議論が終わる時とはいつか
当たり前過ぎて文章としての構築が不可能だが、とりあえず分かることだけ書き記すことにしよう。
ここでは、単純化したMGTOWとフェミニズムの対決、議論のやり方と、それを先頭に立って何らかの発信をしている人達について言及する。
またそれをする場所についてはTwitterであることを前提とする。
彼らのやり方の中でも特徴的なのは、"弱い人間の吊るし上げ"である。これは特に拡散されたり共感が得られ易く、何万RTもされる。
バズること=正しさという誤解と衆愚に迎合することで得られる際限のない他者からの承認欲求が彼らの行動を招いていることは容易に推察できる。
だがバズるということは言論の単純化もなされており、リプライも大量に付くために特に言論の不一致性が発生しやすい。
特に言語能力に優れる者が見れば一目で論駁可能性があると看破されるそれに、そういうリプライが大量に付くだろうことは容易に推察可能だ。
それに弱い人間に勝てるのは法則に照らし合わせて当たり前のことであって、勝ったと喜んでいる様子そのものが疑問の対象となる。
疑問とは即ち、
勝利条件とは言わないが、私の提示する価値観の中では疑問の追求が論破に繋がっている。
疑問を追求すると相手が黙り込むというのはこの世界の常識であり、大原則だが、もしそれを議論に持ち込んだのならそれと同じことが成立するという仮説に基づいて私は行動している。
それに基づいて絶対的に疑問を追求し続けてはいるが、結局議論し続けると相手が答えない段階に到達してブロックされたり、無視されたりするし、そうした理由も提示されていないので、この仮説について何かを確かめる術もなく延々と疑問の繰り返しにはなっている。
ただこれが成果を生んでいないとは思っていない。少なくとも疑問とは相手を論駁するための手順である。疑問を呈することで相手が返答できなければそれまでだし、その過去を積み重ねることで相手を信用できない人間に貶めること(信用毀損)が勝利条件であると私は思っている。
だから、もし相手が私の意見に反論できなかったり、議論が相手の行動によって途中終了しても、それを持って信頼できない人間としての過去を相手に与えることに成功した時点で勝利になるのではないだろうか?
私がある文献から得た情報でも信頼感が人間の基本的価値観であることが示されている。エーリッヒ・フロム
非常に単純なことである。どれだけ表面的な議論の内容が正しくても相手のツイートを遡った時に1年、2年、5年に渡って議論を途中終了している事実が発見されたり、ツイートを消去している過去が発掘されたらその人間性そのものを問うことが可能となるからである。
少なくともこれは地道ではあるが確実な勝利の条件である。人間の基本的価値観である信頼できる過去というものを逆説的に相手の沈黙を引き出すことで破壊する。
そういう過去を積み重ねることで、結果的に外部の人間がそれを眺めた時、声の大きなバズりツイートを取るか、ツイートに返信していない過去をどう見るかの問題である。
といってももっと簡単な価値観を表明するなら、疑問を呈して、議論を続けて相手が無視し始める段階に到達して、そこで私は潔く引くわけである。
相手が返信しないことを咎めるつもりはない。ただ、そうやって返信もできない人間であるという過去を相手に蓄積させる。陰湿な手法ではあるが、粘着質ではないし、潔く身を引いているという点でこちらが咎められることもない。
ただ、相手はそうして返信もできない人間であるということが暴露されるだけだからだ。
正義の皮肉とは、相手を評価するタイプの皮肉である。
相手を評するように見せかけた皮肉でもいいし、何かを諦めたことを揶揄して評価する形でもいい。とにかく相手が一歩後ろに下がったであろう少しの譲歩でも見逃さず、相手を評価しながら皮肉を込めていくのである。
そこまで話を持っていけば次はまた蹴落としが効くし、それをさらに自己完結させ手話を繋げれば完全に議論を終了させられる。
ただそこまでするのも面倒なので議論上の勝ちよりは情報工作上の目標達成を優先して実行するとリソース不足を解消できる。