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『みこがたり』  作者: 朝ノ月
第一章
18/75

第18話 萌芽

※注意


第18話をお読みになる前に、以下の点にご注意下さい。


①重度の流血表現、残酷な描写がございます。


②沈溺する描写がございます。水難事故や震災等で心的外傷トラウマをお持ちの方はお控えください。



物語上省くことができない場面だったため著述致しましたが、作者は皆様に苦痛を与えたい訳ではありません。少しでも該当する方はお控え下さい。


また、ご覧になった後の上記に対する批判や苦情等につきましては対応致しかねますのでご注意下さい。


ーーーーーーーーーーーーー






「…っ…ゲホッ……」


胸に溜まった水を吐き出すような咳で目を覚ますと、朽葉(くちば)色の木々と薄墨(うすずみ)色の空が目に入った。


「…うっ……」


鈍い痛みに揺れる頭を支えながら起き上がり、先ずは記憶の糸を辿った。


(…連れ去られた所までは覚えている。その後は……体の自由が利かずに溺れたのか……)


髪から滴る雫に、意識を失うまでの記憶が蘇ってきて吐き気がした。


「…はぁ……ならこの空間は、連れ去った奴の手中か…」


軽く息を吐いて気持ちを落ち着かせ、今度は現状の把握を試みた。


(…昨夜の占術によれば、玄聆山及びその周辺地域は終日晴天だったはずだ。また、夏が訪れたばかりだと言うのに、此処の葉は既に枯れて落ちている。…間違いないだろう…)


周囲の状況から確信を得ると、服に付着していた落ち葉を一枚取って見つめた。


(…玄武は「水」を司る神獣だ。そして、俺はその玄武の加護を受けている。…その俺を、「水」で溺れさせて意識を奪うとは……それに、この異空間は「天候と季節が異なる」という点を除けば現実の世界と見紛うほど精巧な造りをしている…)


そこまで考えた後、一つ溜息を吐いてから持っていた落ち葉をゆっくり握り潰した。




「…さっさと出て来い。居るのは分かっている。」


立ち上がって、体を濡らしていた水を払いながら咎めるような声でそう言った。すると、固まっていた空気が落ち葉を巻き込みながら動き出した。





『…シシシシ、ミロヨ、アイボウ!フルエナガラ、イカクシテルゾ!』


『…ケケケケ、ホントウダナ、アイボウ!コワイクセニ、ムリシテル、カワイソウナヤツ!』



…落ち葉が舞う音に紛れて聞こえてきたのは、どこか闇を感じるあどけない二つの声だった。そして、木の影から焦らすようにゆっくりと姿を表したのは、容姿の異なる二匹の小鬼だった。


『…シシシシ!ミロヨ、ミロヨ、アノマヌケヅラ!ニラメッコナラ、マケテルナ!』


先に口を開いたのは人の形をした獣のような小鬼で、腹をバシバシと叩きながら大笑いしていた。


『…ケケケケ!ヘンダナ、ヘンダナ!チットモワラワナイゾ!コレナラドウダ!ケケケケ!』


次に動いたのは赤い目に長い耳、黒い髪に赤黒い肌をした小鬼で、口や目、耳を摘んだり引っ張ったりしてこちらを見ていた。



「…名を明かせ。ただの小鬼ではあるまい。」


互いに顔を引っ張っては大笑いしてお前もどうだと言わんばかりの目を無視してそう告げた。すると、今度は嫌らしい笑みを浮かべて宙に浮いた。


『…シシシシ、ナヲアカセ?ゲンブノクセニ、ワカラナイノカ?シシシシ!ユカイ!ユカイ!』


「……」


侮辱の言葉に眉を顰めると、宙を浮いていた小鬼達が俺の周りをグルグルと回り始めた。


『…シシシシ、オコルナヨ。テガカリヤル。ハクシキナゲンブナラ、カンタンダロ?』


「…手掛かり…?」


『…ケケケケ、ソウダ、ソウダ。イチドシカ、イワナイゾ。…オレラハ、オマエラニンゲンノ、コトバニモナッテル、ユウメイダゾ。』


「…言葉、有名ー…」


手掛かりの言葉を繰り返した瞬間、前方から倒木が一つ、目にも留まらぬ速さで飛んできた。


「“結界(けっかい)急急(きゅうきゅう)如律令(にょりつりょう)”」


瞬時に構えて呪文を唱えると、厚さ二十センチほどの透明な壁が出現して、その倒木を受け止めた。敵の造り出した異空間であるから、初動も前兆もなく攻撃を繰り出すだろうとは予想していた。


