲自慢の熱鍋をどうぞ召し上がれ」
瑞晶に言われ、春柳は箸を手に、ごくりと唾を飲み込んだ。
鍋は、春柳が見たことのないほどに赤い。地獄の釜茹での刑もかくやというほどに真っ赤っかだ。
しかしそれでいて、この香りの良さはどうだ。
惹きつけられるほどに芳しい、数々の香辛料の香り。
「この香り、唐辛子をベースに花椒、大蒜、生姜、棗、党参、胡麻、松の実、落花生が入っていますね」
「ほう。棗や唐辛子はそのまま浮いているからわかるだろうが、他のものまで香りを嗅いだだけで羹に何が入っているか当てられるのか」
「はい。できれば具材を入れて煮込む前に、羹の味を見ても良いですか?」
「構わない」
瑞晶の許しが出たので、春柳はいそいそと羹を椀にすくい、一口味見をした。
「んん!」
香りから期待をしていた以上の味が、そこにはあった。
まず初めに、唐辛子のぴりっとした辛さ。
そして次に、花椒のふくよかな香りが鼻を抜け、同時に唐辛子とは異なる痺れるような辛さが舌の上を滑る。
続けて種々の香辛料が複合された複雑な味わいが怒濤の如く味蕾を駆け抜け、最終的には細かく刻んだ落花生のコリコリした食感とまろやかな味わいがすとんと着地をした。
真っ赤な羹は一見するとただひたすらに辛いだけのように思えるが、その実様々な香辛料によって果てしなく深くコクが広がり、まるでそびえる山々のように気高い味わいが出ている。
「なんて美味しい羹なのかしら……!」
「それはよかった。だが、具材を入れるともっと美味いぞ」
瑞晶の一声により、女官が次々に熱鍋の中に具材を投入し始めた。
まず野菜。韮や、空芯菜、冬瓜、袋茸。
それから兎肉。
そして、身を反らせた薄紫色の身と、淡雪の如く真っ白く照り輝く輪切りの食材。
「まぁ……もしかして、海老と烏賊ですか……!?」
「その通りだ」
「まぁぁ!」
瑞晶の肯定に春柳は頬を抑えて喜びの声を露わにした。
「わたくし、海鮮は見るのも食べるのも初めてです」
「幽山は陵雲と同じく、祥国の北部に位置していて海とは無縁な場所だからな。かくいう私も、皇宮に来るまで口にしたことはなかった。存外美味しかったから熱鍋に入れるよう命じたら、これが滅法合ったというわけだ」
「異文化との出会いにより、自国の料理がさらに進化したというわけですね」
「そうなる。皇宮のある昇陽は、南部より流れる恵河のおかげで流通の便がいい。内陸にいながらにして海の幸が食べられるというのは、実に贅沢な話だ。……と、そろそろ具材が煮えたか。何から食べる?」
「では、ぜひ、海老と烏賊から」
春柳の言葉を受け、女官たちが器に海老と烏賊を盛り、そこにあつあつの羹を回しかける。
受け取った春柳は、胸をどきどきさせながら、そっと海老を口にした。
「はぁぁ……!」
直後、春柳に襲いかかったのは、これまで経験したことのないものだった。
ぷりぷりとした食感は茸に似ているが、茸よりも断然弾力がある。噛みちぎると溢れる、磯の香りをふんだんに含んだ繊細な味わい。食感とは裏腹に主張の強い味ではなく、むしろ控えめな味だった。熱鍋の羹に絡み、とてつもなく良い味となっている。
「烏賊、烏賊はどうなのかしら」
俄然気になった春柳は、烏賊をはっしと掴み、口へ入れた。
「んうぅ!」
頬を抑えて悶絶した。
烏賊は海老とは全く異なるコリコリとした食感で、嚙みごたえが抜群だった。
噛み締めるほどにじんわりと広がる、烏賊特有の淡白かつ滋味溢れる味は、熱鍋の強い味をもってしても隠し切ることはできない。
これは良い。
とてつもなく良い。
山の幸では得られない食感と味だ。
