愛さなくてもいいと言った婚約者が、嫌いにならないでと縋ってくる
「フィオナ、お前との婚約を破棄する」
「そんな……困りますっ」
突然告げられた言葉に、フィオナ・ルディは心底困って眉を下げた。
王都の隅の、オープンテラスのカフェ。
家が没落した子爵令嬢のフィオナには、こんな洒落たカフェの飲み物ひとつも高価だったが婚約者のロブ・アスターは洒落者でこういった店を好んだ。
席だってロブはいつも通りから注目されやすいパラソルの下のものを好んだし、甘いものが好きなのに無理してブラックコーヒーを注文する。
フィオナの方は無料で提供される水だけで十分な気持ちだったが、そこはさすがにロブが勘定を払うのでみっともない真似はよせ、と叱られた。
そんな風に幾度か通ったカフェ。今日に限って室内の奥まった席をロブが選んだので、おかしいな、とは思っていたのだ。
まさかそれが、婚約破棄の話の為だったとは。
「ロブ様。ご存知の通り当家は成人している者は私しかおらず、あとは幼い弟妹のみです。亡くなった祖父同士のお約束とはいえ、ここでロブ様に婚約を破棄されては当家は立ち行きません」
ロブの家は、大商家だ。
かつてロブの祖父がアスター商会を立ち上げる際に、友人だったフィオナの祖父が資金援助をしコネクションを融通した。その縁と恩で、同じ年頃の男女がそれぞれの家に授かったら結婚させよう、という約束だったらしい。
ロブの父はその約束を律儀に守り、両親を事故で亡くし子爵家がみるみる没落した後もロブとフィオナの婚約を続けてくれていた。
しかし、ここにきて婚約破棄。
フィオナは顔を真っ青にしていたが、何故かロブも同じぐらい顔色が悪かった。
「ロブ様……? 大丈夫ですか? ひょっとして、体調がお悪いのでは……」
婚約破棄のことは気になるが、ロブの尋常ではない様子の方が心配になる。
しかしロブはぶるぶると首を素早く横に振り、勢いよく立ち上がった。
「とにかく、婚約は破棄だ! 言ったからな。今日から俺とお前は赤の他人だ! 二度と俺に関わるな!」
「ロブ様!?」
言うだけ言うと、ロブはまるで逃げるようにしてカフェを出て行ってしまった。
勘定を払わずに。
「どうしよう……婚約破棄も勿論だけど、こんなお勘定……」
持ち合わせはギリギリ足りるものの、その分のお金は本来ならば店仕舞い直前の市場に駆け込んで安くなっている食材を購入する為の資金だった。
なるべく安い食材を出来るだけ多く購入して、家で腹を空かせている弟妹に食事を作ってあげたかったのだ。
貧乏生活もそろそろ板についてきたフィオナだが、さすがにロブにツケておいてくれ、などとカフェに頼むという発想はない。基本的にはお嬢様育ちなのだ。
仕方なく二人分の勘定を払い、明日からは内職の仕事を倍に増やしてもらおうと決意してフィオナものろのろと席を立つ。
その時。
「フィオナ?」
甘く落ち着いた声で名を呼ばれて、フィオナは驚く。
慌てて振り向くと、背の高い美丈夫がニッコリと穏やかに微笑んでいた。
「やっぱりフィオナだ! 久しぶりだね」
「……まぁ。ガエル? 本当に?」
ガエルはギャラガー侯爵家の嫡男、でフィオナの二つ年下の幼馴染。二年前に騎士となって国境へ赴任して行った筈だ。
「うん。一人? そこに座ってもいい? 久しぶりに会ったんだから、ハイさよなら、なんて寂しいよ」
テーブルにはカップが二客並んでいたが、向かいの席が空いているのを見て甘えるようにガエルが言う。
フィオナよりも頭二つ分背が高く、騎士らしくがっしりとした体躯をしているのに甘い顔立ちに登る笑顔は幼い頃のままだ。
三姉弟の長子であり自他共に認める姉気質のフィオナは、昔からガエルのこの笑顔に弱い。
この後、店仕舞い前の市場に行く予定だったが、先立つものがないので買い物なんて到底出来ない。今夜は残った野菜だけを煮込んだスープで弟妹には我慢してもらうしかない、と腹を決める。
「……仕方ないわね。少しだけよ」
お姉さんぶって、フィオナは再び席に座った。
「やった」
ガエルは弾けるようにそう言って、先程までロブが座っていた椅子に長身を縮こませるようにして座る。
彼はすぐに店員を呼んでカップを下げさせると、新しい飲み物を注文しようとした。
「ガエル、私はいいわ」
慌ててフィオナは口を出したが、ガエルが無邪気に首を傾げる。
「なんで? 俺が引き留めたんだから、一杯ぐらいご馳走させて。フィオナ、このハーブティ好きだったよね?」
「……そう、だけど……」
弟のように思っているガエルにご馳走してもらうなんて、申し訳ない。そんな気持ちが表情に出てしまっていたらしく、ガエルはフィオナの顔を覗き込んだ。
「俺、ちゃんと騎士として働いてお給料ももらってるんだよ。たまには俺にも見栄を張らせて?」
そう言われてしまっては、フィオナも甘えることしか出来ない。
「ありがとう、ガエル。とても……立派になったのね」
そう言うと、ガエルは嬉しそうに笑った。フィオナの好きな飲み物を覚えてくれていたのも嬉しい。
ロブは自分が男らしくブラックコーヒーを飲み、連れであるフィオナは女性人気のミルクティーを飲むという光景が気に入っていたらしく、いつもメニューを選ぶ自由はなかった。勿論彼が払ってくれるのだから、フィオナに選択肢は与えられていなかった。
注文を聞いて店員が去ると、ガエルは表情を改める。
「フィオナのご両親が亡くなった件は、大変だったね。駆け付けられなくて、ごめん」
「お仕事で遠方に赴任してたんだから仕方ないわ。それにお悔やみのお花とお手紙もくれたし……」
ガエルは、赴任先から定期的にフィオナに手紙を送ってくれていた。
内容は幼馴染の枠を逸脱しない時候の挨拶や近況ばかりだったが、フィオナの両親が亡くなってからは時折「旬なので」と理由をつけて果物なども一緒に送ってくれて、それがどれほどフィオナ達姉弟が助かったことか。
そして何より変わらないガエルからの手紙に、フィオナはいつも励まされていたのだ。
「果物はあの子達に大人気だったの。とても嬉しかったわ、ありがとう」
フィオナが微笑むと、ある程度事情を察しているらしいガエルは苦しそうに眉を寄せた。
「今は、どうしているの? ……少し、大変だと聞いてはいるんだけど」
「売れるものは全て売って……内職をしながら生計を立てている状態ね。領地経営なんて学んでこなかった私にはとても無理だし、下の子達にはもっと……だから、近く爵位をお返しすることになると思うわ」
フィオナがそう言うと、ガエルはまるで自分の方が傷つけられたかのように顔を顰めた。
ロブの父親が婚約を継続してくれたのは、何も人情からではない。
実はロブに子爵家に婿養子に入ってもらい、彼に爵位を渡す代わりにアスター商会に資金援助を受ける予定だったのだ。
先祖代々受け継いできた爵位をアスター家に任せることは、亡くなった両親には叱られるかもしれないがフィオナに出来る唯一のことだ。領民にとっては領主の血脈よりも、変わらぬ安定した生活の方が重要だろう。
本来ならば弟が成人して爵位を継ぐ筈だったが、両親が亡くなりルディ子爵家が没落していく中でフィオナが選んだ最善手のつもりだった。
しかし何故かロブに一方的に婚約を破棄された今となっては、全く先の見えない暗闇状態に陥った。
爵位を返還すれば領地経営は国が行ってくれるので、領民の暮らしを心配する必要はなくなる。そうなればルディ家の収入はフィオナの内職だけになり、今よりも更なる困窮が予想された。
王都の屋敷も、代々受け継いできた宝飾も、成人の時に両親が作ってくれた思い出のドレスも、お金に換えられるものは何もかも換えてきた。
それでも狭いアパートに、貴族育ちで世間知らずの姉弟三人では食べていくのがやっとだった。
「そこまで……? でもアスター商会の息子と婚約してたんだから、援助があったんじゃないの……?」
していた?
