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シグ=ロウの様子はいつも通り見目麗しいのに、笑顔の奥に圧を感じる。
怒ってる。
それだけで、ひどく泣きたくなった。
彼に嫌われるのが怖い。
好きな人に、呆れられるのは怖い。
「ごめん、なさい……」
温かいスープを飲んだ後なのに、声がかすれてしまった。
なんだろう。体が弱ってるから、気力もいつも通りにはいかないのかな。
「アマレット」
「あのね、どうしようもなく私が邪魔だったら、シグ=ロウはいつでも私を捨ててね」
シグ=ロウの返事を聞きたくて、でも聞きたくなくて私はシーツを握りしめ、早口でしゃべる。
「あなたの言うとおり、私は軟弱で非力よね。その上、怒りっぽくて、王女様との約束も守れない。今回は助かったけど、いつもそうとは限らない。私なんかより、もっと可愛くて優しい人の方が、シグ=ロウの為になるし、愛玩動物として相応しいと思う……」
自分で言ってて落ち込む。
泣いてしまったら彼に面倒くさい女って思われるかもしれないから、必死で堪える。
迷惑ばかりかける上に泣き虫、なんて最低だ。
でも、涙声になるのは許してね。
「シグ=ロウが固まった。面白いものが見られたわ」
声に誘われ顔を上げると、イ=タン様がゆったりと部屋に入って来たところだった。
豊かな金髪が床まで届いて、なお廊下に続いている。昨日、床の掃除をしといて良かった。綿ぼこりはないはず。たぶん。
どうしてここに王女様が……ああ、あの場所で助けてくれたのはシグ=ロウだけじゃなかったっけ。
「王女様、料理を届けられなかったけど、シグ=ロウの首を刎ねないでくださったんですね。ありがとうございます」
ベッドの上から失礼とは思いつつ、急いで頭を下げた。
王女様の命令は絶対だったはずだ。彼が今、無事でいられるのは王女様の采配あってのことだろう。
それなのに。
「冗談だったんでしょう?」
「冗談よ」
低い声のシグ=ロウと笑みを含んだ王女様の笑い声に、私の感謝は一蹴されてしまった。
え、本当に? 私、真剣に悩んでたのに。
王女様は長いまつげに縁どられた目を、にいと細めた。
「それよりアマレット。居間にこれがたくさんあったわ。持って帰っていいかしら」
「これ?」
「とても気に入ってるの。もっとじっくり眺めたいわ」
イ=タン様は四本ある手にそれぞれ、レース編み(クロッシュレース)のショールや、テーブルドイリーを持っていた。居間や客間に飾ったり、敷物にしたりしていたものだ。
「あ、はい。お好きなだけ、どうぞ」
それ以外に正しい答えがあっただろうか。
おずおずと頷く私に、王女様は赤い唇を右側だけ吊り上げた。
「料理も美味しかったけど、これが欲しかったの。こんなにたくさんあるのなら、最初からこの家に来ればよかった。まあ、シグ=ロウが邪魔ばかりして、ちっともあなたとお近づきになれなかったんだけど」
シグ=ロウが邪魔? 王女様が仲良くなりたかったのは彼じゃなくて、私の方ってこと?
「え、でも、王女様はシグ=ロウのことが好きだって」
「アマレット、そろそろ寝たら?」
……なんて雑な話の遮り方だろう。
思わずシグ=ロウを見ると、彼はひどく難しい顔をして私から視線を逸らす。
空気を読まない王女様は吠えるように笑った。
「アマレット。私はあなたに興味があって料理を頼んでいたの。それなのにいつだって、シグ=ロウが出しゃばって、ちっともあなたと話ができなかったのよ」
「私に、興味? 私なんて、あなた方に比べたら何もできない人間の小娘ですけど」
謙遜でもなく正直な気持ちを告げると、はるか雲の上の身分の相手は、うっとりと手にしたレースに頬ずりした。
「この消えない蜘蛛の糸、とても素敵じゃない。彼のネクタイがあなたの手製と聞いて、話がしたいと思っていたの。おまけに美味しい料理も作れると自慢されたからには、注文するのが礼儀というものでしょう」
「礼儀なら一度で十分でしょう」
私のすぐ隣で、シグ=ロウが苦々しげに吐き捨てる。
「一度目は礼儀。二度目からは好意よ」
王女様はひどく上機嫌。いくらか彼女自身の威圧感に慣れてきたとはいえ、挑発的に発達した犬歯を見せるのは心臓に悪いからやめてもらいたい……。
「ふふ、もう一つ、面白いこと教えてあげる」
王女様の視線が絡みつき、私は身動きができなくなった。
「王の腹心のシグ=ロウが、下級魔族の住むこの層にわざわざ住処を移したのは、あなたのためよ」
「王女様、そろそろお帰りの時間ですよ」
「上層階だと人間なんて、瞬きひとつする間に食べられてしまうから。ご丁寧に侯爵から男爵に降格までして、ね。ご苦労なこと」
「イ=タン様」
今まで聞いた中で、最低音の声だった。
怖い。
シグ=ロウを振り返るのがめちゃくちゃ怖い。
一方王女様は、
「あなたを怒らせるのは得策ではないわね。あぁ、夜毒虫のビスクは別の日でいいからちゃんと作ってちょうだい。コートレットが今のところ一番美味だったわ」
王女様は楽しげにばしっと尻尾で床を叩くと、足音も立てずに部屋から出て行った。
大量のレースを抱えて。
しん、と部屋が静まり返る。
遠くで甲高い鳥の鳴き声がした。
そろそろとベッドの脇に座るシグ=ロウを見上げると、彼は苦虫をかみつぶしたような顔で私を見下ろしていた。
「……僕が君を捨てるとか。愛玩動物とか。君の認識はいったいどうなっているんだ」
唸るような声に、私はクッションを盾のように抱きしめて「だって」と呟いた。
だって、冷静になればなるほど、シグ=ロウがどんなつもりでここに連れてきてくれたのか、わからないんだもの。
シグ=ロウは髪をかき上げた。
「僕にとって何の価値もない人を、わざわざ魔界に連れてきて一緒に住むと思うかい?」
「料理人兼、ペットくらいには気に入ってくれてるのかな、とは思ってた、けど」
臓腑の底からため息を吐かれた。
ため息で髪が揺れる。
あれ?
