AC1.1
目の前に扉がある。
焦げ茶色の木の板にノブと表札をつけそのままはめこんだようで、私がここに来る前に想像していた仰々しいものとずいぶんかけ離れている、あまりにも平凡な扉だ。しかし、今はその平凡さがかえって不気味に見える。
私は周りを見渡した。誰もいない、気配すら感じられない。照明はわびしく私だけを照らしている。息が詰まりそうなほど静かだ。
視線を戻しもういちど表札を見た。『AC』と彫られてある。
ついに来てしまった。きてほしくなかった時がきてしまった。叶うならここでパッと目が覚めてほしい。全身に変に力がはいっているのを感じる。
「ここで大丈夫だよね?」私は最終確認として淡い期待を込めながら尋ねた。
すると、
「はい。ここで大丈夫ですよ」と女性の声で返事が来た。それは聞くだけで不思議と落ち着くいつもの優しい声だった。
私の置かれている状況で普段通りの彼女の声が聞けるのはとても嬉しいことだが、その優しい声色は無情にも間違っていてほしいという私の期待を散らしてしまった。とはいえそんなことは聞かなくてもわかっていたことで、それでも聞いたのはどうしてもこの状況を受け入れられずにいるから。
「……ありがとう」
「いえ。またなにかあったら呼んでください」
私は彼女が引っ込んだのを確認してからため息をついた。そして改めて目の前の扉を見つめた。
――――三ヶ月ほど前、地元の小さな企業に勤めていた専門的な技能や知識もない私に、国から現実の話なのかと疑うほどの異常な条件で引き抜きがあった。その条件を簡単にいえば、これからの生活のすべてを国が面倒をみてくれるというものだった。それも必要最低限ではなく、衣食住にしろ贅沢品にしろそれがどんなに高額であろうと国が負担し、税金なり医療費なりの費用も免除され、しかも望むなら両親の分もということだった。当然ながら私は信じなかった。しかし、条件が条件だけに国が引き抜こうとしていること自体は疑っていなかった。
とにかく条件が本当なのか嘘なのかどちらにせよかなり危険な仕事だと思った――ちなみに仕事内容はいまだ明かされていない――ので断ったのだが、相手方がどうしてもとしつこく頼み込んできたため後日改めて両親も入れて話し合うことにした。そうしたのは二人にも関係のある話であったし、私の代わりに断ってくれることを期待してというのもあった。その結果は見ての通り。詳細は省くとしてまさか国の一番偉い人が直々に頭をさげにくるとは思ってもみなかった。ちなみに報酬を受け取れるようになるのは今日の話が終わってかららしい。
そういうことがあって、その日からまとわりついては離さない不安と緊張を背負いながら、私はここへやってきた。しかもその元凶とも言えるものを目の前にしているためか、不安と緊張がさらに悪さをして扉をパンドラの箱であるかのように錯覚させている。これが安易な決めつけだとはわかっていても、中にどんな不幸が詰まっているのかと考えないではいられず、あれこれ想像をふくらませていると
「いつもの悪い癖が出てますよ」彼女がちょっとたしなめるような口調で言った。
「いや、わかってるけど……今回ばかりは嫌でも考えるよ」たいして私が反論すると
「気持ちはわかりますが、ここまで来てしまったら後は行くしかありません。それにどんな内容かわからないとはいえわざわざ本人が頼みにきたぐらいですから、あなたが想像するような危険な仕事ではないと思います。それでも何かあったらかまわず逃げ出せばいいんですよ。ご両親も言っていたじゃないですか『何かあったらすぐに連絡してくれ、なにがなんでも駆けつける』と」
「…………」
「大丈夫ですよ。私を信じてください」
「……わかったよ」
何も知らないくせに「大丈夫です」なんてよく言えたものだ。だけど、彼女からその言葉を聞くと不思議とそう思えてしまう。
「ありがとう」私が礼を言うと
「いえ、無知な私でも役に立ててよかったです」と言って「では、失礼します」とまたもどっていった。
私はドキッとした。時おり彼女は今のように心を読んでいるんじゃないかと思うようなことを言う。言わばそれが彼女の悪い癖だが、しかしそれといい声といい言葉といいそれほどまで彼女は私の奥深くに入りこんでいるということなのだろうか。
それはともかく彼女のおかげで頭の中で膨らんでいたものがしぼみ、不安と緊張もすこしはやわらぎ、体にはいっていた変な力も抜けたので改めて扉を見た。幻覚はちゃんと消えていた。そうこうしているうちに予定の時刻が迫っていることに気がつき、あわてて心のなかで気合をいれ右手を上げた。そして一瞬の躊躇を挟んだのち扉をたたいた。が、私の慌てようはなんのそのなんの反応もなかった。念のためすこし様子をみてからもういちど叩いてみた。あいかわらず静かなまま。思わぬ事態に本当は場所を間違えているのかと焦ったが、こういうことの彼女の正確性は絶対と言っても過言ではないので、どうするかとすこし考え思い切ってあけてみることにした。
気を抜いたら倒れてしまいそうなほどの緊張に襲われつつノブを左手でつかむと、金属のひんやりとした感触がつたわってきた。その冷たさにおもわず喉を鳴らし離したくなるのを抑えてゆっくりとまわした。カチャと音がなった。そして「失礼します」といいながらおそるおそる開くと不思議な光景が私を出迎えた。それはもうひとつの扉だった。