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幽山の姫(1)

 じっくり煮込んだ豚の紅焼肉 (ホンシャオロウ)

 炉で丸ごと焼かれた家鴨(あひる)(タレ)掛け。

 雛鳥(ひなどり)のたっぷり胡麻惣酢(ソース)掛け。

 蟹肉(かににく)鱶鰭(ふかひれ)(スープ)

 七宝餡(しっぽうあん)を包んだ春巻に、薄饅頭、水晶餃子、羊の粕漬(かすづけ)燻製、(きじ)肉のたたき、家鴨の味噌煮、揚げ饅頭。

 そしてーー幅広の麵、えび風味の麵、揚げ団子、たっぷりの肉を包んだ雲呑(わんたん)白熟餅子(はくじゅくへいし)、角煮を混ぜ込み竹で蒸した(ちまき)


 見るも見事な百七の大皿が並び、卓が重みでたわんでいるようだ。

 これら絢爛豪華な料理は、たった二人の人間のために用意されたものだった。


 すなわち、今代皇帝崇悠(すうゆう)ーー通称静帝(せいてい)と、その妃汐蘭(しおらん)ーー通称満妃(まんぴ)のために。


 贅を尽くした料理を前に崇悠は眉間の皺をぐっと寄せ、吐き出したいため息を堪えた。

 目の前では、額に花鈿(かでん)を施し、ふくふくとした体に目の覚めるような柘榴色の襦裙(じゅくん)を纏った満妃が、にこにこしながら両手をたおやかに広げてみせた。


「本日の料理はいかがですか、陛下? 陛下のために、厨師に命じ、身になりやすい献立を用意させたのですよ」


 身になりやすい。

 つまり、「脂肪に変わりやすい」「肉になりやすい」料理たちというわけだ。

 妃は何の悪気もなく、無邪気に言葉を続ける。


「陛下は眉目秀麗、所作は美しく、声は聞く者の脳に響いて甘く痺れさせ、そして統治の腕前は完璧でございます。世に『静帝』ーー世が乱れず静かで平和な政治をすることからそう呼び習わされるのも、納得でございますわ。ですので、ここは是非とも、体格の改善を図らなければなりませぬ。ここ永安では、ふくよかさが富の証。失礼ながら現在の陛下のお身体はーーふくよかとは程遠い状態にございます。ここはどうにかしなければ、居並ぶ豪士のみならず民たちにまであなどられてしまいますわ」 


 崇悠はますます顔面に力を入れ、どうにかこうにか笑顔を保ち続ける。

 箸を手に取った。


「……その通りだな、満妃」

「おわかりいただけまして、何よりですわ。何からお召し上がりになりますか? わたくしとしてはやはりこちらの紅焼肉 (ホンシャオロウ)が良いかと。お肉から召し上がりますと、体への吸収が良く、つまり太りやすいのだと厨師より伺っております」


 差し出されたのは濃厚な甘辛いタレがこれでもかとかけられた豚肉の煮物。

 こわばりそうになる笑みをどうにかこうにか維持し続けたまま、汐蘭との食事を終えた。

 


「胃が……どうにかなりそうだ……」


 私室にひっこんだ崇悠は、ふらふらしながら(ながいす)に身を横たえた。

 つい今しがた終えた食事のせいで、胸焼けがし、喉に何かが引っ掛かっている妙な感覚が拭えない。

 祥昇天席(しょうしょうてんせき)と称された、国内の山海珍味を集めて趣向を凝らした料理が運ばれてくるこの食事に、どうにも崇悠は慣れない。

 幼少期より親しんできた味であるというのに、胃袋が拒否反応を起こしているのだ。

 緗色(シャンスー)と呼ばれる淡黄色の(ころも)の襟をくつろげて、翼善冠(よくぜんかん)をむしり取って(まげ)を解いた崇悠は嘆息した。


 ぱさりと肩へ、背中へと散った長髪は漆黒。

 形の良い瞳の色は、祥国において皇色とされる、きらめく黄金色。


 皇族の中でも、黄金色の瞳の男子こそが皇帝の座を継ぐにふさわしいと信じられている祥国において、まごうことなきその資格を有していて、実際皇帝位に就いている。それが崇悠という男だった。