ガエルの言い方に引っ掛かりを覚えてフィオナは俯いていた顔を上げたが、当のガエルはショックを受けた様子で青ざめている。
騎士として修羅場をくぐり抜けていても、貴族令嬢が落ちぶれていく姿は別の意味で堪えるのだろう。
ただの言い間違いか、とフィオナは力なく微笑んで首を横に振った。
「アスター商会は、ルディ子爵家には特に援助はなかったわ。結婚してロブ様が婿入りしてくれれば、状況は変わると期待していたんだけれど……」
ぎゅっ、とフィオナが両手を握る。
ガエルの瞳が気づかわし気にこちらを見ていた。まるで今にも泣きそうだ。
そういえばガエルは優秀で負けず嫌いなのに、フィオナに何かあれば当のフィオナよりも先に泣いているような優しい子だった。
「……ついさっき、婚約破棄を言い渡されてしまったところなの」
「そんな……」
ガエルは絶句して、口元を片手で覆う。
王都に帰ってきたばかりの幼馴染に告げる近況としては、些か刺激が強すぎたかもしれない。
フィオナは明日さえも不透明な身の上だったが、優しい幼馴染の為にわざと強気に微笑んでみせた。
「びっくりさせちゃってごめんなさいね。でも過ぎたことはしょうがないわ、これまでだって何とかやってきたんだし、これからも何とかなるわよ!」
だから心配しないで、と続けようとした言葉は、行き場をなくしてしまった。
ふいに立ち上がったガエルが、フィオナの足元に跪いたからだ。
騎士が忠誠を誓う、正式な作法。曲がりなりにも貴族令嬢として知っているその姿に、フィオナは、目を丸くする。
「ガエル?」
呼びかけると、ガエルはフィオナを見上げて真っ直ぐな視線を向けて来た。
「フィオナ。幼い頃から、ずっと……あなたのことを愛しています。どうか、俺と結婚してください」
休日で客が大勢いる、オープンテラスのカフェ。午後のうららかな陽射し。絶望的な現状。
そこに跪く、美しい騎士。
「ガエル! 何を言うの、突然……とにかく立って、こんな姿他の方に見られたらあなたの評判にかかわるわ」
「俺の評判なんてどうでもいい。YESかNOか、返事をもらうまで俺はこうしています」
「なんてことを……」
フィオナは突然の出来事に頭がついていかなくて、涙ぐむ。
ロブに突然婚約破棄を言い渡されて、明日からどうしよう、と暗澹たる気持ちだったのに、さらにガエルの求婚だ。
この短い間に起こる出来事として、フィオナのキャパシティを越えてしまっている。
それに、この場で返事をしなくてはいけないのだという。
「……ガエル、考える時間もくれないの?」
「はい。フィオナは優しいから、時間を与えたら俺のことを考えて、断るでしょう?」
そう言われて、フィオナはギクリとする。そんな様子を見て、ガエルは場にそぐわないぐらい穏やかに笑った。
「そんな風に、人のことばかり心配するフィオナのことが好きだよ。……俺はフィオナのことが好きで、フィオナと結婚したい。フィオナは資金援助して弟が成人するまで支えてくれる伴侶が必要。だよね?」
ガエルの言葉に、フィオナはのろのろと頷く。
本来ならばロブがその役目を担ってくれる筈だった。代わりにアスター商会はルディ子爵の義兄という立場を手に入れて、商売に利用する流れの筈、だったのだ。
子爵夫妻を亡くした後は、ロブ自身が子爵位を得ることを追加条件にまでしてなんとか継続した婚約。
でも駄目だった。ロブは婚約破棄を明言し、フィオナの前を去って行ってしまった。
「だから、俺のことを愛さなくていい。俺を、利用していいんだよ。その代わり俺は、愛するあなたの夫としての立場を手に入れられる」
それはまるで、呪いのように甘美な言葉だった。
フィオナは差し出されたガエルの手の平を見つめる。
大きくて、剣ダコの目立つ、しっかりとした手の平。年下だけど、今のガエルの姿を見てフィオナよりも年下だと思う人は少ないだろう。
それほどに、頼りがいのありそうなしっかりとした成人男性。貴族の嫡男で、フィオナの好みを細かく覚えてくれている、優しい男。
フィオナだって、ガエルのことは幼馴染として大好きだった。
だから、本当はこの提案にYESと言ってはいけないことをよく分かっている。
ガエルのことを幼馴染として愛していて大切に思っているのならば、こんな風に好意を逆手にとって利用するような真似をしてはいけない。
例え当のガエルからの提案だとしても。
でも。
でも、フィオナは一人ではないのだ。あの狭いアパートに帰れば、お腹を空かした幼い弟妹が待っている。
両親亡き後、あの子達を育てていくのはフィオナの役目だ。
「ガエル」
名を呼ぶと、ガエルは慰めるように優しく微笑んでくれる。
「罪悪感なんて抱かないで。あなたの境遇を利用してあなたを法的に手に入れようとしているのは、俺の方なんだから」
「そんなこと……」
「本当のことだよ。悪いのは俺の方」
「でも」
フィオナが言い淀むと、ガエルはちょっと唇を歪めてみせる。
「じゃあ、あなたの罪悪感を更に刺激しようか? アスター商会との婚約を失って、この上更に爵位を失ったところで、あなたに幼い弟達を育てていく力はある?」
「ッ……」
痛いところを突かれてフィオナの顔に悲しみが広がると、ガエルも同じように辛そうに顔を歪めた。
フィオナを傷つけることで、ガエルも痛みを感じているのだ。
「平民の三姉弟になったところで、暮らしていくのが楽じゃないことはもうよく思い知ってるんでしょう? ……無事に二人が成人するまで何年かかる? その時まで、あなたが一人で彼らを育てることが、本当に可能?」
「そんな……それは、そう、だけど……」
実際内職で得られる金は少なく、経営が危ういとはいえ領地から得られる分で今の生活は支えられていた。しかし領民のことを考えて爵位を手放せば、その分の金も手に入らなくなるのだ。
フィオナは表情を隠す為に俯き、両手を握りしめて唇を噛む。
しかしその前に跪いているガエルには、むしろフィオナの表情はよく見えてしまっていた。
「……困窮に喘いで身売りでもする? そんなことになるぐらいなら、俺にあなたを頂戴。ルディ子爵位も俺には必要ないし、あなたと弟達には何不自由ない生活を約束するよ」
ガエルの言葉は、甘美な毒だ。彼自身を犠牲にした、甘い毒。
「……それで、ガエルは何が得られるの?」
フィオナの瞳から、涙が零れる。それをじっと見つめて、ガエルは痛みに耐えるようにして微笑んだ。
「あなたの隣に立つ権利が手に入る」
「そんなことの為に……」
「そんなこと、じゃないよ。俺には価値のあることだ」
あまりにシンプルな答えに、フィオナは喘ぐようにしゃくりあげた。涙が頬を絶え間なく伝い落ちる。