…しかし、俺はあることを失念していた。



『…ケケケケ』


「…っ!?」


あの笑い声が聞こえた瞬間、宙で受け止めていたはずの倒木が音もなく結界の壁を擦り抜けて、勢いを取り戻して俺の身体を突き飛ばした。



「…くっ…、な、ぜ…ゲホッ!」


飛ばされた俺を受け止める形となった巨木に手をつきながら何とか立ち上がり、口から溢れた鮮やかな赤い血を拭った。


(…胸の痛みや呼吸障害がないことから肺挫傷(はいざしょう)ではなく口を切ったことによる一時的な出血だろう……しかしこの痛み、腹部打撲による内臓の損傷及び出血は間違いないな…)


手を染めた血を見つめつつ己の症状から瞬時に損傷箇所を特定し、気休め程度の痛み止めを施した。


『…シシシシ!アタッタ!アタッタ!チョクゲキダ!』


『…ケケケケ!フットンダ!フットンダ!イタソウダ!』


手足をバタバタと動かして、宙で笑い転げる小鬼達を睨み見ながら口に溜まった血を吐き出した。


「…昨日の件に関与していたのは間違いなさそうだな。…何故、結界を透過できる。神力を凌駕するなど」


『…ケケケケ』


言葉を遮ったのは、倒木が結界をすり抜ける時に聞こえた笑い声と全く同じものだった。


『…シンリキ?ソンナモノガ?ワラワセル!マサカ、ヨワクナッテルコトモ、シラナイナンテ!!』


「…何…?」


俄には信じがたい言葉に、目を見張った時だった。体が大きく揺れて鎮めたはずの腹部に再び強烈な痛みを感じた。そして、濃くなる血の匂いに無言のまま自分の腹を見て固まってしまった。




…細長く先の尖った、槍のような木の棒が真っ赤な血に染まっていた。そしてそれは、地面に落ちたりせず俺の背中から鳩尾の当たりを貫いて浮いていた。


腹から流れる血が落ち葉に落ちる小さな音で漸く気が付いた。



(…腹を、刺され、たー…)


「…な、ぜ、ゴホッ!」


空白だった頭に意識が戻るや否や、立っていられないほどの痛みが身体を襲い、大量の血を吐き出させた。


「…っ、はぁ、はぁ…!」


止むことのない吐血と痛みに、呼吸をすることだけに必死になって後は何も考えられなかった。するとまた、あの笑い声が聞こえてきた。


『…ケケケケ。サァ、サイゴハ、コッチデアソボウカ』


意味を理解しようとした瞬間、体を支えていた両手の間の地面から俺を連れ去った手と全く同じ手が伸びてきて服を掴んだ。そしてそのまま、力強く地面へと引っ張った。抵抗も出来ず、ただ近付いてくる地面を見つめていると、顔が触れる瞬間、景色が光も底もない闇の世界へと一変した。



(……冷たい…これは、水か…?)