 そんな皇帝は今、非常に苦境に立たされている。


 胃が痛い。

 精神的重圧(ストレス)からではない。

 単純に食べたものの負荷が大きかったせいだ。

 こうなってしまっては、向こう半刻(一時間)は使い物にならないだろう。

 崇悠が己の胃袋の脆弱具合を呪っていると、部屋の扉がバァンと開いた。

 

 きらきらしい男が室内にずかずかと上がり込んでくる。

 整った顔立ちの中で一際目を引く瞳も、背中に垂らした髪も、身に纏っている衣も、全てが青い。

 しかもただの青ではなく、瞳は深い群青色、まとめた髪は晴れ上がった空のように爽やかな色合いをした天青(てんせい)と呼ばれる唯一無二の色合い。

 歳の頃にして二十代後半。崇悠よりもいくばくか歳上に見える風貌。

 見る者を惹きつける群青色の瞳を縁取るまつ毛までもが薄青く、彼が通り過ぎた後には青い風が筋を残す。

 自信に満ちた堂々たる足取りで皇帝の私室に無断侵入した男は、両手を広げ己の出で立ちをこれでもかと長椅子に座る崇悠に見せつけてきた。


 形自体は皇宮の官僚がよく着るものだ。

 頭には幞頭(ぼくとう)、衣は盤領袍(ばんりょうほう)。下に袴褶(ズボン)を履いて革帯を締め、革靴を履いている。本人の髪色とは打って変わって、全て鮮やかな群青色である。

 しかし胸元と革靴に施された刺繍は見慣れないものだったし、革帯にはこれでもかと宝玉がじゃらじゃらとついている。


「今しがた珠海(じゅかい)に行って揃えてきた最新の衣だ。どうだ? これで若く見えるか?」

「…………」


 言うに事欠いて最初に口に出した言葉がそれか。

 崇悠は絶句し、ジトリと目を細める。

 男は何を思ったのか、焦ったように両腕を振った。はずみでしゃらしゃらと装飾品が揺れて音を立てる。


「何か駄目なところがあるか? 珠海の豪族の間では秀国(しゅうこく)の紋様を刺すのが流行っているらしいぞ。ほら見ろ。秀国よりもたらされた紋様を珠海一の職人が刺したものだ。丹頂鶴(たんちょうづる)蓑亀(みのがめ)で長寿を願っているらしい。ま、オレには長寿なんて関係ないんだが、模様として気に入った。革帯も刺繍の色に合わせて、黄翡翠(おうひすい)が連なったものを選んだ」