「……大丈夫だよフィオナ。責めるなら、弱みに付け込む俺を責めていいんだ」
繰り返すガエルの言葉は、どこまでも優しい。フィオナは泣きながら、それでもしっかりとガエルの手を取る。
「私のことが嫌いになったり、他に好きな人が出来たら言ってね」
「だったら、あなたは生涯俺から離れられないよ?」
重ねられた小さな手を、二度と離さないとばかりに握りしめてガエルはうっとりと笑った。
*
そうして数日後、フィオナとロブの婚約が破棄されたことと共に、ガエルと新たに婚約を結んだことが発表される。
人目のあるカフェでの顛末は多くの人の口からも伝えられていて、ロブが一方的に婚約破棄を告げて去り、後からやってきたガエルが跪いて求婚したことまで仔細に語られていた。
幸い、フィオナが生活の為に婚約したことはガエルが小声で話してくれていたおかげで聞かれてはいなかったようで、ガエルの求婚にフィオナは感激して頷いたことに美化されている。
やや都合が良すぎる展開、という一部の意見もあったが、真相は衆目の知るところではない。
「なんだか申し訳ないわ……」
本当はみっともなくガエルの好意にしがみ付いただけなのに、まるで傷心のところに颯爽と現れた王子様に恋をしたかのように伝わっていて、フィオナは恥ずかしくて申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「何もかも世間に教えてあげる必要はないでしょ? 世論は真実とは関係なく、より面白い方の説を広めて行くんだから」
ギャラガー侯爵家の庭。
ガゼボでフィオナとガエルは二人きりでお茶をしていた。
あれからすぐにガエルはフィオナ達姉弟の暮らしていたアパートを引き払い、三人をギャラガー侯爵邸へと迎え入れてくれた。
屋敷にはギャラガー侯爵夫妻も当然暮らしていて、彼らも大歓迎してくれたのはとてもありがたい。
「いつまで経っても浮いた話一つなかった息子に、ルディ家のお嬢さんがお嫁さんに来てくれるなんて有難い」
「本当に! フィオナ様は小さい頃はよくうちにも遊びに来て下さっていたけれど、婚約者のいるお嬢さんを息子しかいないうちにお呼びすることも出来なくて……」
ギャラガー侯爵夫妻はそう言って、にこやかに微笑んだ。
ルディ子爵夫妻が亡くなった際に、侯爵家からも「困ったことがあったらいつでも頼って欲しい」と言ってもらってはいたが、親戚でもないのにそんな厚かましいことはフィオナには出来ない。
本当に心から心配してくれて歓迎してくれている様子の侯爵夫妻に、フィオナはホッとしてまた泣いてしまうほど嬉しかった。
姉弟にはそれぞれ隣り合った客室が用意され、弟のカーティスには子爵になる為の教育を、妹のオリビアには淑女教育を施す為にそれぞれ家庭教師まで付けてくれたのだ。
至れり尽くせりの状況にフィオナは恐縮したが、むしろ侯爵夫妻は孫でも出来た勢いでカーティスとオリビアのことを溺愛してくれたし、フィオナに対しても早くも娘として愛情深く接してくれる。
この短い期間での状況の変化を思い出しながら、ふと顔を上げるとガエルがこちらを見てニコニコと微笑んでいた。
「ガエル? どうかした?」
「ううん。俺の家の庭にあなたがいて、一緒にお茶を飲んでるなんて夢みたいだなって思って」
ガエルの瞳がとろりと融けているのを見て、フィオナは困ったように眉を寄せた。彼の好意を利用してしまっているのに、そんな風に幸せそうに笑わないで欲しい。
「……子供の頃も、来たことがあるわ」
「それは幼馴染としてでしょう? 今は婚約者としてだ、フィオナが俺のお嫁さんになってくれるなんて嬉しい」
「……」
「そんな顔しないで。あなたを縛り付けているのは俺、悪いのは全部俺だよ」
ガエルは繰り返しそう言ってくれるが、気持ちもないのに彼の求婚に頷いたのはフィオナだ。
貴族同士の政略結婚ならば、むしろ気持ちがないのが普通のことでフィオナも気にはしなかっただろう。けれどこの婚約は、フィオナ達ルディ子爵家に一方的に利益があるだけなのだ。
「……せめて、ガエルが喜ぶことをしてあげたいわ。私は、どうしたらいい……? 教えて」
フィオナがそう言うと、ガエルは耳を真っ赤にして顔を逸らした。
言ってしまってから、大変誤解を招きそうな言い方をした、と気付いたフィオナも真っ赤になる。
「ち、違うの!」
「大丈夫、わかってる!」
慌ててフィオナが立ち上がると、同じように勢いよくガエルも立ち上がった。二人して真っ赤な顔でお見合いする。
その間を、一陣の風がピュウ、と冷ややかに通り過ぎていった。
「……座ろう」
「うん……」
ガタガタと座り直したが、フィオナの頬は熱いままだ。
生活に困って身売りするぐらいなら、とあの時ガエルは言ったが、結婚するのだからそういうことも覚悟していかなければならないのだろう。
何せガエルは侯爵家の嫡男で、しかも一人っ子だ。
「時々こうして、二人きりでお茶をして」
「え?」
ガエルの言葉に、フィオナは首を傾げた。彼を見ると、相変わらずうっとりとした表情で幸せそうに微笑んでいる。
「お茶?」
「うん。一緒にご飯を食べたり、時々どこかに出掛けたり……して欲しい」
そんなことはお安い御用だ。元々幼馴染として仲良くしていた相手であり、今も話して見れば昔の通り話しやすく気があった。こんなことになっていなければ、仲の良い友人として親しくしていただろう。
「そんなことでいいの?」
「それがいいんだ」
「……喜んでご一緒するわ」
フィオナが肩から力を抜いて微笑むと、ガエルの瞳が一層とろける。
「うん……出来るだけ幸せで健康で、笑っていて欲しい」
そんな風に言われて、フィオナは今度は戸惑った。それはガエルの為の願いじゃない、フィオナの為の願いだ。
「……ガエル、あなたの願いを叶えたいのよ。せめてものお礼に。私……私、妻としての務めだって、必要なら……」
そこまで言って、さすがに先を言うのを躊躇う。
弟妹の為に何だってする覚悟だったが、自分から夜を共にする覚悟ある、だなんてとても言えなかった。しかし、ガエルは先程と違いフィオナの言いたいことを正しく理解している様子なのに、それでも落ち着いていた。
「大丈夫。そんなことをあなたに強いたいわけじゃないんだ。俺はあなたを助けたかった。幸せにしたかっただけなんだ。こんな方法しか取れなくてごめんね、でも愛しているよ。それだけは信じていて」
どうしてそんな言い方をするのだろう、とフィオナは困惑する。
愛を告げているのに、どこか諦めているような言い方。フィオナが決してガエルを愛さないとでもいうように。