ピリリとした辛味の効いた、初めて食べた陵雲の料理だけでも贅沢なのに、海の幸が交わったことで更に春柳の満足度を上げてゆく。
初めての海の幸の体験に春柳は頬を紅潮させ息を荒くした。
「海鮮とは、かくも美味しいものだったのですね!」
体裁を取り繕う余裕がなくなってきた。
「あ、ああ……まあ、陵雲の料理は海鮮が主軸じゃない。ぜひ野菜や肉も味わってくれ」
「はい、もちろん!」
春柳は次々に火鍋に投入された食材を味わっていった。
食べるごとに体が燃えるように内側から熱くなってゆき、とめどなく汗が噴き出てくる。
春柳とともに熱鍋を味わっている瑞晶も同様だった。
流れ落ちる汗を拭いつつ、二人は一心不乱に熱鍋を味わった。
「陵雲は寒さが厳しい土地だから、体を温めるために唐辛子と獲物の骨から出汁をとった羹を使ったコッテリした料理を食べるんだ。最後には麺も入れる」
「一つの鍋で盛りだくさんに食べられ、大変美味しくございますね」
「細いのに食べっぷりがいいな!」
「わたくし作るのも好きですが、同じくらい食べるのも大好きなのです」
はふはふしながら火鍋を一心不乱に食べる春柳。
こうして鍋をつつき合っていると、見えてくるものがある。
辛味の効いた鍋を囲み、陵雲の人々が暖を取る姿が。
真冬でも汗をかき、微笑み合う顔が。
暖かいと言うのは何と幸福なことだろうか。
夏の盛りの現在であっても、辛いものを食べて汗をかくという行為は不思議と心地よかった。
薬膳食材が豊富に使われているせいだろう、老廃物が汗と共にぐんぐん体外に排出されてゆくのがわかる。
あっという間に用意されていた具材が底をつき、最後に投入された麺をつるる、と上品にすすった。
太めの麺はもっちりしていて、熱鍋の羹がよく絡む。
綺麗になった器と箸を置き、春柳は両掌を合わせた。
「とても良いお味でした」
「いい食べっぷりだった。香辛料はともかく、海老や烏賊を知っていたのは驚きだ」
「愛読書に書いてありました故」
春柳はにこにこしながら、海老と烏賊に思いを馳せる。
「祥国漫遊喫茶典」にはさまざまな地域のさまざまな食材が載っているが、春柳が特に強い興味を抱いたのは海の幸だ。
険しい山々に囲まれた幽山ではどうしたって海の幸を食べることはできない。
本を何度も読み返しながら、海に生きる生物たちはどのような味と食感なのかしら……と何時間でも空想に耽ったものだった。
瑞晶はふむ、と感心したように春柳を見る。
「春柳殿は本も読むのか。勉強深くて尊敬できる。陵雲は元々狩猟民族な上、私は滅法書物には弱くて……だから寂妃殿にはひそかに馬鹿にされている。同じ北部出身故、仲良くできるかと期待していたのだが……」
「寂妃様、というのは?」
「静帝陛下の妃の一人だ。そういえば、春柳殿は後宮についてどれほど知っているか?」
春柳はゆるゆると首を横に振った。
「幽山では後宮勤めをしていたばあやから皇宮での作法などを教わったのですが、新しい情報は何もわからず……」
「それはいけないな。よし、私が教えてやろう」
瑞晶は指を一本立てた。
「まず、ここ永安出身の満妃汐蘭殿。静帝陛下とは幼少の頃より旧知の間柄らしく、どの妃よりも陛下のことを存じ上げている。皇宮のある昇陽のしきたりにも詳しく、貴族からの覚えもめでたいことから式典では満妃殿が陛下の隣に並ぶことが多い。故に妃たちも一目置いている」
ふむふむ、と春柳は頷きながら聞く。
きっと満妃様は永安の料理にさぞかし詳しいことだろう。
のみならず、皇宮で出される「宮廷料理」というものにも精通しているはずだ。
近いうちにお目通りをしなければ。
瑞晶の指が二本に増えた。