「秀国から輸入された紋様、珠海一の刺繍師、貴重な黄翡翠を使った革帯……。なるほどなるほど。蒼生(そうせい)、お前、さては国庫を破綻させる気だな?」


 頭の中でざっとした勘定を済ませた崇悠は冷静に言う。

 蒼生と呼ばれた、青の権化のような男は、腕を下ろし至極真剣な表情を浮かべた。


「何を阿呆なことを。これしきの衣裳ごときで国庫が揺るぐわけがないだろ」

「一着二着ならばそうだがな。今月既に十三着目だ。さすがに見過ごすわけにいかないぞ」


 崇悠にとって、いや祥国にとって蒼生は唯一無二の存在で、敬うべき対象なのだが、こうも頻繁に衣服や飾りを購入されてはかなわない。


「大体、皇帝である俺よりもきらびやかな服装をするのはどうかと思うぞ」

「何言ってんだ。このオレが着飾るほど、皇帝の権威や威光は増すというもの。式典に出るオレの姿が神々しい方が、民も喜ぶってもんだろ」

「父上の時から思っていたのだが、お前、実のところかなり俗っぽいな?」

「時代遅れの古羊と言われないよう必死なんだよ」

「だからといって勝手に買い物に出かけては俺名義でツケにするのはやめてくれ。あともう一着でも買おうものなら、壺に封印するぞ」


 蒼生はこれには応じず、榻でぐったりしながら胃をさする崇悠を見てちょっと顔を顰めた。


「また胃をやられてんのか。弱すぎやしないか?」

「好きでやられているわけではない。俺とて出来ることならば、肉も脂もがつがつ食せて食べた分が身になるような体質に生まれたかった」


 本心である。

 祥国(しょうこく)の中心部であるここ永安(えいあん)では、ふくよかさこそが富の印。

 崇悠の父である先代皇帝もよく太っていたし、崇悠の周囲に居並ぶ百官たちも皆そろいもそろってふくぶくしい。

 先ほど食卓を共にした汐蘭とて、見事なまでの恰幅の良い体型をしている。

 蒼生は例外だが、彼の場合そうした人間の型に当てはめて良い存在ではないので皆触れずにいる。

 崇悠は視界の端に映る己の指先を見つめた。


 細く骨張った指には、脂肪のかけらさえもついていない。

 その指で頬を撫でれば、頬骨と尖った顎の感触が直に伝わってくる。

 喉仏の出た首は片手で締められそうなほどだ。肩も薄い。

 一応鍛えてはいるので最低限の筋肉はついているのだが、それ以上にはならない。

 そもそも体質的に、太るのが難しいのだ。


 ともあれそう訴えたところで聞き入れて貰えた試しは一度もない。

 汐蘭然り。他の妃然り。

「努力が足りないのです」と泰然と微笑みながら崇悠に大量の食事を押し付けてくる始末。

 最近の崇悠は、妃たちと食事を共にすることに嫌気が差していた。

 自虐的な笑みを浮かべる崇悠に、蒼生はきらきらしい衣裳の裾を打ち振って大袈裟な身振りをした。


「そう悲観すんな。確かにお前は痩身だが、歴代皇帝の中で随一の美貌を持っているし、身長だって高い。痩せているとはいえ痩せすぎというほどでもないから、食うに困ってガリガリに痩せている平民とは違う。オレが見てきた皇帝の中には、もっとチビのガリ助だっていたんだぞ」

「そんな者がいるものか。書にも画にも詩にも残っていない」

「それはそうさ。都合の悪い事実は消し去るのが人間というもんだろ?」


 崇悠は片眉を上げて蒼生の口ぶりを言外に非難した。蒼生は肩をすくめる。


「ところで何の用だ? まさか新しい衣裳を自慢するために来たのか?」

「それもあるけど、それだけじゃねえ。お前の耳に入れておきたい話がある」

「何だろうか」

「新たな妃を迎え入れる話が出ているそうだ」

「何!?」


 崇悠は目を見開いた。心底驚き、胃もたれを起こしていることさえ一瞬忘れて身を起こした。

 鏡を見ながら新たな衣にうっとりしている蒼生に怒鳴った。


「もう既に五人もいるのに、この上新たな妃だと!? 冗談にも程がある!」

「それが冗談じゃないらしいぞ。朝廷では内々に話が進んでいて、もう既に相手の承諾も得ているとか。……ところでこの衣、背中の刺繍が見事とは思わんか? 金糸は新たな製法で作ったばっからしいぜ」