「ガエル?」
「俺を愛さなくていいから、フィオナは幸せでいてね。それが、俺にとっての幸せだから」
フィオナが呼びかけると、ガエルは何でもないことのようにそう言ってにっこりと微笑んだ。
しかしそれは先程までの幸せそうな笑顔ではなくまるで仮面のように本音を隠すもののように感じてしまい、フィオナは不安になるのだった。
*
侯爵邸で暮らすようになって、フィオナはギャラガー侯爵夫人であるモニカに連れられてあちこちのお茶会に顔を出した。
「ロブ・アスター様からの一方的な婚約破棄であることは世の皆さまも知っていることだけれど、その後すぐにガエルと婚約したことを面白おかしく話されてしまう前に、堂々とあちこちに顔を出してしまえばいいのよ」
モニカはそう言ってニッコリと微笑む。
「姑になる私との仲も良好だとアピール出来るし、私は可愛いフィオナ様とご一緒出来て楽しいし、一石三鳥でしょう?」
ガエルは顔立ちは父親の侯爵似だと思っていたが、笑顔は母親のモニカにそっくりだ。
お茶の席ではモニカは必ずフィオナを隣に座らせてくれて、どんな時もさりげなくフォローしてくれて本当に助かった。一方的な婚約破棄とはいえ、ルディ子爵家の令嬢として醜聞を抱えたことには違いない。
今は没落貴族だが、いつか弟のカーティスが子爵家を復興させた際や妹のオリビアが婚約者を探す段階になった時に、フィオナの所為で足を引っ張りたくなかったのだ。
天気のいい日で、その日のお茶会はガーデンパーティだった。
白いテーブルクロスの上に色とりどりのお菓子と、綺麗なティーカップ。それらは綺麗に剪定された庭と、見事に調和が取れている。
同じテーブルについた令嬢達は、フィオナに口々に明るく話しかけてきた。
「大変でしたわね、フィオナ様」
「でもガエル様が長年の恋心を抱いておられたのが、フィオナ様だったなんて!」
「本当、ロマンチックですわ……」
醜聞を打ち消すようにフィオナが堂々とお茶会に参加することでイメージが変わり、他の令嬢達はガエルとフィオナの恋物語を勝手に脚色して膨らませていく。年頃の女性の想像力とは、本当に豊かなものだ。
「ガエル様って、二人きりの時はどんなご様子ですの?」
一人の令嬢に聞かれて、フィオナは想いを馳せる。
二人きりの時のガエルは、いつもフィオナを優しくて熱い瞳で見つめている。そして目が合うと、この上もなく幸せそうに笑うのだ。
「とても優しくて……いつも微笑んでくださいます」
あの視線を思いだすと、フィオナの顔が赤くなる。それを見て、周囲の令嬢達は黄色い声を上げるのだった。
せっかく盛り上がっているというのに、そこに水を差すようにヒヤリとした声がかかる。
「まぁ。婚約破棄されたばかりだというのに、すぐに別の方が見つかるなんて幸運ですこと」
フィオナが驚いてそちらに顔を向けると、シャレン伯爵家のローラ嬢が扇で口元を隠しながら立っていた。
後ろには数名の令嬢を従えている。
「ローラ様……お久しぶりです」
フィオナが微笑んで挨拶をすると、ローラはフン、と顔を背けた。
「家が没落してつい最近まで平民同然の暮らしをしてたのに、ガエル様のおかげで未来の侯爵夫人だなんて驚きですわね。どんな手管を使ってガエル様を誘惑したのかしら、教えていただきたいわ」
刺々しい物言いに、フィオナの周囲の令嬢達が嫌悪の表情を浮かべる。
ちらりと視線で確認すると、別の貴族の夫人と楽しそうにお喋りしているモニカがこちらを見て大きく頷いた。あれは「やっておしまい!」のサインだ。
で、あれば容赦はしない。
家は両親を亡くした所為で没落したものの、フィオナだって元は誇り高い貴族の娘なのだ。真正面から攻撃されて、ただその攻撃を受け入れるなんて真似はしない。
ルディ子爵家と弟妹、そして何より自分に求婚してくれたガエルの為にも、負けてなんていられないのだ。
スッと立ち上がると、フィオナはローラに近づいてとびきり優雅に微笑んでみせた。
「な、なんですの?」
その衒いのない美しい笑顔に、てっきり好戦的な態度が返ってくると思っていたローラは怯む。
「恥ずかしながら、お教え出来る事がありませんの。ガエルはただ、私の笑顔を見るのが幸せだ、といつも言ってくださいますのよ」
そう言ってフィオナは殊更ニコリとして見せた。
それを聞いてテーブルの令嬢達は勿論、ローラの取り巻きの令嬢達も顔を赤くした。
侯爵令息であり、騎士、そしてあれだけの美丈夫なのだ。
ガエルは昔から令嬢達に大人気だったが、大人気であるがゆえに誰にでも平等に優しく、そして素っ気なかった。そんな彼が唯一フィオナにだけは笑顔でいて欲しいと言い、そのフィオナの笑顔を見て彼自身も幸福に笑う。
それを想像したらしい令嬢達は皆、一様にうっとりと赤面したのだ。
「な、な、な……!」
しかしローラだけは怒りに顔を赤くして、ビシッ! と閉じた扇でフィオナを指してくる。
「あまり調子に乗らないでちょうだい! あなたの今の生活はガエル様のお情けで成り立っていることを忘れないことね!」
そう言い捨てると、さっさとテーブルの合間を縫って去って行ってしまった。慌てて取り巻きの令嬢達がその背中を追いかけていく。
ほっと安堵の息をつくと、周囲の令嬢達が労わってくれた。
「大丈夫ですか、フィオナ様!」
「ええ……」
別の令嬢が新しいお茶のカップを勧めてくれて、それを有難く受け取る。さすがに緊張で喉からカラカラだ。
「ローラ様ったらずっとガエル様に憧れていたから、フィオナ様に嫉妬しているんだわ」
「あら、でもローラ様にも恋人がいらっしゃるんじゃなかった?」
「どうかしら。どこの誰なのかも教えてくださらないんだもの、嘘かもしれないわ」
フィオナを労わるフリをして、口々にローラの噂話も広がる。
久しぶりに社交界の空気を受けて、フィオナはカップで口元を隠しながら内心で大きく溜息をつくのだった。
*
「母から聞いたよ、お茶会でひと悶着あったって」
夕食後に弟妹達が部屋に下がると、ガエルがフィオナの部屋にやってきた。
最初からこういう交流があることを見越していたらしく、フィオナに与えられた部屋は応接室と寝室が続きの客間である。
「大したことじゃないわ」
「でも……母は娘が出来るのが嬉しくて、フィオナを皆に自慢したくてお茶会に連れまわしてるんだよ。面倒なら断っていいから」
ソファにフィオナと共に並んで座ったガエルは、心配そうに手を握ってくる。
再会したばかりの頃は手を握るのも戸惑いがちだったというのに、最近は二人きりでいるといつの間にかごく自然に手を繋がれていた。
温かい手の平に握られると、フィオナもホッと心が解れる。