「次に、北西部漠草出身の寂妃愛凛殿。遊牧民族のご一族らしく、物静かでたおやかな姫君だ。本がお好きらしく宮には本がたくさんあるとか。同じ北部出身故、仲良くできるかと思っていたが、どうやら私と仲良くする気はないらしい」
瑞晶の顔が陰ったが、春柳の顔はむしろ明るく輝いた。
北西部といえば幽山と隣接する地だが、地形は大きく異なる。
ということは、育つ動植物も違い、料理も当然のように異なるはず。
何をどう調理して食べているのか、興味がむくむく沸いてくる。
やはり書物で読むより、実物を食してみるのが一番。隙を見つけ、寂妃様の宮に遊びに行かなくては。
「そして南東部天華出身の花妃月橘殿。花のように愛くるしい姫で、天華独自の文化である茶館のおかげで茶と甘味に精通している」
茶館。未知の文化だ。
何でも食事の合間にお茶と甘味を楽しむというものらしいが、どんなものが出るのだろう。
春柳はお茶に詳しいけれど、それは幽山内のものに限られている。
天華ではどのような茶を好むのか。
ぜひとも仲良くなって聞きださなければ、と春柳は心に固く決めた。
四本目の指が立った。
「南西部珠海出身の香妃璃美殿。珠海は貿易で栄えていると有名で、璃美殿も多分に漏れず最新のものを常に身につけている。香がお好きなようで、いつも良い香りがするんだ」
香で使う植物などには、どんなものがあるのだろう。とても気になる。
香り高い植物はきっと料理に使っても映えるだろう。
絶対にお会いしよう、とこれまた春柳は決意を固くする。
「そして最後に、私だ。静帝陛下は五つの国から有力豪族の姫をそれぞれ娶り、皇宮に住まわせている。後宮に渡る際にはひとりずつ順に宮を訪ね、余計ないさかいが起こらないように細心の注意を払っているというわけだ」
「そうでございましたか」
「というわけだから、六人目の妃となった春柳殿も、早く後宮に慣れると良いな」
「瑞晶様はいつ輿入れなさったのですか?」
「んー……三年ほど前だったかな。朝廷から父宛に打診があったらしくて。歳の丁度いい私に白羽の矢が立ったわけだ」
「それまでは陵雲にお住まいで?」
「そうだ。正直言って、今でも恋しい。……ここは狭いから十分に体を動かせないし、狩れる獲物もあらかじめ放たれている兎や雉といった小物ばかり」
瑞晶は椅子に背を預けて嘆息した。
「だがまあ、重要な役割であることは理解している。陵雲の民は強いが、永安と争って良いことなどひとつもない。私が輿入れして平和がもたらされるなら、喜んでそうするさ」
涼やかな目元につまらなさそうな色を浮かべながら、諦めたように笑う瑞晶。
春柳は卓に前のめりになり、瑞晶の手をがしっと握った。
「瑞晶様、わたくし、こう見えて武芸に心得がございます。もし瑞晶様さえよろしければ、手合わせなどいかがでしょう。それに、一緒に兎狩りや雉狩りなどが出来れば、一人よりも楽しいひとときが過ごせるかと思います」
瑞晶は形の良い目を見張った。
「こうして食事を共にしてくれるだけでなく、そんな提案をしてくれるとは思いもよらなかった。……良いのか?」
「ええ、もちろんにございます!」
春柳は美貌の顔に溢れんばかりの笑みを浮かべた。
(瑞晶様と一緒に兎や雉を仕留めるという名目で後宮に動物を増やしていけば、食材確保が容易だわ。それに、生きている獲物を仕留めて捌いた方が新鮮で美味しいし。解体処理の手も鈍らない。何よりも、夜中にコソコソしなくて済む!)
白中堂々と獲物を狩る理由を手に入れた春柳は内心で小躍りしていた。
握った手に力が込められた。瑞晶の瞳がイキイキと輝いている。
「ではさっそく、手合わせといこう!」