 崇悠は衣の話を完全に無視した。

 朝廷で話が進んでいる。

 相手の承諾を得ている。

 それはもはや、決定事項ということになる。崇悠は唇を噛んだ。


「そもそも、一体どこの誰になるというのだ? 主だった家からは既に姫たちが嫁いでいる状態……今更妃にふさわしい家格の家などなかったはずだが」


 現在、皇帝である崇悠には五人の妃がいる。

 五つの地域からなる祥国の、各地域を治めている豪族の姫たちで、それぞれが莫大な権力を有している者たちだ。

 妃になるというのなら同等の家格の家になる者だと思うのだが、崇悠には該当する家が思い当たらない。


「まさか外国の姫か?」

「いや、祥国内だ」

「ならば尚更不可解だ」


 崇悠は国内図を脳内に描き出した。


 祥国は中央部にある皇帝のいる【永安(えいあん)】、

 北西部に位置する遊牧民族の地域【漠草(ばくそう)】、

 北東部に位置する山岳地帯【陵雲(りょううん)】、

 のどかな農村が広がる南西部の【天華(てんか)】、

 貿易が盛んな南東部の【珠海(じゅかい)】に分かれている。


各地域から姫を一人ずつで合計五人。


 これ以上どこかの地域から姫を嫁がせたら、均衡が崩れて政治的にもよろしくない状態になる。

 皇帝と妃との関係性は、すなわち中心部永安と各地域との関係をそのまま表している。

 情はわずかながらに存在していても愛はなく、完全なる政略結婚だ。

 いぶかる崇悠に蒼生は自身の衣の見事さにうっとりしながら告げた。


幽山(ゆうざん)から姫を輿入れさせるらしい。名前は黎 春柳(れい しゅんりゅう)とか。」

「……まさか!」


 いくら蒼生が仕入れてきた情報とはいえ、にわかには信じ難い。

 幽山は永安(えいあん)の真北に存在し、漠草(ばくそう)陵雲(りょううん)とに挟まれた険しい山々がそびえる峻峰地帯。

 山の険しさから人が容易に立ち入れるような場所ではなく、長らく幽山の一族とは交遊が断絶していた。

 崇悠は骨張っている自身の手で顎を撫で思案した。


「一説には幽山の一族は仙人であるとか。人あらざる者たちが、何故今更姫を嫁がせる気になったのか……?」

「幽山の一族は仙人じゃねえ。れっきとした人間だ」

「だとしても、理由がわからない。……いや、そもそも、もう妃は十分だ」


 公務の合間を縫って五人の妃を平等に扱うだけでも一苦労だというのに、このうえ未知の地域に住む姫を迎え入れる心の余裕は崇悠には存在しない。


「断ろう。そうしよう」

「出来んということくらいわかっているクセに」


 蒼生に嘲笑われ、崇悠はむっとした。


「朝廷に掛け合っても確かに無駄だろう。だから、本人に直接言うのだ」

「輿入れしてきた姫に『婚姻を結ぶ気はないから帰れ』というつもりなのか? それこそ紛争に発展するぞ」

「違う」


 崇悠はすっくと立ち上がり、蒼生の腕を掴む。


「お前ならば今から幽山に行き、朝までに帰るなど容易いだろう。……静帝の名において命ずる。仮初の肉体を解き、本来の姿に戻れ。……霊獣・獬豸(かいち)


 ふわりと、蒼生の足元で青い風が巻き起こる。

 風は蒼生の体を包み込み、衣をはためかせ、長い髪を巻き上げた。

 くるくると舞い上がる風が止むと、蒼生の姿はなく、かわりに額に一本の角を持つ羊のような獣が衣を纏ってそこにいた。

 獣は崇悠を見上げると、顔を顰めて一言。


「強制的に姿を戻すのはやめろと言っているだろう。せっかくの衣がだめになる」

「悪い。つい、な」 


 古来より祥国の皇帝に仕えている祥獣。

 正義と公正を司り、国に平和をもたらすと言われありがたがられている獬豸(かいち)と呼ばれる霊獣が蒼生の正体だ。

 崇悠は皇帝の衣を脱ぎ捨て簡素な衣服に身を包むとその背に何の躊躇もなく跨った。


「では、行こうではないか。此度の縁談の破談を申し込むために」

「オレを乗り物扱いできるのは、祥国広しといえどお前だけだ。胃痛はもういいのか?」

「そんなことを言っている場合ではないからな」


 開け放たれた窓から、祥獣に跨った皇帝が空を行く。

 気づいているのは夜空に瞬く星だけだった。


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これは期待。 もう既に面白い。
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