水とスクランブルエッグ
夏の陽光は熱線銃だ。肌を焼き、血を沸騰させる。喉の乾きは癒やされることがなく、彼はペットボトルを垂直に傾ける。滑り落ちる一滴の水滴がありがたい。数年前までは、彼はぼやけた頭で考える。数年前までは夏の暑さを耐えることができた。しかし今年か、去年辺りから暑さと疲労を感じるようになった。温暖化のせいか、それとも歳をとってしまったせいか。彼は新しい飲み物を求めてコンビニに立ち入った。
中は真冬のように寒い空間だった。彼は透明な液体が入った五百ミリのペットボトルを二本手に取る。レジでバーコードを読み取る店員の顔色はどことなく生気がない。店の外は数分前と変わらない。黒く見える太陽がまばゆく照りつける炎熱地獄そのものだ。駅前のスクランブル交差点は最近、人通りがめっきり減った。夏の昼下がりでも自分と同じような外回りのサラリーマン、全休の大学生、外人の観光客、多種多様な人種が所狭しとひしめく、かつてはそんな場所だった。今では信号の待ち時間のざわめきは聞こえない。車やトラックの行き交う音もおとなしい。
変わったことといえば、最近立ち止まると、かすかに音楽が聞こえる。普段は自分の足音にすら負ける音。どこかで聞いたことのある旋律だ。かすかな余韻にも似た響きを手繰ろうとすると、人の流れがゆったりと、ゆったりと蠕動を始める。奥に入り込んだ思考を引っ張り出し、足を前に出す。そして旋律はそれに伴ってついてきた。イヤホンをつけているわけでもないのに聞こえる糸のような音。それは徐々に大きくなっていく。耳元にまとわりつく蚊の羽音のような不快な音。不意に重々しい音が被さって聞こえる。何かが倒れる音。落としていた視線を上げるとひとりの女性が倒れていた。熱中症だろうか? 慌てて駆け寄り、声をかける。反応はなく、息苦しそうに喘いでいる。とにかく交差点から離れなければ。彼は彼女の腕を肩に回し、抱える。すっかり力が抜けた足をむりやり動かし、高架下に避難する。その頃には彼の視界はもはや正常でなかった。色を失い狭まる世界。震える手でスマホの119を押し、受話器に耳を当てる。何も聞こえない。コール音ですら何かにかき消されている。はっきりと全容を表したそれをようやく理解する。ピアノで奏でられるそれはレクイエムのラクリモサだ。厳かで美しい音階に意識を委ねながら呟く。
「しぶやえき、ハチ公まえ、しにそうです。たすけて」
「最近喉がよく渇くと思ったことはないかな?」
消毒液の匂いと氷と液体で満たされたヤカンの音。整然さと混沌が同居した診療室でお医者様は─彼はこの初老の男性を尊敬を込めてそう呼んでいる─彼に問いかける。問いかけられた彼は数年前から感じていたことを言い当てられ、首肯する。
「最近妙な不調が流行っていてね。目眩がするとか、君のような重度の熱中症で倒れる人が多くなってきている」
コップに注いだ麦茶を勧められ、彼は手に取る。一瞬前までヤカンの中にあったそれはクーラーの風より冷たい。
「気温が上がっているからという指摘は確かに合理的だ。だが、真実はいつも意外なところにある。僕はある学術誌で見つけた新種の寄生虫が原因じゃないかと思っている」
初老の医者は英字が印刷された雑誌を開いて指差す。内容は専門的な用語が多く、詳しくはわからない。写真の禿げ上がった肌の白い男は研究者だろうか? 彼は話を続ける。
「寄生虫は割とどこにでもいる。人はそれ身の回りからできる限り減らしてきた。しかしそれも限界だろうね。この虫は飲料水全般に住み着いているらしい」
医者はコップを傾けて時々気の抜けた相槌を打つ男を相手に熱弁を振るう。
「この虫は脳に寄生して少量の血と神経伝達物質を横取りする。だから体に異常がなくても脳が誤作動を起こす訳だ」
「水にそんなものがいるんですか? 水道水とかペットボトルの水ってちゃんと検査してるのではないのですか?」
男の疑問に対して鷹揚にうなずき、話を続ける。
「確かに僕もそう思っていた。実際、成虫はフィルターに引っかかるし、塩素によって死んでしまう。しかしその卵はその限りではない。あらゆる薬剤に耐性を持ち、どのようなフィルターでも行く手を遮ることができない。そういう生物に日本国民は侵されている。いや、我々だけではない。アメリカもヨーロッパ諸国も被害を受けている。その正体は中国の作った生物兵器だ」
そこまで言い切り、医者は白いシンプルな紙袋を渡す。
「中国、ですか?」
「いかにも。数年前に彗星から回収した未知の生物に手を加えて兵器にしたに違いない。奴らは裏から手を回してこの日本を乗っ取るつもりだ。しかし安心してほしい。この薬を飲めばどのような不調も吹き飛ぶ。疲れを感じたときに一包飲みなさい。もし足りなくなったらいつでも来なさい」
サラリーマンは会計を終わらせ、病院をあとにする。彼はお医者様からもらった薬を早速取り出す。そして、ペットボトルのフタを開けようとして思いとどまる。水には恐ろしい寄生虫がいる。さきほどそう聞いたではないか。これは罠だ。水という必需品を標的にしている分、無敵の罠だ。彼はビジネスバッグの中から取り出そうとしたペットボトルをしまう。そういえばお医者様は麦茶を勧めていた。彼は再びコンビニに立ち寄ることにした。