体を包む冷たい浮遊感からここが水中なのだと悟った。


(…水空(すいくう)の術を掛ければ、水中でも二日は生きられる……)


術を使おうと腕に力を入れてみるが、微かに動くだけで構えることすら出来なかった。その間にも、冷たい水は容赦なく傷口に触れて血を流し、口や耳から身体を侵して体温を奪っていった。



(…万事休すとはこのことだな……)


体を動かせぬのなら仕方あるまいと、穏やかに迫り来る自身の死を潔く受け入れた。


(…未熟であった、それだけだ…)


薄れていく意識に降参するように瞼を閉じると、身体が沈んでいくような感覚に襲われた。




(…未練を残さぬようにと教えられてきた……善いことだ、未練は悪霊化を招くだけ……だから、俺がここで死んでも何も残らない…思い出も、心残りもー…)



『ほら、透夜!行かなきゃ迷っちゃうよ!』



…まるでそれは違うと言わんばかりに脳裏を過ぎったのは、そう言って俺の手を引き走って行く幼い後ろ姿だった。



(…無事、だろうか……いやきっと、父上が護っているだろう…案じることなどー…)


『透夜!!待って!!やめて!!』


今度は最後に聞いた声が浸水した耳の奥で響き渡った。その必死で、身を割くような叫び声に空虚な胸が騒ぎ出した。




(…彼女といると、不思議なことばかり起こる……名を呼び常語を使うなど、あってはならない……それに、あの忙しく変わる表情を見ると、形容し難いものが胸を突く……)


朧げな意識に彼女のことが泡のように浮かんでは胸に溜まって心地の良い律動を刻んだ。



(…未練を残さぬように、逆らわぬように、感情も欲望も捨てろと言うのが父上の教えだった…それが、正しいのか誤っているのかなど外を知らない俺には判らない……だが、父上の教え通りにこなしていれば新たな力や技を得て強くなれることだけは判った…だから捨てた…【玄武】の次期当主として皆を率いるため、守護者として【応龍】を護るため…それが俺に宿る使命だからと、言い聞かせて縛って…空虚な目に映る世界には色なんてなかった…だがそれで良いと思った…それこそが、父上の教え通りだと思ったから……)


自分の生い立ちを闇にでも語るかのように辿っても、見つかるのは何の色も持たない自分自身だけだった。恐らく人はそれを「退屈」と言うのだろう。



(…だけど、彼女が「見たい」「行きたい」と言う度に、「すごい」と目を輝かせる度に、空虚な胸が騒いで熱くなった……自分に素直で、いつでも自分を見失わないその姿は、羨ましくも美しいと思ってしまった……)


考えがそこまで至って漸くそれの正体に気が付いた。


(…ああ、そうか…これが欲で、感情なのか……もっと彼女を知れば、俺もあんな風にー…)


旺盛な羨望が「生きてみたい」という僅かな欲を育てるも、身体は一向に動かず瞼を開くことすら出来ない。



『…ケケケケ、オヤスミ、トウヤー…』


…そんな俺を嘲笑うような声が耳に木霊する。そしてまた、襟元を掴まれて暗闇へと引き摺り込まれて行った。







「ーーー…!」


『アアァァアァアァア…!!』



…声のような何かが聞こえた直後、耳を突いたのは水を切るような音と断末魔の叫びだった。すると、不意に襟元を掴む手が離れて今度は背後から細い腕に身体を抱かれた。そして、上へ上へと浮かび上がっていくにつれて瞼を覆っていた闇が柔らかな光へと変わっていった。













「………」


…身体を射す白い光にゆっくり目を開くと、影が見えた。無性に触れたくなって、その影に手を伸ばすと熱を持つ肌が手に触れた。



「…美子…」


肌を不器用に撫でながらその名を呼べば、頬を撫でる手にその小さな手を重ねて柔らかな笑顔を浮かべた。


「…うん、おはよう、透夜。」


その笑みと声が、心に火を灯して鼓動を速めていく。優しい温かさと苦しいくらいの高鳴りに自然と俺も笑みを浮かべていた。




「痛いところない?お腹とか頭とか…」


気遣わしげな目に起き上がって自分の腹部を見ると、穴が空き出血していたはずの鳩尾が何事もなかったかのように綺麗な肌で覆われていた。


「…これは…」


「わたしね、「治癒の力」っていう力を持ってるんだ。【応龍】の女の子ならみんな使えるやつなんだけど、それで透夜のケガを治したの。」


そう説明すると、だから恐がらないでとでも言いたそうな顔で俺を見つめた。普通はそんな説明をされても理解などできずただ畏怖するだけなのだろうが、俺はそれを恐ろしいとは微塵にも思わなかった。