「モニカ様はとてもよくしてくれているわ。今日のお茶会では……ローラ様とちょっとぶつかってしまっただけよ」
眉を下げて心配そうにしているガエルに大丈夫と伝えたくて、繋いだ手をもう一方の手で覆う。
しかしローラの名が出ると、ガエルは眉を寄せた。
「ローラ様? ローラ・シャレン伯爵令嬢?」
「ええ……お知り合いなの?」
お茶会での話だと、一方的にローラがガエルに憧れていたように聞いたが違うのだろうか。
フィオナが首を傾げると、ガエルは慌てて否定した。
「全然知らない人! 別口で少し名前を聞いたことがあるだけで、興味も何もないよ。俺が好きなのは、気になるのは、フィオナだけだから……!」
ぎゅっと繋いだ手に力を込められて、フィオナは思わず笑ってしまう。
やましいことがある様子ではなく、ただただフィオナに誤解されることを嫌がるように全力で否定してくるので、その必死さが可愛らしかったのだ。
「本当だよ、あなたにだけだよ。信じて」
「……一度だって疑ったことなんてないわ」
こんなにも真っ直ぐひたむきな愛情を向けてくれる人を、どうして疑えるだろうか。
フィオナがはっきりとそう言うと、ガエルの端正な顔が嬉しそうに綻んだ。
*
それからは、何事もなく日々は過ぎていった。
カーティスはどんどん知識を吸収しているらしく、家庭教師が保護者であるフィオナに授業の様子を教えてくれる際に大絶賛された。
オリビアの方は少し状況に適応するのに時間がかかっているようで、アパートで暮らしていた頃よりも甘えたになった気がした。
しかしあの頃には甘えさせてあげることも出来なかったのだ、と思うとフィオナもついついオリビアを甘やかしてしまう。
「お姉様は、ガエル様のことがお好きなの?」
夜、一人では眠れない、とオリビアは最近フィオナのベッドで一緒に眠っていた。アパートにいた頃は三人で一つのベッドを使っていたので、フィオナとしては全然構わない。
「……とても、大切に思っているわ」
妹に対して嘘をつくことは出来ず、フィオナは自分の気持ちに一番近い言葉を探した。
ガエルのことを男性として愛しているか、と聞かれたら、まだYESと答える自信はない。でも「まだ」と考えている時点で、そうなることはもう決まっているようなものだった。
ガエルのように素敵な人に、あんな風に熱く見つめられて好きにならずにいられる人がいたら、お目にかかってみたいものだ。
しかしそれはそれで、素敵な男性に愛を告げられて流されているだけなのではないか、という不安も付き纏う。
ガエルの愛情が真っ直ぐすぎるので、フィオナの方も生半可な気持ちで愛を返すことは不誠実なように思えた。
勿論ガエルの好意を利用している現在の状況が、既に十分に不誠実であることは言うまでもない。
「ガエル様は、お姉様のことが大好きよね。お姉様のことが好きだから、私やカーティスお兄様にも優しくしてくださるんだわ」
十歳になったばかりのオリビアがだが、末っ子だからなのか周囲の状況を良く見ていて、察しのいい子なのだ。
ギャラガー侯爵家が歓迎してくれていることも、自分の将来の為にしっかり淑女教育を受けるべきことも納得している。
「そうね……でもガエルは、あなた達のこともちゃんと大切に思ってくれているのよ」
「ええ。でもお姉様、私にはまだ愛はよく分からないの」
「……私にも、とても難しいわ」
フィオナがオリビアの髪を梳くようにして頭を撫でると、妹はとても心地良さそうに目を細めた。ベッドの中で抱きしめると、子供体温が温かくて安心する。
「私がお姉様やお兄様のことを好きな気持ちと、ガエル様がお姉様のことを好きな気持ちは、違うものよね? ……ガエル様はなんだか、とても……切実にお姉様のことを愛してらっしゃるわ」
「……そうね」
オリビアが甘えるようにフィオナの指を握った。眠くなってきたのだろう、話す語尾が消え入りそうだ。
「お姉様がガエル様に向ける気持ちは……」
そこまで言って、オリビアの唇から寝息が溢れる。フィオナは寝落ちしてしまった妹のまだ幼い姿に微笑ましく笑って上掛けを丁寧にかけ直してやった。
*
ガエルとギャラガー侯爵家のおかげで、カーティスのこともオリビアのことも安心して見守っていける状況になった。
ロブに嫌われることを恐れてビクビクと気を使う必要もなくなったし、明日の食べるものについて困ることもない。
しかしそれらは全てガエルの愛情の上に成り立っていて、ロブの次はガエルに嫌われることを心配しながら生きていくことになるのかと予想していたのだが、フィオナ自身の予想に反して何故かそのことはちっとも気にならなかった。
ガエルの向けてくれる愛情は本当に真っ直ぐでひたむきで、時折フィオナが彼を見るとそれだけで幸福だとばかりに蕩けるように微笑むのだ。彼の愛情を疑うことほど、愚かなことはないだろう。
だからこそ、フィオナも真剣に考えて自分の気持ちを見出したかった。
弟妹の為に、婚約を破棄することは出来ない。このままガエルと結婚することになるのだと思う。
しかし、フィオナがガエルのことを男性として愛することが出来ないのならば、それならばそれで何かしらの線引きは必要なはずだと考えていた。
誠実な愛を向けてくれるからこそ、応えられなかったとしてもフィオナも誠実に対応すべきだ。
問題は、フィオナの気持ちがガエルを愛する方に傾いてしまっていること。この気持ちが、ただ流されて楽な方に向かっているだけならば不誠実だということ。
「……ガエルとも、自分の気持ちとも真っ直ぐ向き合う必要があるわ」
そっと呟くと、フィオナはもう一度オリビアの髪をゆっくりと撫でて、自分も瞼を閉じた。
*
その数日後。
その日は朝から侯爵夫妻は揃って屋敷を留守にしていて、ガエルも騎士団へと赴いていて同じく留守だった。
ガエルは二年の地方赴任を終え今季から王城勤務になったが、その勤務が始まるまで少し纏まった休暇をもらっている最中なのだ。
だからこそ婚約したばかりということもあって、ずっとガエルはフィオナに付き添い何くれとなく世話を焼いてくれている。フィオナとしては有り難かったが、今日彼が騎士団に赴いていることを考えてもそろそろ休暇が終わる頃合い。
その前に、出来ればフィオナ自身の気持ちを固めておきたかった。
午前中はカーティスもオリビアも授業が入っているので、フィオナの方も侯爵夫人に女主人となる心得などを教わっていたのだが、夫人が不在なのでポッカリと時間が開いている。
手持ち無沙汰なので、いつかのように庭のガゼボで一人お茶をいただいていた。
