剛妃(1)
春柳の目の前で、てこてこと白い鳥が歩いている。
黄色い短足を懸命に動かす度に、お尻が左右にふりふりと揺れた。
鳥は一羽ではなく、親鳥を筆頭に雛が五、六羽あとに続いていた。
春柳は愛らしい鳥を、にこにこしながらじっと見つめていた。
はたから見れば、入内したばかりの若く見目麗しい妃が、庭の家鴨を愛でているようにしか見えない。
しかし春柳は、見た目通りの大人しく殊勝な姫などでは断じてなかった。
「家鴨……」
丸々太った家鴨を見て内心で、今夜の夕餉の材料になるわ、と考えていた。
(家鴨を使った料理といえば、爊鵝鴨……ごま油で色目がつくほど焼いてから、酒、醋、水の中に入れ、合わせ香辛料と葱、味噌を加えて慢火でじっくり煮込む……)
春柳の目は調理人のそれとなり、鋭く光っている。
身の危険を感じたのか、「グェ!?」と鳴いて羽毛を毛羽立たせた家鴨は、ささささと早足でどこかへ向かっていく。
「あぁ、待って!」
正確には「夕餉の材料、待って!」である。
(あれほど立派なお肉、見逃すわけにはいかないわ。ぜひとも捕まえて、今晩の陛下の食事にお出ししなければ!)
春柳は駆け足で家鴨のあとを追いかけた。
池を迂回し草をかき分け回廊を渡り、やがて行ったことのない場所に到達する。
(ここはどこかしら。なんだか開けた場所に出たけれど)
家鴨を見失ってしまい、周囲をキョロキョロした。
短く刈り込まれた草に覆われた庭だった。こざっぱりとしている一方、庭の端には大小さまざまな木や植物が植えられている。
「後宮からは出ていないと思うのだけれど……」
ばあやから聞いた話では、後宮は高い壁に囲まれていて外界とは隔絶されているらしい。皇帝以外の男との接触を断つためにそのような造りになっているのだとか。
だからここはまだ、後宮。のはず。
「うーん……せっかくだからもう少し散策してみようかしら?」
もしかしたら、近くの庭では見つからなかった食材があるかもしれないし。
うきうきしながら散策を始めようと思ったその時。
「危ないっ!!」
鋭い声とともに、一本の槍が春柳に向かって高速で飛来した。
「!」
槍は春柳に直撃コースだった。
しかし、食材を得るために幼い頃から幽山の険しい山々に入り込み、熊や獅子などと戦ってきた春柳からすれば、避けるに容易い。
槍の軌道を読み切った春柳は、素早く身を翻す。
ヒュン、と耳元で風が唸る音がし、槍は春柳の柔肌にかすりもせずに真っ直ぐに飛んでいった。
「キュウ!」
茂みで獣の鳴き声がし、続いて槍が飛んできた方角から足音がする。
「大丈夫か?」
「はい」
と言いつつ、姿を表した人物を前に首を傾げる。
静帝陛下に負けずとも劣らない長身を丸衿の袍衫に身を包み、頭には幞頭を被っている。体つきはさほど太くはないものの、かなりしっかりしているようだ。
はっきりした目鼻立ちで、涼やかな目元と薄い唇が印象的だった。
陛下とはまた別の方向に顔立ちが整った美丈夫といえる。
(男性? 後宮は男子禁制のはず。ならば、宦官? ……いえ、違うわね)
正体不明の人物は春柳に近づいてくると、全身を検分し始める。
「まさか人がいるとは思わず……怪我など負ってないだろうか?」
「お声がけいただいたおかげで、直前で危機を察知できました」
「しかし、槍の軌道にいただろう」
「幼少期より体を動かすことには慣れているので、避けるのは容易くございます」
春柳がにこりと微笑めば、長身の美丈夫は呆気に取られた顔をした後、豪快に笑い出した。
「はっはっは! なるほど、見た目とは裏腹にたいした肝の据わりようらしい!」
よく言われる言葉だ。主に非難の意味合いを持って。
今度は春柳が質問する番だった。
「先ほど仕留めた獲物は……」
「あぁ、きちんと仕留められていたのか」
「はい。茂みの中で鳴き声がしたので、おそらく」
春柳が指差した方向に美丈夫が歩いて行き、しゃがみこむと、「おっ」と短く声を発してから腰を上げる。
美丈夫が手にしていたのは、兎だった。
「まぁぁ! なんて見事な兎でしょう!」
春柳は思わずおとなしい姫を演ずるのも忘れ、美丈夫へと近づいた。
「この肉付きの良さ、毛並みの艶……さぞかし良い餌を食べていたのでしょうね。新鮮なうちに血抜きをし、毛皮を剥いで、すぐさま処理を終わらせなければ。美味しいお肉になるに違いないわ!」
「……随分と変わった娘だな」
美丈夫のキョトンとした声にはっとした。
新鮮な獲物を前にして、ついつい素が出てしまった。
「ゴホン。……申し訳ございません。わたくし、料理が趣味なものですから、つい……」
美丈夫の涼やかな目元がすぅっと細められ、春柳を検分するような目つきになる。
「ふぅん。料理が趣味、ね。……後宮では見かけない顔だし、衣が地味なので新しい女官かと思ったが、にしては顔立ちが整いすぎている。私相手に臆さず、振る舞いも堂々としたものだ。もしや先日幽山より入内した、新しい妃か?」
春柳の正体を一発で見破るとは、やはりこの美丈夫は只者ではないようだ。
丸々太った美味しそうな兎を前にして崩れた顔を元に戻し、ばあやじこみの永安式の礼を取る。
「はい。幽山よりまいりました春柳と申します。お見知り置きくださいませ」
美丈夫は右手に獲物をぶら下げたまま納得したように膝を打った。
「なるほど、やはりか! 私は瑞晶。祥国は北東部、陵雲の出身で、貴殿と同じく静帝陛下の妃をやっている。妃としての称号は、剛妃。剛槍を操り、獲物を素早く仕留めるーーという異名からついた妃名だ。気安く瑞晶、もしくは剛妃と呼んでくれ」
そして瑞晶は春柳を前にカラッとした笑みを浮かべた。
「死んだ兎を前にして失神しなかった妃は、貴殿が初めてだ! 仲良くやってくれると嬉しい」
「はい、わたくしも、ぜひとも瑞晶様と親しくしとうございます!」
兎に視線をチラチラ送りつつ、春柳は是非もなく返答する。
(陵雲の料理を知る絶好の機会だわ!)
面に被った天女の微笑みとは裏腹に、心の中では未知の料理に対する好奇心で涎を垂らしていた。