「…そうか。美子らしい力だな。」


そう軽く笑んでから自分の腹に触れると、残っていた治癒の力が俺の指先を温かな空気で包み霧のように消えていった。



「…それより、何故ここが分かった?一体、どうやって入って来たんだ…?」


残り香を惜しむように手を握ってから話を現実に戻した。ここは奴らが造り出した異空間であり、入ることはおろか探し出すことすら不可能なはずだ。それなのに、なぜその両方を成し得たのかが全く解らなかった。


「玄武と、この子に連れて来てもらったの。」


そう言う美子の後ろから現れたのは、【玄武】の者が使役する小人の式神で、その手には俺の隠し布が握られていた。


「玄武殿や透夜はさ、この子達に「灯り」を持たせて目的地まで案内させてたでしょ?それを応用すれば良いって玄武が言ったからそうしてみたの。」


「玄武…?」


俺がそう繰り返すと、美子は自分の膝を見つめ、何かを思い出したかのような顔をして口を開いた。


「あ、そうだ!玄武怒ってたよ!力を弱めるなんてあり得ない!って。」


「…力を、弱める…」


その言葉に、先刻の妖怪の言葉が重なって頭に響いた。



「…弱めると言うことは、俺ら【玄武】が加護の力を自ら弱めたと言うことか…?」


俺が独り言のように呟くと、美子は再び自分の膝を見つめて口を開いた。


「えっと…ずっと昔のご先祖さまが、陰陽師としての力を強くするために加護を弱めたんだって。」


「…何だと…?」


衝撃的な言葉に思わず体が固まってしまう。しかし、美子は真剣な顔付きで話を続けた。


「…陰陽道って、陰と陽のバランスが大事なんでしょ?だけど、水の神さまの玄武の加護があるから、それのバランスを取るには同じ四神の朱雀くらいの力が必要だったんだって。でも、【四神】には必要以上に仲良くしちゃいけないルールがあったから、仕方なく応龍の土を御神体に使って力を弱めたんだって。」


「……」


俺らの間に暫く沈黙が漂った。まさか自分の先祖が、そんな愚かな奇行に走っていたとは……そして、今までそれに気が付かなかったとは……。





「…大丈夫だよ、透夜。」


…血の気が引く身体に優しく触れた手と声に、いつの間にか下を向いていた顔を上げると綺麗に微笑む美子がいた。


「そのご神体なら壊したし、玄武にごめんねって言ったら、許してくれるって。」


「……こわ、した…?」


得意げに「うん!」と返した美子は、ゆっくりと俺に近寄ってまた笑った。



「…もう、大丈夫だから…怒ってないから、信じてあげて、玄武のこと…。」


そう言って俺の手を両手で握って祈るように目を閉じた美子は、胸を締め付けるほど哀切で、酔い痴れるほど美しかった。



「…ああ…」


…だからなのか、俺も無意識のうちに感嘆のような返事を返していた。




『…グゥゥウウゥアアァア!!!!』


突如、閑静な林間に轟いたのは怒り狂ったような叫び声だった。すぐさまその声のした方に顔を向けると、突き飛ばされた俺を受け止めた巨木の股に腰掛けて怒りを打つけるように木を殴る小鬼がいた。