ガエルとここでお茶を飲んだ時には蕾だった花が咲き、木々の緑も濃くなったように感じる。不思議に思って、通りかかった庭師に尋ねてみたがそんなことはない筈だ、と庭師にも首を傾げさせてしまった。
「私に、花を愛でたり木を見渡したりする余裕がなかったということね……」
侯爵邸の庭は、整然と整えられていてとても美しい。伸び伸びと愛情を受けて育った真っ直ぐなガエルを思わせて、フィオナは自然と笑顔になった。
近頃は、何を見てもガエルのことを思う。
特に侯爵家の屋敷には、彼が小さい頃から勤めている使用人が多い。彼らも皆、フィオナ達に対して好意的で、ちょっとした時にガエルの幼い頃の話や日常の些細な話などを教えてくれた。
果ては、フィオナが屋敷に来ることになってどれほど喜んで準備していたかを聞かされた時は、流石に赤面せずにはいられなかったが。
思い出してまた赤面していると、メイドがポットを持って近づいてくる。
「フィオナ様、お代わりはいかがですか?」
「ありがとう」
フィオナの好きなハーブティーは侯爵家に常備されていて、メイドはお茶を入れる時に茶葉を聞いてくれる。これもガエルの気遣いなのだと分かって、とてもくすぐったい。
両親を亡くしてから、フィオナにどうしたい? と聞いてくれる人はいなかった。ただ、すべきことが山のようにあり、弟妹を育てる為にただただ夢中でそれを行ってきただけ。
でもガエルはいつも「フィオナはどうしたい?」と聞いてくれる。そのくせ、「悪いのは全部自分だ」と言って譲らないのだ。
「お菓子も新しいものをお持ちしましょうか。それとも、もう少ししたらガエル様がおかえりになるので、その時に……」
メイドがニコニコと微笑みながら提案してくれるのと聞いていると、執事がやや早足でこちらに近づいて来るのが見える。
「フィオナ様、お寛ぎのところ申し訳ありません。その……アスター商会の、ロブ・アスター様がいらしてます」
「ロブ様が?」
「お約束の予定はありませんし、我々の方でお断りすることも出来ます」
ガエルの方から何か言われているのか、それとも世間の噂を聞いて察しているのか、執事ははっきりとそう言ってくれた。
婚約者であるガエルが不在の状況で、元婚約者であるロブに会うべきではない。
一方的に婚約破棄を告げてきて、フィオナに絶望を与えたロブ。しかし彼の真意を、フィオナは未だに全く理解出来ていない。
ひと気のないところで会うわけではないし、執事やメイドにも同じ部屋に控えていてもらえるだろう。
ガエルへの気持ちを整理したいフィオナは、ロブに会って彼の真意をきちんと理解することで前に進めるのではないか、と考えた。
「……いえ、ロブ様にお会いするわ。二人とも、一緒に来てくれる?」
執事とメイドにお願いすると二人は当然だと大きく頷いてくれて、少しだけ緊張が和らいだ。
応接室にロブが通されたことを知らされて、執事とメイドと共にフィオナはそちらに向かう。
最近はガエルがずっと甘やかしてくれるので、ちょっと困った時はつい隣を見上げてガエルの顔を見るのが癖になってしまっていたが、付き添いがいるとはいえ今フィオナは一人だ。
少し前までは、それが普通の状態だった。随分とガエルを頼りにしていることを実感して、フィオナはまたくすぐったい気持ちになる。
応接室の大きな扉を開くと、中にいたロブがフィオナを見て自然と立ち上がった。
本来淑女が座るまで紳士は立っているものだが、ロブにそんな風に扱われたことはなかったので、内心で首を傾げる。
フィオナは知らぬことだったが、今まで婚約者の没落令嬢としてフィオナを扱っていたロブだったが、この屋敷にきて執事とメイドを従えて登場したフィオナを見て、その淑女然とした姿に自然と立ち上がってしまったのだ。
自覚はなかったが侯爵家に来てから大切に扱われ丁寧に手入れされた結果、フィオナは本来の令嬢らしい姿を取り戻していたのだった。
「ご無沙汰しております、アスター様」
「ああ……元気そうだな、フィオナ」
名を呼ばれて、フィオナはちょっと眉を寄せる。
もうフィオナとロブは婚約者の間柄ではないので、親しげに名を呼ぶのはマナー違反だ。その気持ちを表す為にわざと眉を顰めたのだが、ロブは気付いてはくれない。
「お前は一人ではちっとも屋敷から出てこないから、侯爵夫妻もガエル様もいない時を見計らって来たんだ」
「……万が一次がある時は、ガエルのいる時にいらしてください」
フィオナは困惑しながらそう告げた。
ガエルのいない隙に来た、なんて誤解を招きたがっているかのようだ。執事とメイドに同席してもらってよかった、心底思う。
「いいや、あいつがいる時は話せない。いいか、フィオナ、お前は騙されているんだ」
「……誰にですか?」
ロブの乱暴な物言いに、フィオナは警戒した。
まだ席にもついていないし、定型の挨拶もしていない。約束のない訪問に引き続き何もかもマナー違反をしてロブが焦っている様に、フィオナも何故か焦燥に駆られる。
「ガエル様にだよ。いいか、俺がお前に婚約破棄を告げたのは、あいつの命令だったんだ!」
「!」
突然の告白に、フィオナは目を丸くした。
「何故そんなこと……」
「あいつはお前と婚約したいから、邪魔な俺にお前と婚約破棄しろと脅してきたんだ! 婚約破棄は、俺の意思じゃないんだ!」
ロブは素早くソファを回り込んでフィオナに近づくと、衝撃に震えて無防備な腕をがしりと掴んでくる。
「離してください!」
「いいから聞け! 俺は婚約破棄なんてしたくなかった、やり直そうフィオナ!」
ロブはほとんど怒鳴るようにしてそう言った。腕を掴んで強くそう言われると、フィオナはロブと婚約していた時の癖でビクリと震えてしまう。
当然直接的な暴力こそ振るわれたことはないが、いつも高圧的で命令ばかりしてきていてロブに強い態度に出られると、フィオナは心が怯え体が固まるのだ。
婚約していた当時、ロブに見捨てられたら幼い弟妹を抱えて後がないとフィオナには分かっていた。だからロブの気分を損ねないようにビクビクしながら彼に接していた、あの頃を条件反射で思い出して恐怖に絡め取られる。
「私とやり直したいのは……私を、愛しているからですか?」
怯えながらも、フィオナは腕を精一杯伸ばして距離をとってそう訊ねる。フィオナの瞳に恐怖を見つけて、ロブは楽しそうに笑って首を横に振った。
「いいや、お前が子爵家の娘だからだ」
そう告げられて、突然フィオナの心は軽くなった。
もし万が一、ロブがフィオナのことを愛していてやり直したいと言っているのならば真剣に考えようと思っていた。だが、利益のある相手だからやり直したいのだ、と言われて、それならば、今のフィオナには考える余地はない。