「君が好きだからに決まっているだろう。僕は君が森を彷徨っていた、あの怒りに燃える美しさに心奪われたんだから」
……え?
「イ=タン様は性格的にも権力的にも厄介だから、なるべく君と接触させないようにしていたんだ。それなのに……君は勝手に死にかけたり、他の男に色目を使ったり、挙句に僕の愛を疑っている。僕は散々だ」
ぶつぶつと文句を言うシグ=ロウ。
「あ、そうだ。あれからどうなったの。あの、トルネル族と」
他の男と聞いて、薄情ながらようやく彼らを思いだす。いつもは紳士的なシグ=ロウが忌々しげに舌打ちをした。め、珍しい。
「大鎌使いはここにはいない。トルネル族の方はとりあえず、一階でスラッシュが面倒を見てる。本人は体がまだ動かないくせに、ここで下男として働く気満々みたいだ」
「でも、目が」
「僕が治した。目玉を入れ替えるなんて簡単だよ。それより、僕の話」
「は、はい」
抱きしめていたクッションを引きはがされて、私は背筋を伸ばした。
シグ=ロウのくすんだ青い色の瞳が、まっすぐに私に向けられている。
「君はとても可愛い。笑ってるのも、絶望に我を忘れている姿も。くるくる動く姿もいい。その器用な両手が作り出す料理も好きだよ。それに僕は君が怒っているのを見るのが、一番好きだ。君の瞳が紫色の炎を灯すのがいい。僕が作る宝石の参考にさせてもらってる」
顔が、熱い。そ、そんなに褒めないで……ん? 宝石作り?
「シグ=ロウの仕事って、人間を堕落させたり、殺したりするんじゃないの?」
「君は僕を何だと思ってるんだ」
呆れ返ったように首を振って、シグ=ロウはきっぱりと言った。
「僕には僕の美意識がある。宝石は何世紀経っても残るから、やりがいがある。人なんて殺しても、どうせ百年後には誰も覚えていないだろう」
彼は悪魔なんだし、本になったり噂になったりして残る場合もあるんじゃないかしら、とは思ったけど、それは今どうでもいい。
「ごめんなさい。私、シグ=ロウのことをあまり知らなくて。わずらわしく思われてしまうんじゃないかと思って、聞きたくても聞けなかった、から、勝手に不安になったり、怒ったりしてた」
貴族階級をわざわざ変えてまでここにいるのは私の為だって、知らなかった。
宝石作りをしていることも。
人を殺していないことも。
ようやくシグ=ロウが少し笑った。
その目は、仕方ないなって言うように優しくて。
「いいよ。この際だ。何でも答える。僕は君を嫌わない。こんなに好きなのに嫌えないよ」
いろんな言葉が頭に浮か……べば良かったんだけど、あいにく聞きたいことはたった一つになっていた。
「私も、シグ=ロウを好きでいて、いい?」
「おかしいな。僕は君もそのつもりだろうって、ずっと前から思ってた」
間髪入れずに返ってきた言葉と、拗ねたように顔をしかめるシグ=ロウ。
私はにやけそうになるのを誤魔化したくて、シグ=ロウの唇にキスをした。
一瞬で行われたそれに、シグ=ロウは目を丸くして……まるで蕾が花開くように、ふわりと笑った。
やばい。嬉しい。どうしよう。彼の笑顔が傍にあるだけで、こんなに胸がばくばくする。
「あーあ。夜毒虫のビスク、僕も味見したかったな」
本当に残念そうに言うものだから。
私は真っ赤になった頬を両手で挟んで、怒り顔をわざと作っていつものように返事をした。
「王女様に作るビスク、手伝ってもらいますからね。そうしたら特別に、とっておきの一皿をあなたにあげる」
あなたが初めて私に求めた、出会いのスープを。
【了】
ありがとうございました。