『…ヨクモヨクモヨクモッ!!!アイボウヲ、ヤッテクレタナァア!!ユルサナイゾ!!』


そう言って泣きじゃくる小鬼を見つめていた美子が首を傾げて口を開いた。


「あなた、誰?」


「…あれは魑魅(ちみ)という妖怪だ。…恐らく、「アイボウ」と呼んでいるのは魍魎(もうりょう)のことだろう。」


山と水の異空間、そして先刻の「人間の言葉になっている」という手掛かりから導き出した答えを口にすると、不気味な笑い声が空気を震わせた。


『…シシシシ!!イマサラッ!ワカッタッテ!!モウオソイッ!!!』


木の股に座る小鬼がそう叫んだ瞬間、色のない木や空が赤黒い禍々しい色に染められ、空気もまるで獣の息吹を感じさせるような不穏な気に変わった。


「…っ…!」


その異常な変わり様に、咄嗟に構えた俺を庇うようにして立ち上がったその後ろ姿に目を見張った。



「…美子…?」


「大丈夫。少し話すだけだから。」


本当なら止めなければならない状況だと分かっていた。守護者として、【応龍】のために戦うことが責務であり名誉であるからだ。


…だが、振り返った美子の目があまりにも真っ直ぐで、その言葉に宿る力強い意志が眩しく、歩き出したその背をただ見つめた。




『…シシシシ!!オマエ、シッテルゾ!!オレラヨウカイモ、タカマガハラノカミドモモ!!ミンナミンナ、オマエヲネラッテルンダ!!』


笑いと怒りが入り混じったような声でそう叫ぶと、魑魅がいる巨木の腹から十メートルほどある丸太が音もなく飛んできた。


「美子っ!!」


大砲から弾が発射されたかのような光景に、自分でも信じられない程の大声でその名を呼んだ。




「玄武。」




…静かな声でその名を口にした瞬間、美子を目掛けて飛んでいた丸太が停止した。その直後、宙に浮いていた丸太が無数の水の雫となって爆ぜた。その光景は夏の夜空を彩る打上花火のようで、俺は思わず息を呑んだ。


『…ナ、ナンダッ!?オウリュウナノニ、ナンデソノチカラヲツカエルッ!?』


そう言いながら何度も手を振りかざして丸太や岩を飛ばしてくるが、悉く水の雫となって散っていくばかりであった。


「…教えて欲しいことがあるの。どうして町を襲ったの?」


水の花火が舞う中をゆっくりと歩く美子がそう問うと、顔面蒼白の魑魅が僅かに笑んだ。


『…シ、シシシシ!!【ゲンブ】ノチカラガ、ドレクライヨワイノカ、アイボウノチカラガドレクライツヨイノカ、タメシタダケダ!!』


「…じゃあ、町がめちゃくちゃになったのは手長足長のせいだってこと?」


その言葉に、魑魅は笑みを深めて何度も頷いた。


『…シシシシ!ソ、ソウダッ!!オレラハカンケイナイ!!ケッカイヲトオラセテヤッタダケ!!ゼンブゼンブ!!アイツラガワルインダ!!!』


「なら、透夜を連れて行ったのはどうして?」


間髪入れずに問い質す声に、魑魅は笑みを引き攣らせた。


『…シ、シシシシ…ソレハ、アイボウガ、アソビタイッテ、イッタカラ』


「違う。」


…言葉の先を奪った声は、静かだが怒りに満ちていて、俺の知っている少女ではない印象を抱かせた。



「…「遊ぶ」なんてウソつかないで。あなたのアイボウが透夜を連れて行く時、「食べる」って言ってた。それに、わたしがここに着いた時、透夜はケガしてた。…あなたがやったんでしょ?」


そう言って美子が顔を上げると、視線の先にいる魑魅が小さく悲鳴を上げてガタガタと震え出した。


…俺は後ろ姿しか見えなかったが、その背はまるで雷霆(らいてい)を翔る龍を見ているような、崇高な恐ろしさを感じた。



『…マ、マテ!クルナッ!!ヤメ、ウッ…!?』


慌てふためく魑魅に向かって美子が手を向けた瞬間、黒い水の輪が首に巻き付いた。


『ウウゥ!!アアァアッ!!ハナセッ!!』


悶える魑魅は最後の足掻きとばかりに丸太や岩を飛ばしてくるが、やはり水の雫となって爆ぜるだけであった。


…しかし、先刻までと違う点が一つだけあった。小さな粒となって散ったはずの雫が、まるで意思を持っているかのように一箇所に集まって形を成していた。



「…町を襲ったことも、透夜を傷付けたことも、ウソをついて逃げようとしたことも、全部許せない。…だから、さよなら。」



美子が別れを告げた次の瞬間、個体を成していた液体がまるで蛇のような線を描きながら空を滑って行った。そしてそのまま、木の股で足掻く魑魅の腹を貫いた。



…断末魔の叫び声を上げながら消えていく妖怪と共に、禍々しかった世界が色彩を取り戻していった。その光景を言葉もなく見つめていると、風が俺の頬を撫でて彼女の髪を揺らした。