フィオナは貴族の娘だから、利益込みの政略結婚は当然のことだと思っている。だからロブの言うことを軽蔑したり、忌避したりする気持ちはない。
でももう、フィオナは知ってしまったのだ。
利益なんで度外視で、真っ直ぐに見つめて愛を与えてくれる存在を。
ガエルに愛されることを知ったフィオナは、今更ロブの提案を受け入れるかどうか考えるまでもなかった。
まだ体は怯えて固まっているが、心は持ち直した。今は、自分の気持ちをきちんと告げるべき場面だった。
「アスター様のお申し出はお断りします。私は、ガエルと結婚するのですから」
「ッ、ふざけるな!!」
きっぱりと告げると、それまで自分の言うことに唯々諾々と従っていたフィオナの豹変にロブは驚き、激昂した。
「俺がやり直してやるって言ってるのに、下手に出てやったのに調子に乗るなよっ!」
ロブは掴んだままのフィオナの腕を引き、逆の手で殴ろうと拳を握る。
「フィオナ様!」
メイドの悲鳴が聞こえ執事が駆け寄ってきてくれる姿が見えたが、フィオナは決然とロブを睨んでみせた。
フィオナはロブの高圧的な態度に屈したくなかったし、ガエルの気持ちに応えたかった。
両親を亡くしてからあらゆることにフィオナの矜持はズタズタに引き裂かれ、弟妹を守ることさえ出来れば自分はどうなっても構わない、と思うようになってしまっていた。
しかしそんなフィオナにガエルは何も求めず、ただただ優しくしてくれて、ひたすらに愛情を注いでくれた。
フィオナの矜持は慰撫され、自分を大切にすることを思い出させてくれたのだ。
自分の気持ちに素直に従っていいのだ。嫌なことは嫌と言っていい、好きなことは好きと言っていいのだ。
怒鳴られたって、殴られたって、フィオナはフィオナを曲げなくていいのだ。
キッと睨みつけたがロブの拳はフィオナに届くことはなく、フィオナの背後から伸びてきた脚にロブはドカン! と音を立てて蹴り飛ばされ、後ろに吹っ飛んでいった。
「ぐわぁっ!?」
「え……」
ポカン、とロブの行方を見守る暇もなく、フィオナは体をぐるりと半回転させられる。
「フィオナ! 怪我はない!?」
そこには息を乱したガエルが立っていて、返事をする前にフィオナは力一杯抱きしめられた。
その後は大騒ぎとなった。
ロブは屋敷に駆けつけてきた憲兵に引っ捕らえられて連行されていき、ギャラガー侯爵家はアスター商会に正式に抗議をした。
事情聴取でロブは色々言ったらしいのだが、世間に流れたのはその内容と一致しているのかは定かではない。
後にフィオナがメイドによって教えてもらったところによると、ロブは自分から婚約破棄をしておきながら未練がましく侯爵家へやってきてフィオナに復縁を迫り、断られると暴力を振るおうとしたので逮捕された、というものらしい。
一部事実と違うが、相変わらず世間は面白い説の方を採用して、広く流布していく。
*
それらの騒ぎがようやく収まってきた頃、フィオナはまたガエルと共に庭のガゼボでお茶を飲んでいた。
騒ぎの頃に咲いていた花は盛りを過ぎて、別の花の蕾が開こうとしている。木々は風を受けて穏やかに揺れ、緑はさらに濃くなったようにフィオナの目には映った。
ちらりとガエルを見ると相変わらずこちらを蕩けるような瞳で見つめていて、フィオナは真っ赤になってしまう。以前にはなかった反応に、ガエルは不思議そうに首を傾げた。
しかしフィオナが居住まいを正すと、ガエルも表情を引き締める。もう、彼は何を言われるのか分かっているようだった。
「……ガエル、聞きたいことがあるの」
「何でもどうぞ。何でも、答えます」
こんな時まで従順にせずに、嘘をついて誤魔化してくれてもいいのに。ガエルの、フィオナに対する真っ直ぐな愛情が今だけは恨めしい。
「アスター様……ロブ様は、婚約破棄はあなたに脅されたからした、と言っていたわ。……それは、本当?」
聞くと、ガエルは真面目な表情で頷いた。
「……本当です」
「何故そんなことを……」
婚約破棄を告げてきた時のロブの様子がどこかおかしかったことや、世間でも「都合が良すぎる」と言われていたことなどが、フィオナの脳裏を駆け巡る。
出来れば否定して欲しかったが、婚約破棄を画策したのがガエルだったのだ。あの時、ロブに破棄を告げられて受けた絶望的な気持ちは、ガエルによって齎されたのだと思うとショックだった。
「最初から言っている通り。あなたのことを愛しているからです」
ガエルの視線はいつも真っ直ぐにフィオナを見つめる。でも今は、嫌われてしまうのではないか、という不安で揺れていた。
「私と結婚したいから、ロブ様が邪魔だったということ……?」
「……違う」
初めて、ガエルの視線が逸らされる。
言い淀むガエルを見て、フィオナは思わず彼の手を握っていた。
「フィオナ」
「教えて。何か……理由があったのね? 私を守る為に」
そう言うと、ガエルの瞳が潤む。彼はいつも、フィオナの為に先に泣いてくれるような子だった。
婚約破棄を告げられてフィオナがショックを受けるとしても、そのまま婚約を続けていればもっとフィオナにとって悪い状況になるからこそ、ロブを脅して婚約破棄をさせたに違いない。
ガエルの真っ直ぐな愛情を受けて、よくよくそれを知ったフィオナには素直にそのことが信じられた。
しばらく言いづらそうにガエルは唇を噛んでいたが、フィオナの手を握り返して、意を決して口を開く。
「俺は……幼い頃からあなたのことが好きだったけど、あなたには既にロブ・アスターという婚約者がいた。あの男があなたを幸せにしてくれるなら、俺に入り込む隙はない。変に未練を残すよりも、離れた方がいいと思って、地方赴任の話を引き受けたんだ」
「そうだったの……」
「ルディ子爵夫妻が亡くなった時も、アスター商会の後ろ盾があればあなたは大丈夫だと思っていた。だからこそ、幼い頃からあなたがあいつと婚約していてよかったとさえ思っていたのに……」
そこまで言って、ガエルの表情が怒りに歪む。
フィオナが心配になってもう一方の手でガエルの手の甲を撫でると、ようやく彼の表情が和らいだ。
「……地方での赴任を終えて、王都に帰ることになって……人を使ってあなたの近況を調べさせた。調査結果を聞いて、俺は愕然とした。あなたは屋敷も財産も全て売り払い、弟妹と粗末なアパート暮らしをしていた。アスター商会の援助は一切なく、それどころか一度婚約破棄の打診を受けていて、結婚したらロブ・アスターに爵位を渡す約束までしていると……」
全て事実だが、ガエルから改めて告げられるとフィオナはただただ己の至らなさに恥じ入るばかりだった。
没落した家、頼りない長女。吹けば飛ぶようなちっぽけな存在である、自分。
しかし恥じ入るフィオナのことをガエルはいつものように愛おし気に見つめる。この瞳が、フィオナに自信と勇気をくれるのだ。
「……あなたがそんな困窮した状態だなんて手紙にも書いていなかったし、気づかなかった自分が情けなかった。アスター商会のやり様にも憤ってなんとかしたくて、もう少し詳しく調べてみるとロブ・アスターには恋人がいることが分かった」
「え……? ロブ様に……恋人?」
思ってもいなかったことに、フィオナは驚いて目を丸くする。
弟妹と生活の為にロブとの婚約を是非継続したかったフィオナだが、婚約自体は貴族令嬢としての所謂政略結婚として受け入れていたので、ロブに恋人がいた、と聞いてもダメージは全くない。
しかしガエルからすれば、彼が欲しくてたまらないフィオナと婚約していながら別の女に現を抜かすなんて許しがたいことだったのだ。
フィオナが、結婚後にロブに愛人がいたと分かっても怒りもしなさそうなところも、ガエルにとっては悔しかった。もっとフィオナは大切にされて然るべき人なのに、と。
「それにアスター商会の会頭……ロブの父親は、ロブとフィオナが結婚して無事にロブが子爵位を譲り受けたら、すぐに離婚させるつもりだったんです」
「え……」
さすがにそれには、フィオナが青褪める。
爵位を譲渡してまで結婚したかったのは、弟妹の安定した生活の為だ。なのに、爵位だけ奪われて放逐されてはたまったものではない。
ルディ家の者が正式に爵位をアスター家に譲渡していれば、離婚させられた後に爵位を返せと訴えても取り戻すのは難しかっただろう。
なんと危ういところだったのだろう、と青褪めたフィオナの顔色はなかなか戻らない。
「ごめんね、ショックな話を聞かせてしまって……」
「ううん……これを私に知られたくなかったから、ロブ様に婚約破棄をさせたの……?」
フィオナが傷つくいちいちに、ガエルも傷ついているのがよく分かった。瞳は潤み、彼の方がよほど辛そうなのに、それでも尚心配そうにフィオナを見つめてくる。
「うん……アスター家の者は、秘密を抱えるのに向いてない。俺が調査を依頼した探偵が酒場で少し酒を奢れば、ロブもその父親もそれぞれ自分の秘密と計画を自慢げに話してくれたって」
「なんて浅はかな……」
フィオナが眩暈を感じると、しっかりとガエルの腕が肩を支えてくれる。
ここまで来たら最後まで話を聞きたい。視線だけで話の先を促すと、ガエルは口を開いた。
「……ロブの秘密の恋人は、ローラ・シャレンだった」
「ローラ様……?」
いつかの茶会で、フィオナに噛みついてきた姿を脳裏に描く。あれはガエルに憧れていたからだけではなく、自分の恋人の元婚約者に対してのマウンティングでもあったのか。フィオナが応戦したので、上手くはいかなかったが。
「ローラ・シャレンは伯爵令嬢だ。婚約者のいるロブ・アスターと恋人関係にある、なんて醜聞は広めてほしくなかったんだろうな。ロブの方でも、子爵令嬢のフィオナよりも、伯爵令嬢のローラと結婚する方が利益があると踏んだみたいで、俺の脅しを簡単に受け入れたよ」
「そうだったの……」
フィオナは深い溜息をつく。もう、何と言っていいのか分からない。
するとガエルは椅子から降りて、フィオナの足元に跪いた。既視感のある光景だ。
「ガエル!?」
「……俺の思惑通りロブはフィオナに婚約破棄を告げたけど、シャレン伯爵家はローラをアスター商会に嫁がせるつもりはなかった。アスター商会の会頭に叱られて……ロブは大慌てでフィオナに復縁を迫りに来たんだ」
「……それが、この前の騒ぎだったのね」
ガエルはこくこくと頷くと、ついに大粒の涙を流してフィオナの膝に縋った。
「ごめんなさい、俺のツメが甘い所為であなたを危険に晒した……!」
「そんなこと……ちゃんと守ってくれたじゃない」
「少し間に合わなかったら、大変なことになっていたかもしれない。俺は何からもあなたを守りたかったのに……裏でコソコソしたから、罰が与えられたんだ。傷つけられるなら、俺が傷つけばよかったのに!」
そう言って、ガエルははらはらと涙を溢す。美形は泣いていても美形なのね、とフィオナはやけに感動した。
「謝らないで、ガエル。……今までも、あの騒ぎの時も、あなたはずっと私を守ってくれたわ」
膝に縋るガエルの頭を撫でる。髪を指で梳いてやると、ちょっとだけ気持ちよさそうにガエルは目を細めた。
「……でも」
「私は怒ってないわ、ガエル」
「……俺のこと愛さなくても構わない、でも……どうか、嫌いにならないで欲しい」
恐らく、ガエルが一番恐れていたのはこれなのだろう。そう思うと、彼のいじらしさがフィオナには愛おしい。
「フィオナの、ルディ家の危機だと思ったのは本当だけど、ロブを脅して婚約破棄をさせるよりももっといい方法があったかもしれない。でも俺がそうさせたのは、婚約破棄されて弱っているフィオナに、俺が付け入る為だ」
「うん……」
ガエルの頬を幾重にも涙が伝う。
「結局何を言っても、俺はあなたが欲しかったから卑怯な手を使ったんだよ……ごめんなさい。愛する人を騙すようなことをして、ごめんなさい」
嫌われることに怯え大きな体躯を丸めて謝るガエルにフィオナはたまらない気持ちになって、自分も椅子から降りて膝をついた。
「フィオナ!?」
大きな子供を慰めるようにして、覆い被さって抱きしめる。
「嫌いにならないわ。大好きよ、ガエル」
「……本当に?」
ガエルの涙を溢す瞳が信じられない、と見開かれる。
自分はあんなにも真っ直ぐにフィオナを愛するくせに、フィオナからの愛を信じないなんておかしな人だ。
「本当よ。私、あなたを愛しているわ。だからもう泣かないで」
「それは……幼馴染として……?」
ガエルの瞳が、とろりと蕩けだす。甘えるような視線に、彼がすぐに調子に乗ってきたことが分かってフィオナは可笑しくて笑った。
たくさんの愛情を注いでくれて、でも嫌われることに怯えて、フィオナだけを真っ直ぐに見つめて来る人。
こんなに可愛い人、愛さずにはいられない。
「ねぇ、もう一度私に求婚して? そうしたら、答えてあげる」
「……あなたが俺に返事をくれるなら、何度でも言う」
フィオナが微笑むと、ガエルはそれを見て幸せそうに笑う。
二人ともガゼボの床に膝を突いたまま、ガエルの長い腕がフィオナを抱き寄せた。
「フィオナ、愛してる。……俺を……愛してください」
「喜んで」
花の蕾は綻び、木々は青々としている。
心地よい風が吹いて、フィオナは大きな愛を手に入れた。