「…よしっ、お話終了!ありがとう、玄武!」


明るい声でそう言った少女は振り返って俺の元まで走って来た。


「お待たせ、透夜!帰ろう!」


笑顔と共に差し出された手を見つめてから、再度少女の顔を見上げた。



(…何故、笑っているのだろうか……生きて帰れる安堵か?それとも滑稽に映ったのか…?)


その笑顔の意味が解らずただ見つめていると、更に笑みを深めて口を開いた。


「帰ったら、いっぱい遊ぼうね!わたしが教えてあげる!楽しいこと、いっぱい!」


その言葉に心が微かに震えた。そしてあの、何とも言い難いものが胸を締め付けて鼓動を速めた。



(…俺は、知らない、解らない。持つことを許されず捨ててしまったから……だが、知りたいと思ってしまった。生きたいと願ってしまった。彼女のようにとー…)



痛みを感じるほどに高鳴る胸を押さえて一つ瞬きをした。そして、ゆっくり手を伸ばして彼女の手を握った。すると突然、その手を強く引かれた。余りにも突然だったからか、俺の身体は引かれるままに動き、そのまま美子を下敷きにするような体勢で地面に倒れた。




「…?…?」


いまいち状況が把握できずに美子の上で固まり続けていると、下敷きになっている美子が笑い始めた。


「あはは!わたしが引っ張って、透夜が倒れたからわたしの勝ちね!」


「…勝ち…?」


今のが勝負であったことに呆然としてしまう。だが、口を開けて大笑いする美子を見つめていると、何だかむず痒い気持ちが湧いてくる。


「よっ、こいしょっ!」


「…!?」


急に世界が反転したかと思ったら、今度は俺が下、美子が上になって見つめ合った。


「今度はわたしが透夜をひっくり返して上になったからわたしの勝ちだよ!」


悪戯が成功したかのような、少し艶のある笑みが目に映って今度は胸が握られたように痛んだ。


「よしっ!じゃあ今度は鬼ごっこね!透夜が鬼だから、十数えたら追いかけてね!」


素早く立ち上がってそう言うと、背を向けて山路を駆けていってしまった。残された俺は、消えた背中をただ見つめていた。




(…「帰ろう」と言ったかと思ったら、いつの間にか勝負をしていて、今度は鬼ごっこ……俺が鬼だと言っていたが、あれは一体ー…)


思案を巡らせていると不意に腕を叩かれ、その方を見てみると式神が隠し布を俺に差し出していた。


(…そう言えば、何故式神を使役できた…?陰陽道を修めている訳でも玄武の加護がある訳でもないはずだが…)


増える謎に頭を悩ませるも、頬を撫でる風に靡く長い髪が思い出されて軽く笑った。


(…幾ら考えても、何もない俺に分かるはずなどなかったな。…知るために、彼女の手を取ったのだから…)


頭を整理し、式神から隠し布を受け取ると立ち上がって美子が消えていった方を見つめた。


「…先ずは追い掛けよう。知るのはそれからでも遅くない。」


独り言を呟いてから見上げる式神に手を翳した。すると、何も持っていなかった式神の手に提灯が現れ、山路を走り出した。


「…鬼ごっことやらが勝負の一種なら、今度は俺が勝たせて貰うぞ、美子。」


宣誓の言葉を口にしてから俺も式神の後に続いた。…高鳴る鼓動は少し苦しかったが、一歩一歩と地を蹴るごとにあの笑顔に近付くのだと思うと、自然と駆ける足は速度を上げていったのだった。






続く…

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